久方(ひさかた)の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ
(古今集)
紀友則(きのとものり){九〇五年没}
紀友則(きのとものり){九〇五年没}
紀友則は、次にのべる紀貫之(きのつらゆき)の親類で、古今集の四人の撰者のうちの一人です。歌の意(こころ)は、
【日の光が、いかにもうらうらとして、のどかな春の日であるのに、どうして、静かな心がなく、落ちつかないで、桜の花が散っていくのであろう。】
こう、かんたんに説いてしまうと、趣(おもむき)がとぼしいのですが、よく味わってみますと、春の日の静けさと、あわただしそうに花の散るのとが、よい対照をなしていて、味わい深いすぐれた歌であります。なお、いうまでもありませんが、むかしは、花といえは桜のことをいったのです。
「久方の」は、前にいったように枕詞(まくらことば)で、ここでは、日の光の「日」という代わりに用いたのです。下(しも)の句のはじめに、「なぜ」とか、「どうして」ということばを補って解釈すると、「しづ心なく花のちるらむ」が、よくわかります。
友則の歌の中に、かわったのがありますから、ついでにお話をしましょう。
あきちかう 野はなりにけり 白露(しらつゆ)のおける草葉(くさば)も色かはりゆく
歌の意(こころ)は、
【秋が近く野はなった。白露のおいている草の葉も、段々と色がかわってゆく。】
という、なんでもない歌ですが、この歌にはことばの秘密があります。それは、古今集には 「物名(もののな)」という一体の歌四十七首が二十巻のうちの一巻となっています。物の名をほかのことばにして、いわば秘密によみいれるのです。たとえば、「山たちはなれ行く雲」に「橘(たちばな)」をかくし、「今や籬(まがき)のきりぎりす」に「山柿(やまがき)の木」をかくしいれるたぐいで、その二つも、この歌も、古今集にのっています。
この歌には、「秋近う野は成りにけり」という中に「きちかうの花」という七字が、たくみにはいっているのです。キチカウは、ききょうのことで、漢語の桔梗(きちかう)をそのままによんだのです。日本語では、「ありのひふき」といいましたが、それは一般にはつかわれませんでした。
結ぶ手の 雫(しずく)ににごる 山の井(い)の あかでも人に 別れぬるかな
(古今集)
紀貫之(きのつらゆき)
紀貫之(きのつらゆき)
紀貫之は、醍醐(だいご)天皇のみ代に、歌人としてすぐれ、古今集を選ぶ四人の撰者の一番上にたった人です。
貫之は、文章にも秀(ひい)でていました。土佐守(とさのかみ)として土佐{高知県}に数年おりましたが、任期がみちて都へ帰ろうとする直前に、娘がなくなりました。貫之はそれをなげいて、「土佐日記」という日記を書きました(前の旅人のところでも申しました)。また、宇多(うだ)上皇(じようこう)が大堰川(おおいがわ)に御幸(みゆき)になったときに「大井川御幸和歌序(おおいがわごこうわかのじよ)」という文をも書いております。
この歌は古今集に「志賀(しが)の山越(やまごえ)にて、いし井のもとにて、物いひける人の別れけるをりによめる」という詞書(ことばがき)が、歌の前についています。詞書というのは、この歌はどういう場合によんだということを記した文のことです。そのころ、京都から琵琶湖の方へ出るには、逢坂(おうさか)の関(せき)を越えてゆく東海道の道と、もう一つ、志賀の山越といって、京都の北の方から山越えをし、湖水に出る近道とがあったのです。
山道を通って、志賀へ越える途中に、山の水がわき出ているところで親しい人にあったが、自分は近江(おうみ)の方へくだるのであり、その人は京都へ帰るのであるから、清水(しみず)のもとで別れをおしんだのです。その気持をよんだのがこの歌で、
【水を飲もうとしてすくう手の間から、しずくがぽとぽと落ちて、山のわき水がすぐにごってしまい、もう少し飲みたいと思っても飲めないので、あきたらず思うが、そのように、親しい人と十分話もしないうちに、別れなければならぬことである。】
という意です。
「山の井」というのは、今の井戸とはちがって、山の中にわき出ている清水のこと、底が浅いので、ちょっとしたしずくが落ちても、すぐにごつてしまいます。にごると飲むことができないので、もう少し飲みたいと思っても飲めないのが飽きたらぬように、十分満足しないのに人に別れるという意味に用いたもの。「むすぶ」はすくうことです。
鴬よ などさはなくぞ 乳(ち)やほしき 小鍋(こなべ)やほしき 母や恋しき
(袋草子(ふくろぞうし))
作者不詳
作者不詳
幼い女の子のよんだ歌としてのせます。幼い女(むすめ)がまま母のもとにおりましたが、小さい土鍋(どなべ)があったのを、その子にはやらなかったので、鴬の鳴くのをきいてよんだ歌であるといいます。
【鴬よ。なぜそんなになくのか。乳がほしいのか、小さい鍋がほしいのか、おっかさんが恋しいのか。】
という意味です。「さはなくぞ」は、そのようになくのか、と問いかけたのです。
俊頼口伝(としよりくでん)という本には貫之の娘のよんだ歌としてあり、百人一首一夕話(ひやくにんいつしゆいつせきわ)には、この女(むすめ)が大きくなって、鴬宿梅(おうしゆくばい)といわれる歌をよんだのであると出ています。貫之の娘の歌ではなく、もっと後にだれかがよんだのですが、そういう言い伝えがあるのでここにのせました。
君が代は 千代に八千代に さざれ石の いはほとなりて 苔のむすまで
(和漢朗詠集(わかんろうえいしゆう)――安貞(あんてい)書写本)
作者不詳
作者不詳
古今集には「わが君は 千代に八千代に さざれ石のいはほとなりて 苔のむすまで」となっていますが、はやくから、うたい物として広く人々にうたわれたもので、文治(ぶんじ)元年(一一八五年)に書いた「古今集註(こきんしゆうちゆう)」の中に「此歌(このうた)ツネニハキミガヨハチヨニヤチヨニトイヘリ」とあり、安貞二年(一二二八年)にかいた和漢朗詠集――宮内庁の書陵部(しよりようぶ)にある本に「君が代は」とあります。
この歌が、国歌として、今のような節(ふし)でうたわれるようになったのには、こんなわけがあるのです。
明治二年九月、薩摩(さつま){鹿児島県}の島津藩では、藩士三十人を横浜におくって、当時日本に来ていたイギリスの軍楽長(ぐんがくちよう)フェントンについて軍楽を習わせました。その時フェントンが、「どこの国にも国歌というものがあるのだが、日本の国歌は」と尋ねましたので、大山巌(いわお){のちに公爵}らが、平生このんで歌っている「君が代は」の古歌(こか)を選んで示しました。翌三年、明治天皇が東京の越中島(えつちゆうじま)で、薩摩、長州(ちようしゆう){山口県萩の毛利氏}、土佐(とさ){高知県山内氏}、肥前(ひぜん){佐賀県鍋島氏}の軍隊をご親閲(しんえつ)なさろうということになって、その際に間に合わせたいと、急にフェントンに作曲をうながし、それが当日吹奏されたのです。しかしその曲は十分なものでありませんでしたので、九年に軍楽長中村祐庸(すけつね)がこれを改めるように上申(じようしん)し、十三年十月に、宮内省(くないしよう)の一等伶人(れいじん)の林広守(ひろもり)が雅楽(ががく)のしらべによって作曲したものが採用されました。これが今日(こんにち)うたう「君が代」の曲で、それに海軍省傭(やとい)教師のユッケルトが和声(わせい)をつけました。そして、二十一年、その譜が、条約を結んでいる諸外国に「大日本礼式(だいにつぽんれいしき)」として送られ、二十六年八月、祝日大祭日唱歌(しゆくじつたいさいじつしようか)と決定したのです。(以上は、小田切信夫(おだぎりのぶお)氏が昭和四年に刊行された「国歌君が代講話」にくわしく出ているのによったのです。)
歌の意は、
【君(天皇)のみ代は、千年も八千年も、もっともっと長く栄えるであろう。小さい石が大きな岩となり、それにこけが生えるまで、永遠に。】
というので、まことにめでたい歌であります。
筑波山(つくはやま) 端(は)山しげ山 しげけれど おもひ入るには さはらざりけり
(新古今集)
源重之(みなもとのしげゆき){一〇〇〇年没}
源重之(みなもとのしげゆき){一〇〇〇年没}
源重之は、宮中に仕えた人で、お召(めし)によって、百首の歌をささげました。この歌はその中の一首です。
「筑波山」は、常陸(ひたち)の国{茨城県}にある形のよい山で、「端山」は、はしにある山、「しげ山」は、木のしげった山のことです。歌の意は、
【筑波山は、端にある山や、木のしげっている山があって歩きにくいけれども、分け入ろうという深い決心で進むのに対しては、そんなことはちっともさまたげにはならぬことであった。】
という意。
私は、近ごろ、ヒマラヤのマナスル登頂の記事を読み、写真を見、また一行の中の一人にあっていろいろの話を聞きもしました。世界で八番目という高い山と筑波山とでは、あまりに比較にならないのですが、登頂をするという決心のもとに、登り得られたのであると思います。
山に登るのみならず、学問をするにも、仕事に当たるにも、勇気と決心があれば、なしとげることができるという、教訓をふくんでいるといえる歌であります。
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