あけばまた 越ゆべき山の 峯(みね)なれや 空ゆく月の すゑの白雲
(新古今集)
藤原家隆(ふじわらのかりゆう)
藤原家隆は、定家と並び称せられ、後鳥羽院(ごとばいん)をめぐる新古今集時代の代表的な歌人であります。「霧たちのぼる秋の夕ぐれ」とよんだ名高い寂蓮(じやくれん)法師のお婿さんになりました。
この歌は旅の歌で、
【夜が明けたらば、また越えてゆかねばならぬ山のいただきのあたりであろうか。大空をわたってゆく月の落ちかかる、あの白雲(しらくも)の立ちこめたところは。】
という意で、「また」の一語に、ここに来るまでの旅路の長かったこと、そしてこれからの前途もはるかなことが心深くあらわされています。ようやく旅につかれ、故郷を思って寝られない夜の思いが美しくよまれています。
道すがら 富士の煙も わかざりき 晴(は)るる間もなき 空のけしきに
(新古今集)
源頼朝(みなもとのよりとも)
源頼朝は、鎌倉幕府をひらいて、日本の武家政治の基(もとい)をきずいた武将ですが、歌をよんだことは、増鏡(ますかがみ)という鎌倉時代のことをかいた歴史物語にも出ています。
これは、鎌倉から京都へのぼる東海道でよんだ歌です
【道の途中で富士の裾をとおったが、いただきからあがる煙がわからなかった。雨が降って空のようすが晴間(はれま)がなかったので。】
という意です。
富士山は、大むかしは噴火山で、万葉集の長歌にも、「もゆる火の」とうたわれており、清和(せいわ)天皇の時(八六四年)に大噴火がありました。ところが、古今集のころには煙が立たなくなり、また、後冷泉(ごれいぜい)天皇のころ(一〇四五~一〇六八)に関東から京都へのぼったことをかいた更科日記(さらしなにつき)には、山のいただきから煙が立ちのぼり、夕方は火の燃えたつのも見えるとあります。前に述べた西行法師は、みちのく{東北地方}へ下る途中で富士を仰いで「風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方(ゆくえ)もしらぬ わが思(おもい)かな」という名歌をよみましたので、富士見西行(ふじみきいぎよう)といって絵にかかれたり、彫刻物(ほりもの)になったりしています。頼朝の上京する時には、雨のために煙が見えなかったので、このようによんだのであります。
箱根路(はこねじ)を わがこえくれば 伊豆(いず)の海(うみ)や 沖の小島(こじま)に 波の寄る見ゆ
(金槐和歌集)
源実朝(みなもとのさねとも)
実朝は十四歳(一二〇四年)の四月に十二首の歌をよんだことが、鎌倉幕府の記録の東鑑(あずまかがみ)という本にでています。またその年、京都で新古今集という歌の集ができて、その中に、なくなった父頼朝の歌がはいったと伝え聞いて、しきりに見たく思っていたところに、京へやった使がもって来たとのことが東鑑に出ております。頼朝の歌は前にあげた「道すがら」の歌と、いま一首選び入れられたのでありました。この事は、実朝が若い時から歌がすきであったことと、親孝行であったことを示しています。
この歌は、
【箱根からの路(みち)を越えて来ると、はるか向こうの伊豆の海の沖の小さい島に、波のよるのが見える。】
というのです。
箱根路は、東海道ではなく、箱根から伊豆山(いずさん)へ下る道で、今の日金山(ひがねさん)の辺(へん)でよんだものと思われます。
話はわきへそれますが、平安時代には、観音(かんのん)信仰といいまして、京都の近くでは、近江(おうみ)の石山観音(いしやまのかんのん)、遠くでは、大和(やまと)の長谷観音(はせのかんのん)へ人々がおまいりをしました。それが、平安時代も末になると、権現(ごんげん)信仰といって、権現さまへおまいりにいくことが盛んになり、後鳥羽(ごとば)上皇などは熊野(くまの)権現へ何十ペんもおまいりになりました。
実朝の父頼朝も、母の政子(まさこ)も権現信仰で、箱根権現へまいり、帰り道に、伊豆山権現へまいりました。これを「二所詣(にしよもうで)」といいました。それで、実朝も度々おまいりをしました。前に述べました日金山からよく晴れた日には十の国と五つの島が見えるというので、十国峠(じつこくとうげ)といいますが、あの辺でよんだ歌です。今、十国峠に、入江為守(いりえためもり)さんの書かれたこの歌の碑が立っています。
前にいいましたように、実朝ははやくから歌をよんでいましたので、承元(しようげん)三年(一二〇七年)十八歳の七月に、十五歳からの歌の中で三十首をぬきだし、京都の藤原定家のもとにおくって批評を求めました。また、二十二歳(一二一三年)の十二月には、六百六十三首の歌を書きぬき、一冊の本として京都におくりました。その歌の中には、実朝の歌としていま世に伝わっている大部分が出ています。それで見ますと、実朝は二十二歳の十二月までに、実にすぐれたたくさんの歌をよんだのです。それから後の二十八歳(一一二九年)の正月に実朝が世を去るまでの五か年と一か月の歌は、一部分しか世に残っていないことは、まことにざんねんです。
なおここに、実朝のすぐれた歌数首をあげましょう。
建暦(けんりやく)元年七月、洪水漫天(こうずいてんにみなぎる)。土民愁歎(どみんしゆうたん)せむことを思ひて、一人(ひとり)奉向本尊(ほんぞんにむかいたてまつり)聊(いささか)致祈念云(きねんをいたすという)
時により すぐれば民の なげきなり 八大竜王(はちだいりゆうおう) 雨やめたまへ
荒磯(あらいそ)に波の寄るを見てよめる
大海の 磯もとどろに よする波 われてくだけて さけてちるかも
太上天皇御書下預時歌(だじようてんのうごしよくだしあずかるときのうた)
大君の 勅(ちよく)をかしこみ ちちわくに 心はわくとも 人にいはめやも
山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも
「大海」のは三浦三崎での作でしょう。「ちちわくに」は拾遺集(しゆういしゆう)の語、とやかくとの意。
前のページに掲げた文字の図版は、京都へ送った歌の集のはじめのところを、定家が自分でうつしておいた一ページです。
春
正月一日よめる
けさ見れば 山もかすみて ひさかたの
あまのはらより はるはきにけり
立春の心をよめる
こゝのへの くもゐにはるぞ たちぬらし
大内山に かすみたなびく
故郷立春
たをらじな 人の垣根の 梅の花 われにて知りぬ 惜(お)しき心は
(寂身(じやくしん)法師集)
寂身{一二四八年没}
寂身は、定家の撰んだ新勅撰集(しんちよくせんしゆう)に、その歌がのっている人です。この歌は、宝治(ほうじ)二年九月によんだ百首の中の一首で、
【よその家の垣根に美しく咲いている梅の花を折りはすまい。惜しいと思う気持は、自分のものの場合でよくわかるから。】
という意。いたずらに、人の垣根の梅の枝を折ってはいけないということを、いましめた歌であります。
私の住んでいる熱海(あたみ)西山(にしやま)の庭の垣根のところに、夏みかんが毎年よくなりますが、半分ぐらいは、道を通る子どもたちが、石を投げたり、棒でつついたり、垣根によじ登ったりして、とってしまいます。私は、この歌のことを時々思い出して、「たおらぬ」ようにしてほしいものだと思っております。
四方(よも)の海 波(なみ)をさまりて のどかなる わが日(ひ)の本(もと)に 春は来(き)にけり
(弘安御百首(こうあんおんひやくしゆ))
亀山(かめやま)上皇{一三〇五年崩}
亀山天皇の文永(ぶんえい)八年に、蒙古(もうこ)から攻めてくる企(くわだて)のあることを高麗国(こうらいこく)の使がいってきました。そうして、天皇が、み位をお子さまの後宇多(ごうだ)天皇にお譲りになった文永十一年の十月に、蒙古の兵が対馬(つしま)に、壱岐(いき)に、筑前(ちくぜん)にきましたが、敗れて帰りました。次の年の建治(けんじ)元年四月には、元(げん)の国の使が来たのを、北条時宗(ほうじようときむね)が鎌倉で斬りましたので、しばらくは何事もなくて、二年後の弘安(こうあん)元年におよみになったのがこのお歌であります。歌の意は、
【四方(よも)の海の波もようやくおさまって、わが日本の国にのどかな春が来た、喜ばしいことであるよ。】
いかにもご安心のお心持が、よくうかがわれます。
この百首の中には、み国を憂えたもうたお歌が数首あります。その中にも、
世のために 身をば惜(お)しまぬ 命(いのち)とも 荒(あ)らぶる神は 照らし覧(み)るらむ
のお歌には、まことに尊い御信念がこもっております。
【世の中のためには、自分の身ひとつは、どうなってもよいと思っていることを、力づよい神さまは御照覧(ごしようらん)になることであろう。】
という意であります。
弘安元年には、前のように御安心になって「四方の海波をさまりて」とおよみになみましたが、その四年の五月から六月にかけて、また蒙古が大挙して九州の博多(はかた)に襲来しました。亀山上皇は、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)におまいりなされ、また勅使(ちよくし)を伊勢(いせ)大神宮にお遣わしになり、身をもって国難に代わろうとお祈りになりました。それはちょうど、前に掲げました「世のために身をば惜しまぬ」のお歌のお心もちであります。さいわいに九州の防禦がよかった上に、閏(うるう)七月一日には大風が吹いて、おびただしい敵の兵船がことごとく沈み、日本国はじまって以来の国難が無事にすんだのでありました。
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