わかの浦(うら)に 潮(しお)満ち来(く)れば 潟(かた)を無(な)み 葦辺(あしべ)をさして 鶴(たず)鳴きわたる
(万葉集 巻六)
山部赤人(やまべのあかひと)
山部赤人は、人麻呂と並べてたたえられた人ですが、身分は低い人でした。人麻呂と同じように、天皇や皇族のお供(とも)をしては歌をささげました。この歌は聖武(しようむ)天皇のお供をして紀伊(きい)の国{和歌山県}の和歌浦(わかのうら)へ行ったときによんだ長歌のあとにある歌です。
【和歌の浦に潮がみちてくると、今まであった干潟(ひかた)がなくなったので、そこらにいた鶴がとび立って、向こうの方の葦(あし)の生(は)えている所をさして、鳴きながらとんでいくことよ。】
というのです。干潟のところに潮がみちてき、白いつばさをひるがえした鶴が、青々とした葦辺の方へとんでいくという景色は、いかにも絵のように美しかったであろうとおもわれます。
私は、昭和十年の春、和歌山県の藤代(ふじしろ)というところに有馬皇子(ありまのおうじ)の碑をたてるというので、行ったことがあります。そのとき、和歌浦のそばの家で歌の会があったので参りました。その会にきた和歌山市の観光課の人の話すには、「今でも毎年十二月ごろになると、鶴が飛んで釆ます。去年は特に多くて、数えたところでは、五十八羽もいました。向こうの方の、万葉の歌にある名草(なぐさ)山のふもとに、藻屑(もくず)川が流れています。その川のそばには今も葦(あし)が生(は)えています。」ということでした。鶴の習性や運動は、千年前も今日(こんにち)も変わっていませんでしょうから、こちらの和歌山市の岸の方に、干潟がなくなったので、向こうの名草山、今の紀三井寺(きみいでら)の方をさして、鶴がとんでいったというのであります。
「かたをなみ」は干潟がなくなったのでの意。「み」は「風をいたみ」などの「み」です。何々がこれこれなので、という意味を表わします。ところが、高い波を男波(おなみ)、ひくい波を女波(めなみ)といいますので、片男波(かたおなみ)ということばがあると考える人がありますが、それはまちがいです。
かつしかの 真間(まま)の井(い)を見れば 立ちならし 水汲(く)ましけむ 手児奈(てこな)しおもほゆ
(万葉集 巻九)
高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)
下総(しもうさ){千葉県}の葛飾(かつしか)に、真間{市川市国府台の下}の手児奈という美しい娘がいました。若くてなくなったその娘の墓でよんだ歌です。
【かつしかの真間にわきでておる井の水を見ると、この井のそばに立って水を汲(く)んだとおもわれる、美しい手児奈のことが思い出される。】
の意。前は長歌がそっていますが、それには、りっぱな家の娘のようなよい着物も着ず、くつさえもはかない貧しい家の娘ながら美しかったとありますから、いま自分がふんでいる井のそばの土は、美しい娘がくつをもはかぬ足でふみ平(な)らしたその同じ土かと見ると、いたいたしく思われる、の意がこもっています。
高橋虫麻呂は、赤人と同じころに奈良におり、関東地方へ役人として来ていたのでしたが、古い伝説や風俗をしらべることがすきで、このかつしかのてこな、摂津(せつつ)のうないおとめ、水江(みずのえ)の浦島子(うらしまのこ)や、筑波(つくば)山のかがひ(歌やおどりで楽しむ集まり)などをも長歌によんでいます。
前にあげた東人(あづまびと)の妻の歌は、万葉集の十四の巻の東歌(あずまうた)の中にはいっていますが、あの関東人(びと)の東歌一巻は、この虫麻呂があつめたものでなかろうかと思われます。そうしてその東歌の巻からヒントを得て、大伴家持は万葉集の二十の巻にある防人(さきもり)の歌をあつめたものであろうと思われます。
妹(いも)として 二人(ふたり)作りし わが山斎(しま)は 木高(こだか)く繁(しげ)く なりにけるかも
(万葉集 巻三)
大伴旅人(おおとものたびと){七三一年没}
大伴旅人は、わが国上代からの武門の名家に生まれ、武将としては征隼人持節(せいはやとじせつ)大将軍となり、文化人としては和歌に長じ、中国の学芸にも精通していました。
太宰帥(だざいのそち)、すなわち九州総督ともいうべき官について赴任しましたに、間もなく愛する妻が病気で亡くなりました。二年の後、大納言(だいなごん)になって、奈良の都に帰りましたが、妻とともに作ったわが家の庭が、留守(るす)の間にすっかり木々の繁っているのを見て、この歌をよみました。
「山斎(」は、大きい庭園のことです。
【妻と二人で、心をあわせて造りいとなんだわが家の庭は、九州にいっておった間に、こんなに木々も大きく繁った。】
妻はいないということをあらわに言わないところに、武人らしい、せつなく、激しい悲しみがにじんでいます。
土佐日記(とさにつき)というのは、平安時代に、紀貫之(きのつらゆき)が、土佐{高知県}の国司(こくし)の任を終って都に引きあげて来た時の文章ですが、都に帰って、荒れはてた庭に小松の丈(たけ)の伸びているのを見て、任地で死んだ娘のことを思い出し、新しい涙にくれるところで日記は終っています。{四三頁参照}ともに、すぐれた文人の、いとおしい老境を伝えてあわれであります。
旅人は、この歌をよんだ翌年の秋、その生(しよう)がいをとじたのでありました。
旅人(たびびと)の 宿(やど)りせむ野に 霜(しも)降(ふ)らば わが子羽(は)ぐくめ 天(あめ)の鶴群(たずむら)
(万葉集 巻九)
遣唐使(けんとうし)使人(しじん)の母{七三三年作}
天平(てんぴょう)五年四月、遣唐使の船が難波(なにわ){大阪市}の港を出るとき、その船に乗っていく遣唐使の属官(そくかん)のおかあさんが、わが子を思って、長歌と、この短歌とをよんでおくったものです。《注:「(そくかん)」は底本のまま。》
【中国へつかいに行くこの旅人たちは、途中で野宿するであろうが、もし霜がふったならば、空をとぶ鶴の群よ、天からおりてきて、私の子どもを羽でつつんでやっておくれよ。】
という、いかにも母親の情のあふれた歌です。「羽ぐくむ」は、羽でつつむということから、後に、養育するという意味になりました。
天(あま)とぶや 雁(かり)を使に 得(え)てしかも 奈良の都に 言(こと)つげやらむ
(万葉集 巻十五)
遣新羅使(けんしらぎし)使人(しじん){七三六年作}
朝鮮は、むかし、新羅(しらぎ)、百済(くだら)、高麗(こま)という三つの国に分かれておりました。天平(てんぴよう)八年六月、新羅への使が、奈良の都を出て、難波(なにわ)から船出をし、源戸内海を通っていく途中の歌が、万葉集の巻十五に百何十首ものっています。
この歌は、その中の一首で、遣新羅使の属官(ぞくかん)の一人がよんだ歌であります。
【天を飛ぶ雁(がん)を、どうか使に得たいことである。そうしたら、妻や子がいる奈良の都へ、今無事で、こうやって航海中であるということを告げてやろうものを。】
という意(こころ)です。これは筑前(ちくぜん){福岡県}の糸島郡(いとしまぐん)引津(ひきつ)というところでよんだのです。「天とぶや」の「や」は、そえたことば。「得てしかも」は、得たいことであるという意。雁(かり)を使にやるというのは、むかし、中国で、蘇武(そぶ)という人が匈奴(きようど)という民族に捕(とら)えられて、遠い砂漠地方に十九年もおりましたが、漢(かん)の都へたよりのしようがないので、雁(かり)――がんの足に手紙をつけて、たよりをしたということがあるので、たよりのことを、歌では、雁(かり)のたよりとか、雁(かり)の玉章(たまずさ)などといっています。
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