橘(たちばな)は 実(み)さへ花さへ その葉さへ 枝(え)に霜(しも)降(ふ)れど いや常葉(とこは)の樹(き)
(万葉集 巻六)
聖武(しようむ)天皇{七五六年崩}

 さきほど申しましたように、神武(じんむ)天皇から応神(おうじん)天皇、次に聖武(しようむ)、それから後に明治(めいじ)天皇と、このお四方(よかた)が日本の国の歴史の上で、とりわけだいじな天皇がたでいらっしゃるのですが、今年、昭和三十一年は、聖武天皇がおなくなりになってから、ちょうど一千二百年に当たります。
 天平(てんぴよう)八年の十一月に、葛城王(かつらぎおう)という皇族の方が、自分は皇族であるよりは、姓(せい)を賜(たま)わって臣下になりたいからと申し出られたので、天皇は、橘(たちばな)という姓をおさずけになりました。そのときに、前途を祝っておよみになったお歌であります。
 【橘はまことによい木である。それは、実がよいし、その上に花がよい。花はいかにも香(かおり)がよい。またその葉も美しい。そうして、この枝に霜が降っても、葉がとこしえに変わらないめでたい木である。そういう橘という姓をこのたび与えたからして、いよいよしっかりつとめるように。】
というお祝いのお気持をこめられた歌であります。葛城王は、諸兄(もろえ)という名ですが、そのときから、橘諸兄(たちばなのもろえ)といって、ずっとお仕えし、大臣として功労の多かった人であります
 前のページの図は、江戸時代に描かれたものですが、奈良の東大寺にある「四聖(しせい)の御影(みえい)」というお掛物(かけもの)で、上は、聖武天皇、右の上はあとに出る波羅門(はらもに)僧正(そうじよう)、その下は行基(ぎようぎ)菩薩(ぼさつ)、左は良弁(ろうべん)僧正です。


   春の苑(その) くれなゐにほふ 桃の花 した照(て)る道に 出(い)でたつをとめ
(万葉集 巻十九)
大伴家持(おおとものやかもち)

 旅人の子の家持は、若い時から歌をよんでおり、万葉集は家持があつめたものであろうといってもよいくらいです。
 この歌は、天平勝宝(しようほう)二年の三月、越中守(えつちゆうのかみ){今の富山県知事}をしていたときに、よんだのです。
 【春の園(その)には、くれないの色が照り映(は)えている。桃の花がかがやくばかりに咲いている道に、若いむすめが立っている。花と若いむすめと、まことにこの園のながめは美しい。】
 この歌は、いかにも美しい色どりで、絵のような歌であります。これは、ある日に実際みた情景をうたったと思われますが、心の中には、当時一種のはやりであった樹下美人(じゆかびじん)の図柄などを思いうかベていたであろうかとの説もあります。ここにかかげたのは、正倉院(しようそういん)に今もあるびょうぶに描かれた樹下美人の図の一部です。
 万葉集には、家持の歌が四百首あまりものっており、いろいろな歌があります。
 聖武天皇が奈良の大仏をお造らせになる時、ぬり料(りよう)につかう金(きん)が少なくなっておこまりになりました。そこへ、天平勝宝元年(七四九年)二月に陸奥(みちのく){宮城県}小田郡から金が出まして、さしあげたので、大そうおよろこびになりました。その時、家持がお祝い申した歌に、
   すめろきの 御代(みよ)さかえむと あづまなる みちのく山に くがね花さく
 【わが天皇のみ代がいよいよ栄える前兆として、東国地方なる奥州(おうしゆう)の山に黄金(こがね)の花がさきでたことであります。】
 いかにもおごそかな調子の歌です。
 強くいさましい歌には、
   ますらをは 名をし立つべし 後(のち)の代(よ)に 聞きつぐ人も 語(かた)りつぐがね
 【男児(だんじ)たるものは、すぐれた名を立てるべきである。後の世に聞きついだ人が、また語りついで、いい伝えてゆくように。】
という意(こころ)でありますが、これは、山上憶良の「男子(おのこ)やも むなしかるべき 万世(よろずよ)に 語りつぐべき 名はたてずして」という歌によってよんだので、いかにも大丈夫風(ますらおぶり)の歌です。
 清らかでしずかな歌には、
   わが宿(やど)の いささむら竹 ふく風の 音(おと)のかそけき この夕(ゆう)べかも
 【自分の家のいささかある群竹(むらたけ)に、吹く風の音がかすかにきこえるこの夕方であるよ。】
の意(こころ)で、静かな春の夕方に、庭にある一むらの竹に対している作者の姿がみえるようで、そよそよとささやく葉ずれの音と一しょに、かすかなためいきさえも聞えるかと思われます。
 そうかとおもうと、次のような、ひどい、滑稽(こつけい)な歌もあります。
   石麻呂(いわまろ)に われものまをす 夏やせに よしといふものぞ 鰻(むなぎ)とりめせ
   やすやすも 生(い)けらばあらむを はたやはた 鰻(むなぎ)を捕(と)ると 河に流るな
 この歌は二首つづいた連作です。吉田石麻呂(よしだのいわまろ)という人は非常にやせた人でした。その人に親しかった家持がじょうだんにおくったのです。
 【石麻呂さんに私はものを申しあげる。あなたはふだんからやせている。夏やせには、うなぎを食べるとよいということであるから、とってきて食べるとよい。】
 【いや、そうはいうものの、いかにやせておっても、生きていればよい。もしかもし、うなぎをとろうとして、やせっぽちのそなたは、川に流されなさるなよ。気をつけたまえ。】
 石麻呂には気のどくですが、おもしろい歌です。「むなぎ」は、「うなぎ」のことです。


   父母(ちちはは)も 花にもがもや 草枕(くさまくら) 旅は行くとも ささごてゆかむ
(万葉集 巻二十)
丈部黒当(はせつかべのくろまさ)

 天平勝宝七年に、九州の海辺を守るために、東国の地方から遣(つか)わされた防人(さきもり)(崎を守る者の意)の一人、遠江(とおとうみ){静岡県}の若者、黒当のよんだ歌です。この防人たちの歌は、巻二十に九十三首でています。当時兵部少輔(ひようぶのしようふ)という役をしていた家持がいいつけてあつめさせたのですが、東語(あずまことば)という関東なまりのままによんであって、思想史の上からも用語史の上からも注意すべき作が多いのです。歌の意(こころ)は、
 【おとうさんやおかあさんが、このうつくしい花であったらいいがなあ、そうしたら、旅の道でも、大事にささげもって行こうに。】
 遠い九州へ出かける前に、両親への別れをつらく思って、やさしい純真な心でよんだ歌です。こういう真心(まごころ)から生まれた歌は、千二百年の後の今の私たちの胸にもひびきます。「草枕(くさまくら)」は、むかしの旅のこととて、宿屋にとまれない時には、草を枕にして野宿をもしましたから、それが旅の枕詞(まくらことば)となったもの。「ささごて」は「ささげて」の東語(あずまことば)です。


   波羅門(はらもに)の 作れる小田(おだ)を はむ烏(からす) 瞼(まなぶた)腫(は)れて 幡幢(はたほこ)に居(お)り
(万葉集 巻十六)
作者不詳(ふしよう)

 この歌は、だれがよんだかわかりませんが、おもしろい歌です。
 【波羅門僧正が作っている田のいねをたべるからすは、仏さまのばちがあたって、まぶたがはれてしまって、あのように、お寺のお堂の前にたててある「ばん」という旗にとまってじっとしている。】
の意です。
 波羅門僧正(バラモンともいいますがハラモニが古いよみです)は、インドの人で、徳の高いお坊さんでしたが、日本をしたって、中国を回り、仏哲(ぶつてつ)という音楽家を伴(ともな)って、天平八年に日本へ来ました。そのとき、奈良にいた行基(ぎようぎ)というえらいお坊さんは、難波津(なにわづ){大阪府の海岸}まで迎えに行きました。
 聖武天皇は、僧正に奈良の大安寺(だいあんじ)というお寺をお与えになりました。そういう寺には、寺領(じりよう)といって、寺の持っている田がありました。インドも日本と同じく稲を作る国ですから、僧正は自分で耕作しておりました。
 そういう尊い僧正の作った稲を烏(からす)が食べ荒らしたので、「まなぶたがはれて」といったのですが、それは、からすの目が、なんだか、はれぼったいように見えるところからよんだのです。「まなぶた」は、めのふたということで、まぶたと今はいいます。
 天平勝宝四年四月に、東大寺の大仏がいよいよできあがりましたので、行幸(ぎようこう)があり、まことに盛んな開眼供養(かいげんくよう)が行われました。その開眼の尊い式を波羅門僧正がおつとめしました。仏さまができあがっても、開眼の式がすむまでは、ただ銅で作ったもの、木で作ったものなのですが、その式で、導師(どうし)のお坊さんが筆をとって、眼を開くという儀式をしまして筆をおきますと、いよいよ仏さまになられるのです。この開眼の天平宝物筆(てんぴようほうもつひつ)が、今も正倉院(しようそういん)に伝わっております。宮内庁のお許しを得て、ここに写真をかかげます。長さは六五・二センチです。


   天(あま)の原(はら) ふりさけ見れば 春日(かすが)なる 三笠(みかさ)の山に 出(い)でし月かも
(古今集)
阿倍仲麿(あべのなかまろ){七七〇年没}

 阿倍仲麿は、霊亀(れいき)二年(七一六年)の六月、遣唐使の派遣された時、留学生として吉備真備(きびのまきび)と一しょに唐へ行きました。そのとき、仲麿は十六歳でした。そうして、学問を勉強し、玄宗(げんそう)皇帝に仕え、名も朝衡(ちようこう)と改めていました。天平勝宝二年(七五〇年)に帰朝することとなりましたところ、乗った船が暴風のために安南(あんなん)へ流され、沈没したと伝えられたので、詩の友だちであった李白(りはく){唐の有名な詩人}は「日本晁卿(につぽんのちようけい)辞帝都(ていとをじす)、片帆百里(へんぱんひやくり)繞蓬壺(ほうこをめぐる)……」という詩を作って弔(とむら)いました。しかし、さいわいに無事で唐の都へ帰り、宝亀(ほうき)元年あちらでなくなりました。唐土(もろこし)にあること五十年あまり、らくな生活をしていましたが、故郷の日本のことは忘れがたいので作った歌です。
 【広い大空をはるかにながめやると、今、月が出る。ああ、自分は今こんな遠い唐土におるけれども、あの月は、春日山のうちの三笠山を出た月であるかまあ。なつかしいことであるよ。】
 遠い海外で月を見て、故郷の山を出る月を思いおこし、胸のうちの深い情を月によせたのであります。

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