とし月を 心にかけし 吉野山 はなのさかりを 今日見つるかな
(豊公(ほうこう)歌集)
 豊臣秀吉(とよとみひでよし){一五九八年没}

 豊臣秀吉が、文禄(ぶんろく)三年二月二十九日、吉野で歌会をし、「花のねがひ」という題でよんだ歌です。
 【長い年月(としつき)、一度みたいと心にかけていた吉野山の花のさかりを、今日みて満足したことである。】
の意(こころ)です。
 秀吉が京都の醍醐(だいご)で花見をしたことも有名ですが、その時うつくしい短冊にかいたのが、今も醍醐の三宝院(さんぽういん)に伝わっており、国宝になっています。供(とも)をして行った人人の短冊の中には、細川幽斎(ゆうさい)、前田利家(としいえ)をはじめ、浄瑠璃(じようるり)十二段草子(だんそうし)を作ったといい伝えられている小野のおつうのもあります。


   西の海や その船(ふな)よそひ とくせなむ 秋くれ方(がた)の 波の寒きに
(衆妙(しゆうみよう)集)
細川幽斎(ほそかわゆうさい)

 細川幽斎は、名は藤孝(ふじたか)といいます。はじめ足利(あしかが)氏に仕え、後、信長(のぶなが)に属し、信長が本能寺(ほんのうじ)でなくなったときにお坊さんになり、名を改めて幽斎・玄旨(げんし)と称しました。これは、新古今(しんこきん)集の歌風の幽玄をとって号(ごう)としたのです。その後、秀吉に従って功があり、家康(いえやす)にも重んぜられました。文武のすべてに達し、ことに歌道にすぐれていたのです。
 慶長(けいちよう)五年、丹後(たんご)の田辺城(たなべじよう)で敵にかこまれた時、幽斎が亡びては、古今伝授(こきんでんじゆ)が亡びるであろうと、後陽成(ごようぜい)天皇が勅使をお遣(つかわ)しになり、囲みを解くようにお命じになったという名高い話も伝わっています。古今伝授というのは、古今集の歌の中で、ことばの解釈についての秘密を、特別の人にだけ口伝(くちづた)えに伝えることをいいます。
 この歌は、慶長元年、伏見(ふしみ)の城で、朝鮮国の使節、松堂(しようどう)老人(ろうじん)が、「……唯愁ふ(ただうりよう)帰路三千里(きろさんぜんり)、遠客(えんきやく)の風帆(ふうはん)歳寒(さいかん)に阻(はば)まる」という詩を示したので、それに和(こた)えたのです。詩の終りにも歌の終りにも寒の字があります。
 【西の海――朝鮮へ帰られるその船の支度を早くなさるがよい。秋も暮れ方になって、波も寒いから。】
と、外国の使臣(ししん)をなぐさめてよんだのです。  
 ほかに、琉球(りゆうきゆう)の使の坊さんについて来た童(わらべ)が、いささかの事で薩摩(さつま){鹿児島県}にとめられると聞いて、帰国させるようにした時の歌もあります。


   いづくより 何(なに)のためとか 野を遠(とお)み 尾花(おばな)にまじり 人一人ゆく
(惺窩先生倭歌集(せいかせんせいわかしゆう))
藤原惺窩(ふじわらせいか){一六一九年没}

 藤原惺窩は定家の子孫、冷泉(れいぜい)為純(ためずみ)の子ですが、儒者として秀で、朱子(しゆし)学を唱え、その門下から林(はやし)羅山(らざん)をはじめ、すぐれた学者が出ました。歌をもよくし、万葉集についてもきわめました。歌の意(こころ)は、
 【どこから来て、何のためともわからないが、野の遠方の、穂(ほ)のでたすすきの中を、人が一人ゆくことよ。】
 見た景色をよんだのでありますが、学者らしく心の深さのこもっている歌です。


   ゆく川の 清き流(ながれ)に おのづから 心の水も かよかてぞすむ
(常山詠草(じようざんえいそう))
徳川光圀(とくがわみつくに){一七〇〇年没}

 水戸(みと)の義公(ぎこう)といわれた徳川光圀は、江戸に彰考館(しようこうかん)を置いて、大日本史(だいにほんし)や、扶桑拾葉集(ふそうしゆうようしゆう)などを編纂させ、国学(こくがく)の基礎をかためられたのでありました。晩年、水戸から近い太田の西山(にしやま)にこもられたので、西山公(せいざんこう)ともよばれています。歌の意(こころ)は、
 【川の流れの清いのにむかっていると、自然に、自分の心もかよって、澄みとおるようにおもわれる。】
というのです。「心の水」は、漢書(かんじよ){中国の漢時代の歴史書}の鄭崇(ていそう)伝に、「臣(しん)の心、水の如(ごと)し」とあるのによったものと思われ、西山公のけだかいおもかげの浮かびでる、すがすがしい歌であります。
 かつて私は、太田の西山荘(せいざんそう)にまいりましたが、清らかな苑(その)のうちには水の流れがあり、心という字の形になっているので心字(しんじ)の池といわれる池もありました。


   国をささげ 家をも負(お)ひて ゆく虫の 力まことの 牛にまされり
(晩花(ばんか)集)
下河辺長流(しもこうべちようりゆう){一六八六年没}

 下河辺長流は大和(やまと){奈良県}宇陀(うだ)の人。はじめ名を長竜(ちようりゆう)といいましたが、大阪に出て難波(なにわ)堀江(ほりえ)の水にちなんで、長流と改めました。(ナガルとよむのはわるく、チョウリュウとよむのです。)江戸時代に国文学を新たに興した第一人者で、万葉集管見(かんけん)を著(あら)わし、次に述べる契沖(けいちゆう)と親しく、契沖の学問によい影響を与えました。
 長流は、当時の人々の歌をあつめて、林葉累塵集(りんようるいじんしゆう)を撰びましたが、その序文の初めに、歌というものは、わが国民(くにたみ)の思いを述べるものであるから、上(かみ)は宮中の尊い方々から、下(しも)は庶民のだれでも、「人をわかず、所を選ばず、見るものに寄せ、聞くものにつけて、皆その志(こころざし)をいふこととなむ。」と述べています。
 この歌は、蝸牛(かたつむり)をよんだのです。
 【自分の国をももちあげ、自分の家をもせおってゆく、でで虫の力は、牛にもまさっている。】
の意で、蝸牛の殻を国といい、家といったのは、おもしろいとおもいます。形は小さいが、考えようによっては、形の大きい牛よりも力がまさっている。せまい家の中で自分ひとりをもてあつかうにこまっている人間などより数等まさっている、の意がこもっているといえます。

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