わが里に 大雪ふれり 大原の 古(ふ)りにし里に ふらまくは後(のち)
(万葉集 巻二)
天武(てんむ)天皇{七〇七年崩}

 歌は自分のひとりの思いを述べるものですが、時には、先方にうたいかける、そうすると、それに答えるという、贈答(そうとう)という形式があります。《注:「そうとう」は底本のまま。》
 この歌は、天武天皇が、藤原夫人(ふじわらのぶにん)という女の方に贈られた歌です。
 【自分のすんでいるみやこには、今日めずらしく大雪がふった。そなたのいる大原のような古い里(さと)にふるのは、もっとあとのことであろう。大原にいっていて、この大雪を見ないのは気のどくである。】
 大原は同じ飛鳥(あすか){奈良県高市郡飛鳥村}の地で、そう離れていませんから、皇居のある土地と同じように雪がふっているのでしょうが、古くさびれた里にふるのは、みやこよりもおくれるであろうと、からかい半分にお歌いになったのであります。
 これに対して、藤原夫人の答の歌はどうでしょう。


   わが岡の 靇神(おかみ)に言ひて ふらしめし 雪のくだけし そこに散りけむ
(万葉集 巻二)
藤原夫人(ふじわらのぶにん)

 天皇のからかい半分のお歌を受けとった夫人は、これまた、たわむれの歌をよんで、お返ししました。
 【みやこには、大雪がふったとお喜びのようでございますが、その雪は、私のいますこの大原の岡の靇神(おかみ)にいいつけてふらせました雪のかけらが、少しばかりそちらへ散っていったのでございましょう。大雪などとおっしゃるのは、おかしゅうございます。】
という意(こころ)です。負けずにやりかえしてうたわれたところが、おもしろいではありませんか。
 「靇神」というのは、雨や雪をつかさどる神さまのこと。「くだけし」の「くだけ」は、砕けたかけら、「し」は、「それが」と意味をつよめることばです。


   ひむかしの 野にかきろひの 立つ見えて かへりみすれば 月かたぶきぬ
(万葉集 巻一)
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)

 柿本人麻呂は、藤原時代――持統(じとう)天皇から元明(げんみょう)天皇のはじめまで、大和(やまと){奈良県}の藤原に都のあった時代の人です。官位はそう高くありませんが、歌にすぐれていましたので、天皇や皇族のお供(とも)をして、所所(しよしよ)へ行き、歌をささげたのであります。むかしからよくかかれている人麻呂の姿は、たいそう年よりのようですが、それは平安時代に、夢の中で見たのを描いた、それを写し伝えたのです。しかし、人麻呂はあんな老人ではなく、四十そこそこで世を去ったのでした。
 【東の方の野に、朝日がいま出ようとして、その光線がうるわしく立つのが見える。そして、ふり返ってみると、月が今もう西の方にかたむいてしまっている。】
という意(こころ)です。
 この歌は、軽皇子(かるのみこ){のちの文武天皇}が、父君の日並皇子(ひなめしのみこ)をおしのびになって、大和の南の方にある宇陀(うだ)というところで狩をなさったとき、お供をして行って、よんだ歌です。前に長歌(ちようか)という長い歌があって、次に四首の短歌がのっています。短歌は、ふつう一首独立したものですが、時には、いくつもつづけてよまれることがあります。これを連作(れんさく)というのですが、この四首もその例です。そしてこの歌は、連作の三番目の歌で、阿騎野(あきの)の夜明けの雄大な景色をよんだ、調子の高い歌であります。
 私は先年、この阿騎野へ行ったことがあります。東の方はずっと平原になっていて、後の方には吉野地方の山が遠くみえます。そこの宇陀中学からたのまれて、この人麻呂の歌を書いたのが歌碑(かひ)となって立っております。
 また、大和歴史館ができた時、その中の一室の万葉室に、私の選んだ題材で、「阿騎野の朝」というりつばな壁画を、中山正実画伯がかかれました。前のページの写真がそれです。


   信濃路(しなのじ)は 今の墾道(はりみち) 刈株(かりばね)に 足踏ましなむ 履(くつ)はけわが夫(せ)
(万葉集 巻十四)
東人(あずまびと)の妻(つま)

 文武(もんむ)天皇の大宝(たいほう)二年(七〇二年)から元明(げんみょう)天皇の和銅六年(七一三年)まで十二年かかって、美濃(みの){岐阜県}から信濃(しなの){長野県}を通る吉蘇路(きそじ)(後には木曽街道(きそかいどう)といった)ができあがったのでした。これは、その新道(しんどう)ができて人人が通るようになって間もないころ、その道を通って出かける夫におくった歌で、信濃の国の女がよんだのです。
 【あなたのおいでになる信濃街道は、近ごろ新しく拓(ひら)いた道ですから、切株(きりかぶ)でけがをなさるといけませぬ。くつをはいておいでなさいませ、わが夫よ。】
という意(こころ)で、女心のやさしさのあふれた歌です。「かりばね」は、木や竹の切株のことで、木や竹のしげった林をきり開いて道を造ったそのころのようすもしのばれ、また地方の人などが、ふだんは、くつをはかないで歩いたことの知られる歌です。
 万葉集巻十四は東歌(あずまうた)の巻といわれて、関東地方の人の作った歌、うたっていた歌が大部分で、都か きていた人の歌も少しまじっています。《注:行頭に一字分の欠があり、「都から」と思われる。》


   銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝(たから) 子にしかめやも
(万葉集 巻五)
山上憶良(やまのうえのおくら)

 山上憶は、人麻呂とほぼ同じ時代の人ですが、人麻呂よりも少し後に生まれて、ずっと長生きをしました。
 憶は若いときに、遣唐使(けんとうし)という、中国へ行く使いの属官(ぞくかん)として、数年あちらにおりました。帰国してから、いろいろな役について、後に筑前守(ちくぜんのかみ){今の福岡県知事}という役になりました。
 この歌は、憶良がわが子のことを思ってよんだ、父性愛のあふれた作で、
 【金であるとか、銀であるとか、玉であるとか、そういうものも何になろうぞ。それらはいずれもすぐれた宝物で貴(とうと)いものであるが、子にはとうてい及びもつかない。】
という意(こころ)です。金のことを「こがね」といいますが、また「くがね」ともいいます。「しかめやも」ば、「及ぶことができようか、とてもできないことである」の意。「しく」は「追いつく」ことです。《注:「ば、」は底本のまま。》
 憶良には、このほかにも子供を思ってよんだ歌が数首あります。また、貧しい人々に同情してよんだ貧窮問答(ひんきゆうもんどう)という名だかい長歌があります。人麻呂はもっばら情をうたった叙情(じよじよう)詩人、憶良は社会詩人、次にのべる赤人(あかひと)は景をうたった叙景(じよけい)詩人、虫麻呂(むしまろ)は伝説をうたった伝説詩人として、万葉集の中でもそれぞれすぐれた歌人であります。

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