さつま潟(がた) 沖の小島(こじま)に 我(われ)はありと 親には告げよ 八重の潮風
(千載集)
平康頼(たいらのやすより){一一七七年没}
平康頼は、平家の一族でしたが、安元(あんげん)三年、藤原成親(ふじわらのなりちか)や法勝寺(ほうしようじ)の僧俊寛(しゆんかん)などと一しょに、平清盛(たいらのきよもり)のよくないのをにくみ、ひそかに亡ぼそうとはかりました。しかし、そのたくらみがあらわれて俊寛らと共に、大隅(おおすみ)の国{鹿児島県}の硫黄(いおう)が島に流されました。これはその島でよんだのです。
【さつまの海の沖の小さなこんな島に流されたが、さいわいに無事でおるということを親にしらせてくれよ。沖の潮風よ。】
九州の海の果(はて)の離れ島におる身、ことに流人(るにん)の身とて、京都の父母に便りのしようがない。いとせめてと、沖の潮風に頼んだ気もちがあわれです。
平家物語(へいけものがたり)には、「薩摩潟(さつまがた)鬼界(きかい)が島へぞ流されける。……島の中には高山(こうざん)あり。とこしなへに火燃え、硫黄といふもの充(み)ち満てり。ゆえに硫黄が島とも名付けたり。……康頼入道故郷の恋しきあまりに、千本の卒都婆(そとば)を作り、二首の歌をぞ書きつけける。『さつまがた 沖の小嶋に……』『おもひやれ しばしと思ふ 旅だにも なほ古里は 恋ひしきものを』。これを浦に持ちいでて……沖つ白波の寄せては返す度(たび)ごとに卒都婆を海にぞ浮かべける。」とある。その千本の中の一本が安芸(あき){広島県}の厳島(いつくしま)の渚へ流れついたのが、都へはこび伝えられたので、翌年、康頼はゆるされて都に帰ったのでした。
吉野(よしの)山 去年(こぞ)のしをりの 道かへて まだ見ぬ方(かた)の 花を尋ねむ
(新古今集)
西行(さいぎよう){一一九〇年没}
西行は、奈良時代の人麻呂、平安時代初期の業平につづく、すぐれた歌人であります。この歌は、吉野山にこもっておったときによんだ歌で、
【この吉野山の花を見ると、去年木の枝を折っておいて、山の奥の方に分けていく道じるしをしておいたけれど、今年は、去年の道すじをかえて、まだ見ないところの花をたずねて見よう。】
という意です。
これは花見のときの歌でありますが、考えかたによっては、進んでゆく道に、新しい道を切りひらいていこうという、人生行路(こうろ)の意味の歌にもとれるのであります。西行の歌には、そういう心の深い歌が多いのです。
ここに掲げた像は、西行の像の中で最も古いと思われる、鎌倉(かまくら)末期の画をもとにして書いたのです。
またや見む 交野(かたの)のみ野の 桜狩(さくらがり) はなの雪散る 春のあけぼの
(新古今集)
藤原俊成(ふじわらのしゆんぜい){一二〇四年没}
千載集(せんざいしゆう)の撰者として、文学史の上に朽ちぬ名をとどめた藤原俊成は、定家(ていか)の父であり、新古今(しんこきん)時代を築くのに、なくてはならぬ歌人であります。この人が出て、幽玄(ゆうげん)という芸術上の考え方がうちたてられるようになりました。定家があれだけりっばな業績をのこすことができたのも、おとうさんのおかげであります。
【はたしてまた、もう一度見られようか。かた野の桜見物に来て、一夜とまって、雪のように散りかかる花びらを浴びた、春の夜明がたのこの美しさを。】
の意です。あまりの美しさにぼんやりしながら、それに酔いきれずに、「またや見む」と短い人のいのちについて考えているところに、もう平安時代とはちがった、人間の智慧の深まりを覚えるのであります。
「交野(かたの)」は河内(かわち)の国{いま大阪府枚方市}です。「み野」は御狩場(おかりば)であったから、「み」をそえていったのです。伊勢物語に、業平が惟喬(これたか)親王(しんのう)のお伴をしてきて「今狩(かり)する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし……世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」とあるところです。
なお、俊成の名はほんとうはトシナリ、次に出る定家はサダイエ、家隆(かりゆう)はイエタカとよぶのが正しいのですが、音(おん)でよみならわしていますから、それによってふりがなをつけました。
むかしたれ かかる桜の 種をうゑて 吉野を春の 山となしけむ
(新勅撰集)
藤原良経(ふじわらのよしつね){一二〇六年没}
藤原良経は、百人一首には、後京極摂政前太政大臣(ごきようごくせつしようさきのだじようだいじん)として出ています。俊成、定家に歌の指導をうけて、すぐれた名をのこしました。
後鳥羽(ごとば)天皇のみ代には、歌の上手が多く、その六人のそれぞれの歌集は六家集(ろつかしゆう)といって版になっています。それは、俊成の長秋詠藻(ちようしゆうえいそう)、西行の山家集(さんかしゆう)、慈円(じえん)の拾玉集(しゆうぎよくしゆう)、定家の拾遺愚草(しゆういぐそう)、家隆(かりゆう)の壬二集(みにしゆう)、それに良経の月清集(げつせいしゆう)です。
歌の意(こころ)は、
【むかし、だれがこういう美しい桜の花の種をうえて、この吉野を春の山としたのであろう。】
というのです。美しい桜がたくさんさいているというだけでなく、だれがはじめて桜の若木を植えはじめたのであろう、その人のおかげで、たくさんの人が毎年花見のできることであると、物のはじめをとうとんだ、深いこころのこもった歌であります。
元来、吉野は、神武天皇の時から歴史に名がみえており、万葉集にも多くの歌がでていますが、それは、今の桜の名所のところでなく、吉野川に沿って川上の方です。山や水のながめがよかったから離宮ができ、行幸(いでまし)のお伴をして人麻呂や赤人も、長歌や短歌をよんでささげました。吉野山の方は、平安時代になって、だれかによって桜が植えられ、桜の名所になったのでした。
なお、この歌の三句は、本によっては「花をうゑて」とあります。
春の夜(よ)の 夢の浮橋(うきはし) とだえして 峯(みね)にわかるる 横雲(よこぐも)の空
(新古今集)
藤原定家(ふじわらのていか){一二四一年没}
藤原定家は、前にあげた俊成の子です。
万葉集の歌の風(ふう)が古今集でかわり、古今集の歌の風が定家たちの選んだ新古今集でまたかわりました。そのように、歌の道に新しい時代を開いた人であります。
そうして、一般に知られているのは、百人一首を選んだ人であるということです。百人一首は急いで選んだといいましょうか、よい歌ばかりとはいえませんが、とにかく歌の道をひろめたという功はあります。
この歌は、
【春の夜のゆめは、おしまいまで見ないうちに、途中できれてしまって、まだ目ざめぬ心地で、東山の方を見ると、横にたなびいた雲が、山のみねからはなれようとしている。】
という意です。まだはっきりさめぬ夢見ごこちと、春の夜のあけがたのぼうっとしたおもむきが、よく合った歌であります。
コメント