から衣(ころも) きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ
(伊勢物語)
在原業平(ありわらのなりひら){八八〇年没}

 在原業平は、もとは皇族でしたが、兄の行平(ゆきひら)とともに臣下となって、在原という姓(せい)をいただいた人です。
 平安時代のはじめごろ、六歌仙(ろくかせん)(僧正遍照(そうじようへんじよう)・在原業平・文屋康秀(ふんやのやすひで)・喜撰法師(きせんほうし)・小野小町(おののこまち)・大友黒主(おおとものくろぬし))といわれて、六人の歌のすぐれた人がおりましたが、業平は、その中でもすぐれていました。
 この歌は、京都から関東へ、何人か一しょに旅をしたとき、三河(みかわ)の国{愛知県}の八橋(やつはし)というところで、川のそばに、かきつばたが美しく咲いているのを見てよんだ歌です。
 【長く馴(な)れ添(そ)うた妻が都にいるのに別れて、かようにはるばると来たこの旅を、心ぼそく思うていることである。】
という意ですが、もう一度この歌を声をあげてよんでごらんなさい。
 この歌の中にかきつばたの五文字が折りこまれています。「から衣」の「カ」、「きつつ」の「キ」、「つましあれば」の「ツ」、「はるばる」の「ハ」、「旅」の「タ」の五文字です。こういうのを折句(おりく)といいます。「から衣」は唐土(もろこし)風の着物のこと(西洋風の着物を洋服というのと同じです)、そうして「きつつなれにし」(着馴(きな)れてきたの意)の枕詞(まくらことば)です。「つま」は妻ですが、衣のはしの褄(つま)の意をかけ、「はるばる」ははるかに遠くの意ですが、着物を洗(あら)い張(は)りするなどという「張る」にかけたので、そういうのを歌の縁語(えんご)といいます。
 こうして業平は、武蔵(むさし)の国までくだりました。その旅のようすは、伊勢物語(いせものがたり)におさめられ、この歌もその中にあるのですが、この文章を、「東(あずま)下(くだ)り」といいます。(写真のすずり箱は、伊勢物語によって、江戸時代の尾形光琳(おがたこうりん){一七一六年没}が作ったものです。)
 隅田川(すみだがわ)で、白い鳥の、くちばしと足との赤いのが水の上に遊んでいるのを見て、都では見かけない鳥だから、船の渡守(わたしもり)に名を聞くと、「都鳥(みやこどり)です」といったので、
   名にしおはば いざ言(こと)問(と)はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
とよみました。歌の意(こころ)は、
 【都鳥という名のとおりならば、都のことを知っていようから、物をたずねたい。都鳥よ、都にいるわたしの思っている人は、無事にくらしているだろうか、どうであろうか、と。】
というのです。
 伊勢物語のここのところの文章に、「限りなく遠くも来(き)にけるかなとわびあへる」、京からここまで、限りもなく遠く来たことよと、同行の人々が旅のわびしさを話しあっている、と書いてあります。そのころは、二十日(はつか)ばかりもかかったのでした。今は、京都から東京まで、汽車でも六時間半、飛行機なら伊丹から一時間たらずでこられます。千年以前と今日とをくらべて、私たちの旅行は、なんとらくになったことでしょう。


   花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
(古今集)
小野小町(おののこまち)

 小野小町はいずこのだれの子ということがよく知られず、出羽守(でわのかみ)小野良貞(よしさだ)の子であるともいいますが、たしかでありません。顔かたちがすぐれて美しく、歌に秀(ひい)でていましたが、年をとってからは、少し暮らしにこまっていたということだけは、文屋康秀(ふんやのやすひで)に送った歌によってわかります。この歌は、
 【桜の花の色は、あせてしまったことよ。むだにふる長雨によって。】
というのが表面の意で、裏には、花のようにうつくしかった自分のすがたはうつろいあせたことである。むだに世を経(へ)てゆく物思いをしておる間に、の意です。世に経(ふ)るに、雨のふるをいいかけています。ながめというのは、ここでは長雨の「ながめ」にかけてありますが、心に思うことのある時、空などをつくづくと見つめていることをいうのであります。


   たらちねの 親の守りと 相(あい)そふる 心ばかりは せきなとどめそ
(古今集)
小野千古(おののちふる)の母

 小野千古が、陸奥介(みちのくのすけ)、今でいえば東北地方の県の副知事になって赴任(ふにん)する時に、その母のよんだ歌であります。
 京都から関東を経(へ)てはるばる奥州(おうしゆう)へ至る間には、逢坂(おうさか)、不破(ふわ)、清見(きよみ)、足柄(あしがら)、勿来(なこそ)、白河(しらかわ)等、多くの関所がありました。当時のならわしで、通行券を持たない者は自由に往来(おうらい)することが許されなかったのでした。当時のそういう事情を知っていると、この歌がよくわかります。歌の意は、
 【わがいとし子が幾百里(いくひやくり)の末の陸奥(みちのく)にゆくにつけて、老(おい)の身ながら一しょにいきたいと思うが、それはできない。しかし自分の心は、このいとし子の身に伴(とも)なって陸奥に通(かよ)っているのである。母の自分がわが子にそえてやる心だけは、ここかしこの関所の関守(せきもり)――番人よ、通行券がなくてもせきとめてくれるな。】
という意です。いつの世にもかわらぬ人の親の至情が思われて、感じの深い歌であります。


   久方(ひさかた)の 月の桂(かつら)も 折るばかり 家の風(かぜ)をも 吹(ふ)かせてしがな
(拾遺集(しゆういしゆう))
菅原道真(すがわらのみちざね)の母

 菅原道真は、九州大宰府(だざいふ){福岡県}の天満宮(てんまんぐう)や京都の北野神社など天神さまといわれるお宮にまつられているりっばな方であります。菅原家は代々学者の家でありました。
 この歌は、道真のおかあさんが、わが子が試験に及第して役につくようにと祈ってよんだ歌です。
 むかし、中国の伝説では、月の中に桂の木があると思われていました。月の中のことですから、その枝を折るということは、むずかしいことです。そのように、むずかしい試験に合格して、代々学者の家である名誉(ほまれ)を一層あげてほしいという祈りの心をこめてよんだのです。
 【月の中にあるといわれる桂の木の枝を折るのは、むずかしいけれども、どうぞ、むずかしい試験に無事及第して、わが家の家風を吹かせたい。りっばな学者になってほしいものである。】
 こういう気持のこもった歌であります。このようにえらいおかあさんでありましたから、その子の道真もりつばな人となり、学者というよりは政治家になって、右大臣(うだいじん)までものぼりました。後に道真は、左大臣の藤原時平(ときひら)のためにねたまれて、九州の太宰府(だざいふ)へ流され、不幸な日を送りましたが、多くのりっばな詩や歌を世にのこしています。
 「久方の」は、「日」「月」、「天」「光」など、天象(てんしよう)に関することばにかかる枕詞(まくらことば)です。


   底(そこ)ひなき 淵(ふち)やはさわぐ 山川(やまがわ)の 浅き瀬(せ)にこそ あだ波は立(た)て
(古今集)
素性(そせい)

 前にいいました六歌仙の中の一人の僧正(そうじよう)遍照(へんじよう)は、もとは吉峰宗貞(よしみねむねさだ)というて、仁明(にんみよう)天皇にお仕えしていましたが、天皇のおなくなりになったのをなげいて、坊さんになりました。その子の玄利(はるとし)は、清和(せいわ)天皇に仕えていましたが、後に父のすすめによって坊さんになり、名を素性といいました。おとうさんと同じように歌がじょうずでした。この歌は、
 【底の深い淵は、さわぎはしない。山川の浅い瀬では、ジャブジャブと、むだな波がたって、音がするものである。】
という意です。この歌は、すぐれた人はおちついている、つまらぬ人はやたらにさわぐものであるという教訓の意にもとることができます。
 また、この歌について、後世(こうせい)の軍(いくさ)ものがたりに、次のような話がでています。室町(むろまち)時代の末、太田道灌(おおたどうかん)という軍の大将が、ある晩、夜討(ようち)(夜、敵をせめにいくこと)に行きました。まっくらな山路(やまみち)を行ったところ、そこに川があって、家来たちは、どう渡ったらよいか、思案にくれていました。道灌は落ちつきはらって、「自分のあとについて来い」といって、川を先に渡って行きました。水の音のジャブジャブする、波のたつところだけを行くものですから、みんなは、心配しながらついて行ったのですが、無事に向こう岸へ渡りつき、そうしてその夜のいくさに勝ったのでした。
 家来が、「あそこの川は、これまで、お渡りになったことがないであろうに、どうしてあのように都合よく渡ることができましたか。」とたずねると、道灌は、この歌を話して、「自分は、ふだん古い歌をよんでいるから、この歌が役だったのだ。」といいきかせたということです。{七五ページ参照}

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