巻のはじめに
修学旅行で奈良を訪れた人々は、東大寺の大仏殿のなかに、一千二百年の人の世の移り変わりをじっと見おろしておられる大仏さまのすがたを仰ぎみることでしょう。さらに西の京へまわって薬師寺の境内にはいると、三重の塔がおごそかにきよらかにそびえていて、遠い奈良時代に咲いた文化の花が、どんなに高いかおりを放っていたかをうかがうことができます。
奈良に残っている多くの彫刻や建築を見れば、わが日本の国の文化は、古代からりっぱで深みのあるものであったことがよくわかりますが、この本でみなさんに話そうとする「和歌」とよばれる短い歌は、奈良時代よりもずっと前、この国がはじめて国としておこったころには生まれていたと思われるので、日本民族の心の花として、長い長い年月を、今日(こんにち)も国民の間に生きてうたわれているのであります。
このようにわが民族の心に根を深くおろした和歌は、五七五七七の五句三十一音から成りたっていて、日本人の心とことばに最もふさわしい調べをもつ詩として、いろいろな人に作られてきました。そして遠い古代から現代にいたる間には、すぐれた作が数多くのこされているのですが、私はいまそれらの中から、若いあなたがたが、生(しょう)がいおぼえていてよい名だかい歌や、おもしろい歌、また有名な人の歌を百四十首ばかりぬき出し、解説や鑑賞の文をそえ、いろいろなお話をも加えました。なるべくわかりやすい歌をわかりやすく説明したつもりですが、古い歌から順にとったので、ことばのむずかしいところもありましょう。そういうところは、お父さんやお母さん、兄さんや姉さんなどにきいて、一しょに読んでください。ことばは多少はむずかしくても、のびのびとした心で読み味わい、そして心に感ずることのできた歌は、暗誦(あんしょう)されてもよいと思います。これらの歌から興味をよびさまされて、みなさんも、和歌を作ってみる心もちになられることが望まれます。また、みなさんが大きくなって、けわしい人生の山々を越えていく時、これらの歌の幾首かは、みなさんの心をなぐさめもし、はげましもすることがあろうと信じます。
昭和三十一年九月
佐佐木信綱
和歌ものがたり
八雲(やくも)たつ 出雲(いずも)八重垣(やえがき) 妻(つま)ごみに 八重垣つくる その八重垣を
(古事記)
須佐之男命(すさのおのみこと)
須佐之男命は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟さんで、たいそう勇気のある方でした。ある時、出雲の国{島根県}の肥(ひ)の川の上流へ行かれますと、年よりの夫婦が、若い娘を中において泣いておりました。どうして泣くのかとお聞きになると、八俣遠呂智(やまたのおろち)という、頭が八つ、尾が八つある大きな蛇が近いうちにやってきて、大事な娘の櫛名田比売(くしなだひめ)をとっていくからでございますと答えました。命(みこと)は、その悪いやつを退治してやろうと決心なさって、年より夫婦に強い酒を作らせ、いろいろとはかりごとをお立てになりました。
やがて、遠呂智がやってきましたが、計略にかかって酒に酔って寝たところを殺しておしまいになりました。
そののち命は、櫛名田比売を妻になされるとて、御殿をおたてになる折から、雲が立ちのぼるのをご覧になり、この歌をおよみになったのです。
【多くの雲が立ちのぼり、そのわき出る雲が八重(やえ)に重なって垣板をなし、妻と一しょにこもるようにと八重垣を造ってくれる。あゝ、その八重垣よ。】
「八雲」は、たくさんの雲という意。「出雲」は、出(い)ずる雲ということ。「八重垣を」は、「八重垣よ」の意(こころ)です。
この話は、和銅(わどう)五年(七一二年)にできた古事記の中に伝えられています。そしてこの歌は、短歌が、五七五七七という形に定まったはじめの歌といわれています。すべて、口伝えに伝えられた古い歌は、意味のはっきりしないことばがあって、いろいろの解釈ができるのです。八重垣についてもちがったとき方がありますが、本居宣長(もとおりのりなが)(一七三〇~一八〇一年)の説によってときました。
右にかかげた図は、チェンバレン教授{一四四ページ参照}の英文でかいた日本噺(にほんばなし)第九の「やまたのおろち」(一八八六年出版)にあるのを借りました。
さねさし さがむの小野に もゆる火の 火中(ほなか)に立ちて とひし君はも
(古事記)
弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)
景行(けいこう)天皇の皇子(おうじ)の倭建命(やまとだけるのみこと)は、お若いときからすぐれて強い方でした。それで、地方のよくない者たちを亡ぼすようにという天皇のご命令を受けて、諸国においでになりました。
東(あずま)の国{関東地方}においでになったとき、相武(さがむ)の国造(くにのみやつこ){地方の長官}がよくない男で、命をだましうちにしようとして、野の中へおつれ申し、火をつけました。命は驚かれたのですが、まわりの草を剣(つるぎ)で刈りはらい、持っておられた火打袋(ひうちぶくろ)から火打石をとり出し、向かい火をつけて、火の勢いを反対の方に向かわせ、悪者どもをすっかり亡ぼしておしまいになりました。後にその所の名を焼津(やきづ)といいました。
それから走水(はしりみず)の海{東京湾口の浦賀水道}をお渡りになる時に、海の神が荒波を立てたので、舟は同じ所をまわるだけで海を渡ることができませんでした。その時、お后の弟橘比売命が、「私がお身がわりになって海にはいります。あなた様はお申しつかりの御用をおなしとげあそばしますように」といって、この歌をよんで、海に身をお投げになりました。そうすると、荒波が自然とおさまって船が進み、命はぶじにお渡りになることができました。
【向こうに峰が立っている佐賀牟(さがむ)の野に、悪者が野火をつけた時、もえあがる炎の中で、私のことを案じて問うてくださいました命(みこと)さま。そのありがたいお心は、忘れることができません。】
という意(こころ)です。
「さねさし」は枕詞(まくらことば)です。枕詞はこれからも度々(たびたび)出て来ますが、あることばを言いだそうとする時に、その前に用いることばで、調べのたらぬのをととのえ、ことばをかざるためにおくのです。枕という意味は、句の頭(かしら)におくゆえとも、朝晩によく用いるものという意ともいわれています。ふつうは五字ですが、ここでは「さねさし」と四字になっています。「さね」は、よい峰、「さし」は、そびえているという意。「さがむ」は地名。「小野」の「小」は、そえたことばで、野のこと。「君はも」は、君(命さま)は、まあ、の意。ああ思えばご親切な方、この方のために私は身をすてますが、君はいつまでもご無事でいらっしゃいますように、という気持がふくまれております。
なお、お話のつづきを申しますと、七日の後に、弟橘比売のおさしになっていた櫛(くし)が海辺に流れよったので、そのお櫛をうずめてお墓ができました。(いま浦賀市走水(はしりみず)には、走水神社がおまつりしてあります。)
命さまは、陸奥(みちのく){東北地方}においでになり、蝦夷(えみし)を平らげてお帰りになる時、足柄山の坂にお登りになって、「吾妻(あづま)はや」と三度およびになりました。「自分の妻はまあ」とおしのびになったのです。それから関東の国々を東(あずま)というようになったと伝えられています。
以上は古事記によってのべたのですが、七二〇年にできた日本書紀には、倭建命を日本武尊(やまとたけるのみこと)とかき野火の出来ごとの相武(さがむ){神奈川県}を駿河(するが){静岡県}としてあります。そうすると、「さがむ」というところが、駿河のうちにあったとおもわれます。(焼津(やきづ)は、やいづといって、いま静岡県にありますが、神奈川県にはありません。)上代(じようだい)のお話ゆえ、いろいろに言い伝えられたのでしょう。
千葉(ちば)の 葛野(かずの)を見れば ももち足(た)る 家場(やにわ)も見ゆ 国の秀(ほ)も見ゆ
(日本書紀)
応神(おうじん)天皇
応神天皇は、歴代の天皇のうちでも、国のはじめの神武(じんむ)天皇についでりっぱな天皇でいらっしゃいました。天皇のみ代には、朝鮮半島からいろいろな文化がはいって来ました。
あるとき、天皇は、近江(おうみ)の国{滋賀県}の莵道(うじ)に行幸(ぎようこう)になりました。そのとき、莵道の方から葛野(かずの)の方をご覧になって、この歌をおよみになりました。
【葛野の広い野原を見わたすと、満ち足りているりっぱな家がたくさん見える。国の栄えているようすがわかってうれしい。】
と、おほめになった歌であります。「千葉の」は漢字でかいてありますが、地名ではなくて、「葛野」にかけた枕詞です。「葛(かずら)」はくずのことですから、たくさんの葉の生(は)える「葛」ということばにかけたわけです。
葛野は山城(やましろ)の国{京都府}にあって、京都のまちの北の方を葛野郡(かどのごおり)といいましたから、今日(こんにち)の京都盆地の平原(へいげん)という意です。「ももち足(た)る」には、いろいろな説がありますが、百千足(ももちだ)る、みちたりているという意味、すなわち、人々の家がたいへん整っているという解釈がいいでしょう。「秀(ほ)」というのは、栄えるとか、上に秀(ひい)でるということで、船の「帆(ほ)」、すすきの「穂(ほ)」、人のほっぺたの「ほ」など、上にあらわれるということばです。
いかるがの 富(とみ)のを川(おがわ)の 絶えばこそ わが大君(おおきみ)の 御名(みな)忘らえめ
(上宮(じようぐう)聖徳(しようとく)法王(ほうおう)帝説(たいせつ))
巨勢三杖(こせのみつえ){六二一年作}
推古(すいこ)天皇の二十九年二月、聖徳太子(しようとくたいし)がおなくなりになったとき、巨勢三杖が悲しみいたみまつってよんだ三首の中の一首であります。
聖徳太子は、申すまでもなく、日本文化のために、非常に功労の多かった方で、有名な十七条の憲法――日本で初めての憲法をおつくりになりました。ここにかかげた聖徳太子のお像は、朝鮮の阿佐(あさ)太子がえがいたと伝え、わが国の肖像画の最も古いものとして、今も皇室のご所蔵になつております。歌のわけは、
【このいかるがの富のお川に水が流れなくなったならば、その時こそ太子の御名が忘れられもしましょう。しかし、この川の流が絶えることがあろうとも思われませんから、永久に太子さまのことを、私は忘れることができないでしょう。】
という意(こころ)であります。
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