いたづらに やすきわが身ぞ はづかしき 苦しむ民の 心おもへば
(御集(ぎよしゆう))
伏見(ふしみ)天皇{一三一七年崩}

 伏見天皇は、後宇多天皇の次の天皇で、歌に書にすぐれたもうて、万葉集の歌の句をよみいれた歌をもおつくりになりました。このお歌の意(こころ)は、
 【何もせずに安楽におる自分の身がはずかしい。生活のために、いろいろ苦しんでおる人民の心をおもうと。】
 国民、ことに貧しく苦しんでいる民の上(うえ)をおぼしめされる大御心(おおみこころ)のにじみでた御製(ぎよせい)であります。
 なお、御自(おんみずか)らをかえりみたもうたのには、
   天(あま)つ空 照る日の下(もと)に ありながら 曇(くも)るこころの 隈(くま)をもためや
   神やしる 世のためとてぞ 身をも思ふ 身のためにして 世をば祈らず
 歌の上に教えをうけたもうた藤原為兼(ふじわらためかね)よりもまさって、印象のきわめてあざやかなお歌には、
   ぬれおもる 柳のみどり 糸たれて 春雨(はるさめ)青き 庭のゆふぐれ
   ふりすさぶ 朝けの雨の やみがたに 青葉涼しき 風の色かな
   浦かぜは 湊(みなと)のあしに 吹きしをり 夕暮(ゆうぐれ)しろき 波のうへの雨
   月にゆく 夜道(よみち)すずしみ 小車(おぐるま)の すだれを風の 吹きとほすなり
 また、皇后の永福門院(えいふくもんいん)も歌にすぐれたもうて、よいお歌があります。


   朝凪(あさなぎ)に すずき釣りにや 淡路潟(あわじがた) 波なき沖に 船も出(い)づらむ
(草庵集(そうあんしゆう))
頓阿(とんあ)

 頓阿法師は、藤原定家の後なる二条(にじよう)家の歌の学問の正統をうけて、学者として世に重んぜられ、歌人としては、吉野朝(よしのちよう)時代の和歌の四天王としてたたえられていた四人の坊さんの一人です。他の三人は兼好(けんこう)・浄弁(じようペん)・慶運(けいうん)ですが、兼好は、みなさんも知っている徒然草(つれづれぐさ)の作者で、京都の双(ならび)が岡に住んでいて、双が岡の兼好といわれました。(頓阿はよみくせでトンナといいます。)
 この頓阿は、時としてたわむれの歌をもつくりました。朝なぎにの歌の意味は、
 【朝の海がないでいるので、すずきという魚を釣りに行くためであろうか、淡路島(あわじしま)の海の波のない沖の方に、船が出るのであろう。】
 解釈しただけではまじめな歌です。どうしてこの歌がかわっているかというと、前に紀友則の歌のところでいいました「物名(もののな)」なのです。古今集の物名の歌の中に、「いささめに 時まつ間(ま)にぞ 日は経(へ)ぬる 心ばせをば 人にみえつつ」というのがあります。「かりそめに時を待っている間に、日が過ぎてしまった。自分の気持は人にしらせておきながら」という意味ですが、この中に、ささ、松、びわ、芭蕉葉(ばせをば)(ばしょう)の四つをよみこんだのです。頓阿のこの「あさなぎに」の歌には、草の名が十はいっているので、「草名十(くさのなとお)」という題になっています。全部かなに書き直して、草の名をさがしてごらんなさい。
 「アサ(麻)」、「ナギ(水葱)」、「ススキ(薄)」です。「すずき」は魚の名ですが、「ず」のにごりをとれば「ススキ」です。「淡路」は国の名ですが、「アハ(粟)」と「ち」すなわち「チガヤ(茅萱)」がはいっています。(浅茅生(あさぢふ)などともいう茅(ち)です。)次に、「波」の「な」は、菜の花の「ナ」、「沖」は「荻(おぎ)」をかけたのです。「船も」の「も」は「藻(も)」です。「出(い)づらむ」には、まず「い」があります。「イ」は、たたみの表(おもて)にする藺草(いぐさ)のこと。もう一つ「らむ」は「ラン(蘭の花)」のことです。これで十になったでしょう。(なぎは、水あおいの類で、吸物(すいもの)などにいれるので、万葉集の巻十六の歌の中に「なぎのあつもの」という句があります。)
 こういうことは、ことばのたわむれで、歌としてよいことではありませんが、三十一字の中から十の草の名をさがしだすことなどは、近ごろ、はやっているクイズの字をあてはめるのと同じような興味があります。
 次のも頓阿のよんだ歌です。
   とくたたじ さとのたかむら ゆきしろし きゆらむかたの とざしたたくと
 この歌をことばにそって解してみますと、
 【早く出立(しゆつたつ)しますまい。村の竹やぶの雪が白い。消えるであろう方へ行って、しめてある家の戸をたたこう。】
ということで、何のことかはっきりわかりません。わからないはずです。これは「回文(かいぶん)」の体(たい)といって、上からよんでも下からよんでも同じなのです。
 みなさん、上から一回、下から一回よんでごらんなさい。かわった歌ではありませんか。
 この回文の体の歌は、平安時代の末の藤原清輔(ふじわらのきよすけ)の奥義抄(おうぎしよう)という本に、
   むら草に 草の名は若(も)し 備(そな)はらば 何ぞしも花の 咲くに咲くらむ
とあるのが古いので、頓阿はそれにならったのです。また江戸時代に、正月二日に枕の下にしいて寝て、よい初夢を見るという宝舟(たからぶね)の絵にかいた、
   長き夜の とをのねぶりの 皆目ざめ 波乗り船の 音のよきかな
というのも同じです。
 いま一つ頓阿の歌をいいます。
   よも涼(すず)し ねざめのかりほ 手枕(たまくら)も ま袖も秋に へだてなきかぜ
 ある日頓阿がこの歌を紙にかいて、弟子の坊さんにふろしきを持たせて、親しい友だちの兼好法師のところへ使(つかい)にやりました。
 歌の意を訳しますと、
 【夜もすずしい。目のさめたところは、仮(かり)に建てたそまつな家、枕にしてねている手も、両方の袖も、秋になったので、へだてない風がすずしい。】
 ざっと、こんな意味ですが、兼好は、この歌がよくわからないので、しばらく考えていましたが、ようやくわかったとみえて、次にのせた「夜もうし」という歌を紙にかき、鳥目(ちようもく)(ぜに)を少しそえて使の者にわたしてやりました。


   夜(よる)も憂(う)し ねたく吾背子(わがせこ) はては来(こ)ず なほざりにだに しばし訪(と)ひませ
(草庵集)
兼好(けんこう){一三五〇年没}

 歌を訳しますと、
 【夜もつらい。ざんねんなことよ、わが友は、とうとうしまいまで来ない。かりそめにでもよいから、ちょっとの間たずねて来なさい。】
 「ねたく」は、残念な、ねたましいという意、「吾背子(わがせこ)」は、ここでは友だちに対して親しんでいったのです。
 さて前の頓阿の歌も、この兼好の歌も、みなさんには、よくわかりますまい。どうもへんな歌、わけのわからない歌と思われるでしょう。ことに、なぜお金をやったか、不思議でしょう。
 では、手品の種あかしをいたします。
 初めの頓阿の歌は、前の業平の「からころも」の折句(りく)の歌と同じように、それぞれの句の初めの字をごらんなさい。
   よ(○)も涼し(●) ね(○)ざめのかりほ(●) た(○)枕も(●) ま(○)袖も秋に(●) へ(○)だてなきかぜ(●)
 「よねたまへ(○○○○○)」となるでしょう。それから、さらに、下の方から、ひっくり返してみますと、「ぜにもほし(●●●●●)」となります。
 【いま、とても困っているから米をください。お金もついでにかしてください。】
 そういう意味の歌となります。折句ということは業平のところで説明しました。この歌は句の終りの字も折句になっていますから、こういうのを「沓冠(くつかむり)」の体(たい)の歌といいます。
 次に、兼好の答えた歌は、
   よ(○)るも憂し(●) ね(○)たく吾背子(●) は(○)ては来ず(●) な(○)ほざりにだに(●).し(○)ばし訪ひませ(●)
 これはすぐおわかりになったでしょう。「よねはなし(○○○○○)」「ぜにすこし(●●●●●)」となります。
 お米はないけれども、お金を少しあげます、というわけで、かわった贈答の歌であります。
 頓阿も兼好もどちらもえらい人でしたが、南朝北朝のいくさの時代でしたので、お米やお金に不自由をしていたのでしょう。頓阿もじょうだんに歌をやったのではなく、兼好も、おりからお米の余分がなかったのでしょう。お米やお金のことをあらわにいわないで、こういう風に歌によんだということは、その人がらもゆかしく思われ、また、歌によってその時代も知られるのであります。


   わが庵(いお)は 松原つづき 海近く 富士の高嶺(たかね)を 軒端(のきば)にぞみる
(慕景(ぼけい)集)
太田道灌(おおたどうかん){一四八六年没}

 道灌は名を持資(もちすけ)といい、扇谷(おおぎがやつ)上杉(うえすぎ)家の臣として、城を築くことや、兵法の学問に長じていた武将でありました。康正(こうしよう)三年に江戸城を築き始めましたが、それが今からちょうど五百年前のことです。
 道灌が京都にのぼって、後土御門(ごつちみかど)天皇のお前に出たとき、「武蔵野(むさしの)は」とのおたずねに、「露(つゆ)おかぬ 方もありけり 夕立(ゆうだち)の 空よりひろき 武蔵野の原」と、武蔵野のひろいことを歌でお答えいたしましたところ、さらに「ながめは」とのおたずねがありましたので、「わが庵は」というこの歌を申し上げました。その意は、
 【わたくしのすまいは、松原がつづいており、海が近くみえ、富士の高いいただきを軒(のき)のところに見ることでございます。】
と、よいながめをそのままうたったのでありました。「わが庵は」といいましたのは、「庵」はちいさい家のことですが、百人一首に「わが庵は都のたつみ……」という歌があるのでそれによったのでしょう。道灌のころの江戸は、松原がつづいており、海もずっと入りこんでいたのでした。
 ある時、細川勝元(ほそかわかつもと)から、「短慮不成功」(短慮(たんりよ)は功(こう)をなさず)という韓退之(かんたいし){中国の文章家八二四年没}の句をかいて、この心もちを歌によんでほしいとの手紙があったので、
   急がずは ぬれざらましを 旅人の あとより晴(は)るる 野路(のじ)の村雨(むらさめ)
 とよんでおくりました。これは教訓の歌でありますが、「あとより晴るる」の句がたくみによまれています。
 なお、道灌の逸話については、素性のところにも述べておきましたが、どうして歌をよむようになったかということのお話をしましょう。
 道灌がまだ若い時、武蔵(むさし)の国の金沢(かなざわ)に狩(かり)をしにいきましたところ、にわか雨にあいました。六浦(むつら)の村で小さいが卑しげでない民家に立ちよって、簑(みの)をかしてくれといいましたが、だれも答えをしません。しばらくして若いむすめが、折ってきた山吹(やまぶき)の一枝(ひとえだ)をはずかしそうにさし出しました。道灌は何のことやらわからず、いやな顔をして立ち去りました。帰って来て家来にいうと、年老いた侍が、それは古い歌に、「七重(ななえ)八重(やえ) 花は咲けども 山吹の みの一つだに なきぞかなしき」という歌の心で、蓑一つさえ持たぬことを花に言わせたのでありますと答えました。山吹は花は咲いても実のならぬもの、「実(み)の」を「簑(みの)」にかけたのであることを知り、それ以来、道灌は和歌を学び、深い教養を積むにいたったのであるといわれています。ただし、この狩をした場所は、江戸の高田馬場(たかだのばば)の北で、この話から、そのあたりを山吹の里といったとの説もあります。
 前のページに掲げた道灌の像は、東京都北区稲付(いなつけ)の静勝寺(じようしようじ)にあって、江戸時代に作られたものです。


   世の中に 我(われ)は何をか なすの原(はら) なすわざもなく 年や経(へ)ぬべき
(二川(ふたがわ)随筆)
蒲生氏郷(がもううじさと){一五九五年没}

 蒲生氏郷は、豊臣秀吉の時代に出たすぐれた武将の一人です。その当時の、武田信玄(しんげん)とか毛利元就(もとなり)とかのすぐれた武将は歌をよみました。氏郷もその一人で、この歌は天正(てんしよう)二十年(一五九二年)秀吉が朝鮮へ渡ろうとしたとき、氏郷が奥州から都へのぼる途中、下野(しもつけ){栃木県}の那須野(なすの)の原を通るときによんだ歌であるといい伝えられています。
 【この世の中に自分は何をしたであろう。何もなすわざなくて、年をとってよいものであろうか。いや、そうではない。】
 「為(な)す」に「那須(なす)」をかけたもの、上句(かみのく)は、「なすわざ」の序(じよ)で、世の中のためになるよい事をしたいと思うということをこめてよんだのです。(下の絵は那須野の原です。)

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