春の日の うららにさして ゆく舟は 棹(さお)のしずくも 花ぞちりける
(源氏物語 胡蝶巻(こちようのまき))
紫式部(むらききしきぶ)

 紫式部は一条(いちじよう)天皇のみ代に、上東門院(じようとうもんいん)というお后に仕えた女官(じよかん)であります。そのころ女の人で文学にすぐれた人がたくさん出ました。「枕草子(まくらのそうし)」という随筆を書いた清少納言(せいしようなごん)、歌人では和泉(いずみ)式部や赤染衛門(あかぞめえもん)なども有名ですが、中でも紫式部は、「源氏物語」五十四帖(じよう)をあらわしました。日本文学のうちで最もすぐれたものを残したばかりでなく、世界でも十世紀のころに、あれほどの女の小説家は出ていなかったのであります。
 源氏物語の中にも、七百九十余首の歌がはいっており、家集(かしゆう)の中にも歌が多いのですが、ここにあげたのは、源氏物語の中の胡蝶の巻にのっている歌です。物語のなかで姿も心も一番美しい紫上(むらさきのうえ)という夫人の住む六条院の庭に、秋好(あきこのむ)中宮(ちゆうぐう)という、これも美しいお后を迎えて、花の盛りに池に舟をうかべてお遊びのあった日に、女官の一人がよんだことになっています。
 歌の意は、
 【春の日の光がうららかにさし、花の影の映っている池の面(おも)をゆるやかに棹さしてゆく舟は、棹をつたってこぼれ落ちるしずくまでが、花のちるのかと思われる。】
というので、いかにものどかな、明るい、美しい春の一日のこころが、ゆたかにのびのびとよまれています。「さしてゆく舟」の「さして」には、日がさすことと、棹をさすこととが、つながるようになっています。


   もろこしも 天(あめ)の下(した)にぞ ありと聞く 照る日の本(もと)を 忘れざらなむ
(新古今集)
成尋阿闍梨(じようじんあじやり)の母

 成尋阿闍梨は、後三条(ごさんじよう)天皇の延久(えんきゆう)四年三月に、六十をすぎてから、海を越えて中国にわたり、仏教の霊地である天台山や五台山に遊び、宋(そう)の都、汴京(べんけい)に入っては帝の命によって雨を祈り、その効があらわれて善慧大師(ぜんえだいし)という号を授けられ、印度(いんど)から来た高僧に従って経文(きようもん)を翻訳する仕事もしました。参天台五台山記(さんてんだいごだいさんき)という八冊の名高い著書があります。この歌は、阿闍梨の母が別れに臨んでよんだ歌十一首の中の一つで、八十になったおばあさんのよまれたのですが、しつかりした歌です。歌は、
 【私にはくわしいことはわからぬが、御身(おんみ)の行かれる遠い唐土(もろこし)も、やはりこの広い世界のうちにあるということである。彼方(あちら)へ行っても、故郷の日本の国を忘れないでくれるように。】
という意(こころ)です。近世の藤田東湖(ふじたとうこ)の書いた東湖歌話(とうこかわ)に「女ながらもますらをに恥ぢざるべし」とたたえています。
 このおかあさんの書かれた日記一冊が伝わっています。平安時代には、かげろふ日記とか、和泉式部日記とか、紫式部日記とか、自らの伝記ともいうべき日記がいろいろありますが、この阿闍梨の母の日記は、阿闍梨が、生まれたばかりのあかちゃんであった時のことなども書いてあって、母がいかに子どもについて苦心するかということの知られる、母性愛のあふれた、実にめずらしい日記です。その中には短歌百七十首、長歌一首もあり、平安時代の文学史を飾るものです。
 成尋阿闍梨も歌をよみまして、詞花(しか)集、万代(ばんだい)集などにも出ていますが、ここには新千載(しんせんざい)集にあるのをかかげます。それは、「入唐(につとう)の時よめる」という詞書(ことばかき)があって、
   しら波を わけてぞ渡る 法(のり)の舟 さしけむ人の 跡をたづねて
歌の意(こころ)は
 【はるばると白波を分けて、もろこしへ渡ろうとする。法の舟をさしていったむかしの人たちの跡をたずねて。】
というのです。霊仙三蔵(りようせんさんぞう)以下、かの地へ渡った多くの高僧のことをさし、かつ、自分の宗派の祖師智証大師(ちしようだいし)円珍(えんちん)(八一五~八九二年)が渡唐の時によんだ歌、「法の舟 さして行く身ぞ もろもろの 神も仏も 我をみそなへ」の一二句に思いをよせてよんだのであります。


   ふく風を なこその関と 思へども 道も狭(せ)にちる 山桜かな
(千載(せんざい)集)
源義家(みなもとのよしいえ){一一〇六年没}

 源義家は、八幡(はちまん)太郎義家ともいう、源氏の武将です。この歌は奥州{奥羽地方}を征討に行ったとき、勿来関(なこそのせき){福島県の南の方}でよんだのです。
 勿来(なこそ)というのは、漢字では「来る勿(なか)れ」と書いてあって、来てはいけないといふ意味の、変わった地名です。《注:「いふ」は底本のまま。》
 義家が、そこを通ったときに、折から桜の花がひらひらと美しく散ったのを見て、
 【吹く風は、ここへ来てはいけないという勿来の関であると思うけれども、今ここを通ると、道もせまくなるほど、桜の花が散りかかっておることよ。】
という意をよんだのです。
 八幡太郎のこの勿来の関の話は、歴史の本にも出ていて、有名ですが、むかしの武将が、いくさに強く武芸にひいでていた一面、こういう風雅な才能を持っていたと伝えられることを知ってもらいたいと思います。
 なお、源義家の父頼義(よりよし)が、奥州の安倍貞任(あべのさだとう)宗任(むねとう)等を衣川(ころもがわ)の館(たて)に攻めた時、貞任らがふせぎきれないで城のうしろからにげ落ちようとしたのを見て、義家は、「きたなくもうしろを見するものかな。しばし引きかへせ、物いはむ」といいました。貞任がふりかえったので、義家が弓に矢をつがえつつ、
   衣の館はほころびにけり
と歌の下の句をよみかけますと、貞任は馬をとめ、冑(かぶと)のしころをふりむけて、
   年をへし糸のみだれのくるしさに
と上の句をつけました。それで、義家は矢をはずして敵将を逃がしてやりました。「さばかりのたたかひの中にも、やさしかりける事かな」と古今著聞集(ここんちよもんしゆう)に出ています。
 こういうふうに、一首の歌を二人でよむのを連歌(れんが)といいます。万葉集に大伴家持と尼との連歌が出ており、拾遺集(しゆういしゆう)にもたくさんでていますが、まけ軍(いくさ)の戦場で、貞任がとっさの間に答えたというのは本当かどうかと思われます。この話をのせた古今著聞集は、鎌倉時代の建長六年(一二五四年)に橘成季(たちばななりすえ)のかいた本です。
 「衣のたて」は、衣川の館に、きもののたての糸のことをいいかけたもの、「ほころび」は衣(ころも)の縁語(えんご)、「へ」「みだれ」「くる」は糸の縁語であやなされております。


   み山木(やまぎ)の その梢(こずえ)とも 見えざりし 桜は花に あらはれにけり
(詞花集)
源頼政(みなもとのよりまさ){一一八〇年没}

 源三位(げんさんみ)頼政は、源頼朝(よりとも)に先だって、平家をほろぼそうとして、成功はしなかったのではありますが、武将としてもえらい人であり、また歌人としてもすぐれた人でありました。
 【山の木は、冬の間は、みな冬がれていて、どの木がどの木ともわからないが、春になって、花が咲くようになると、ああ、なるほど、あれが桜の木であるとわかることである。】
と、いう意です。
 「み山木」の「み」は、「深」という字を書きますが、深いという意はなく、「み」の字を上にそえただけです。「梢(こずえ)」は、「木(き)の末(すえ)」すなわち、木のてっぺんということです。
 この歌は、そういう山の桜をよんだ歌でありますが、幕末の足代弘訓(あじろひろのり)という学者が、その弟子に次のように話しました。
 歌には詠史(えいし)といって、歴史上の人物をよむことがある。この歌は、「大石良雄(おおいしよしお)」という題にするとよい。そのわけは、良雄が国家老(くにがろう)であったころは、「昼あんどん」といわれるくらい、ぼんやりしていた人のようであったが、それが主君の仇(あだ)を討つために赤穂(あこう)浪士の討入(うちいり)という、りっぱなことをなしとげて、はじめてえらい人であることがわかった。ふだんはわからないけれども、何か事があると、人間のえらいことがわかるものである、ということを話したそうであります。歌は、いろいろな風に解することができるものです。
 ふだんはその人の真(まこと)の価(あたい)はわかりませんが、なにか事のあるときには、その人が、よい人であるとか、親切な人であるとか、勇気のある人であるとか、反対に、よくない人とか、親切な心のない人とかいうことのわかるものであります。


   ありそ海(うみ)の 波間(なみま)かきわけて かづく海士(あま)の 息もつきあヘず 物をこそ思へ
(八雲御抄(やくもみしよう))
二条院讃岐(にじようのいんのさぬき)

 二条天皇にお仕えした讃岐という女官(じよかん)ですが、前の歌の頼政(よりまさ)の娘であります。
 【岩や石の多い磯の波間をかき分けて、もぐりこんで働く海士が、息をつくひまもないように、わたくしは物思いをしつづけている。】
 この歌は一句ごとに一音ずつ多いのです。ふつうの歌は五七五七七で三十一字(みそひともじ)といいますが、句によっては、字あまりといって、五音が六音になり、七音が八音になることがあります。「花のいろは」とか「ありあけの月の」とかがそうです。しかるにこの歌は、みなで三十六音あって、和歌としては長いものになっています。それでいて、この歌をよんでみると、三十六音あるように思われません。それは、この歌がすなおな調べになっているからであります。
 この讃岐のよんだ歌、「わが袖(そで)は 潮干(しおひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間(ま)もなし」というのが、その当時人々の間にもてはやされまして「沖の石の讃岐」といわれました。そして、百人一首の中にも出ています。

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