初瀬(はつせ)のや 里(さと)のうなゐに 道とへば かすめる梅の 立枝(たちえ)をぞさす
(漫吟(まんぎん)集)
契沖(けいちゆう){一七〇一年没}
契沖は尼崎(あまがさき){今の大阪府下}に生まれた人で、加藤清正(きよまさ)の家来の子ですから、武人の家に生まれ育ったのですが、幼いときから仏道にはいって坊さんになり、初めは高野山(こうやさん){和歌山県下}で、仏道の学問をしました。のち和泉(いずみ)の国{大阪府}の万町(まんちよう)の伏屋(ふせや)長左衛門(ちようざえもん)重賢(しげかた)という旧家の屋敷内の養寿庵(ようじゆあん)におりましたとき、主人が風雅な人で、たくさんの書物を持っていましたので、それらの本をよんで、国学を修めるようになりました。仏学と漢学、さらに国学と三つの学問を身につけたのであります。
それに、前に述べた長流と親しかったので、契沖はその感化をも受けました。徳川光圀が、万葉集の注釈書をつくるように長流にたのみましたが、完成しないうちに長流がなくなりましたので、契沖があとをひきついで、「万葉代匠記(だいしようき)」というりっばな本を作りあげました。「代匠記」という名は、匠(たくみ)――大工(だいく)、すなわちすぐれた政治家、光圀に代わって作ったという意味なのです。
この歌は、大和路(やまとじ)を旅したときの心持をよんだので、
【長谷(はせ)の観音の近くの村で、遊んでいる子どもに道をたずねたら、あちらの方ですといって、向こうに梅の咲いている枝がかすんでいる、そちらの方を指ざして教えてくれた。】
という意です。
「初瀬」は、大和(やまと)の長谷観音(はせのかんのん)のあるところで、「初瀬(はつせ)」とも「長谷(はせ)」ともいいます。「初瀬のや」の「や」はそえたことばで、「近江(おうみ)のや」の「や」と同じく、「うなゐ」は、童児(どうじ)、子どものこと。「たちえ」はまっすぐに立っている枝をいいます。
同じ道を教えるにしても、かすんだ梅の枝のあたりを指ざして示すというところに、大和の子どもらしさを見出してよんだ歌であります。(写真は、伏屋家に伝えられた養寿庵の図です。)
学び得(え)ぬ もろこしの書(ふみ) やまと歌 道はかたがた こころざせども
(新玉津島月次百首(しんたまつしまつきなみひやくしゆ))
北村季吟(きたむらきぎん){一七〇五年没}
北村季吟は、近江(おうみ){滋賀県}に生まれ、京都にのぼって、幽斎の門人松永(まつなが)貞徳(ていとく)に学びました。のちに、藤原俊成が歌の神として和歌浦(わかのうら)から勧請(かんじよう)したと伝える新玉津島(しんたまつしま)社におりましたが、元禄(げんろく)二年に幕府から召(め)されて江戸に住み、法印という位に叙(じよ)せられて再昌院(さいしよういん)と号しました。その生(しよう)がいを古書の注釈にささげたといってよく、源氏物語湖月抄(こげつしよう)六十冊、枕草子春曙抄(しゆんしよしよう)十二冊、万葉拾穂抄(まんようしゆうずいしよう)三十冊、八代集抄(はちだいしゆうしよう)五十冊、等々、実におびただしい数になります。いずれも全文に注釈を加え、しかも大部の書をはやく出版して、国文学を普及させた功は大きいのであります。この歌は、
【学びつくすことのできない漢籍や、わが国の歌よ。いろいろに志(こころざ)しているのではあるけれども、学問の道は奥ふかいことである。】
の意です。季吟ほどの人で、このようにけんそんしてよんでいるのであります。
なお、昭和三十一年は、季吟が世を去って二百五十年なので、五月に京都大学で講演会や、著書展覧会があり、季吟のお墓のある東京池(いけ)の端(はた)の正慶寺(しようけいじ)でも、講演会が催されました。(写真は正慶寺(しようけいじ)にあった木像ですが、今は戦災で失われました。)
熊にあらず 虎にもあらず 浅草(あさくさ)に 起(お)きふす我(われ)を たれか知るべき
(紫(むらさき)の一本(ひともと))
戸田茂睡(とだもすい){一七〇六年没}
戸田茂睡は名を恭光(やすみつ)といって、徳川家に重く用いられた渡辺(わたなべ)氏の出であります。静岡に生まれ、幼くて下野国(しもつけのくに){栃木県}の黒羽(くろばね)に移り、若くして江戸に出て戸田家の養子となり、本郷(ほんごう)森川町の本多家に仕えました。後に同家の改革の際、辞(じ)して浅草金龍山(きんりゆうざん)の近辺に住み、出家して茂睡と名のりました。茂睡の生(しよう)がいをとおしての武士らしい剛(つよ)さは、こうした環境のなかで養われたのでした。
この歌は浅草にいた時の作で、詩経(しきよう){中国の古い詩集}に「兕(じ)にあらず、虎にあらず」とあることばづかいを用いたもの、一首の意は、
【熊でもなければ、虎でもない私は、浅い草原の浅草に住んで起きふししている。だれが本当に私を知っているであろうぞ。私の価値(ねうち)を知っているものは、ただ私だけである。】
と、きおった心もちを歌ったのです。
こうはいったものの、武士は名を重んじる、名を後の世に残すのを誉(ほまれ)としているので、茂睦もわが名を残そうと、大磯(おおいそ){神奈川県下}の鴫立沢(しぎたつさわ)に、歌をかいた碑をたてました。(これは今もちゃんと残っています。)また東京浅草の待乳山(まつちやま)の上にも歌の碑をたてました。(これは戦災でくだけましたが、幸いにもとの写しが残っていましたので、昭和三十年の四月、もとのようにたちました。)
茂睡は近世歌学の先覚者で、三十七歳の時、細川幽斎の後をうける貴族的な堂上歌学(どうじようかがく)に反抗して、歌のことばの自由であるべき意見をしるし、それをまとめて、七十歳の時、梨本集(なしもとしゆう)五巻をあらわし、七十二歳の時、出版しました。ほかにもいろいろ著述があります。
当時、大阪には古典研究家として契沖がおり、関東には歌論家の茂睡がいたのです。茂睡は、小説には井原西鶴(いはらさいかく)、俳諧(はいかい)には松尾芭蕉(まつおばしよう)、浄瑠璃(じようるり)には近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)が出た時代、すなわち元禄(げんろく)の文化の花が美しく咲き競った時代の、すぐれた一人なのであります。
しづの女(め)が おりたつ小田(おだ)の 水鏡(みずかがみ) みるひまもなく とるさ苗(なえ)かな
(梶(かじ)の葉(は))
梶女(かじじよ)
梶(かじ)は京都祇園(ぎおん)の茶店(ちやみせ)で、赤い前垂(まえだれ)をつけて客に茶を出す女でありましたが、十四歳のころから和歌をよみはじめ、「梶(かじ)の葉(は)」三巻の歌集をのこすほどの女歌人(じよかじん)となりました。その歌集に美しい挿絵をそえたのが、友禅染(ゆうぜんぞめ)の元祖(がんそ)宮崎(みやざき)友禅{一七五八年没}であります。
【農家の女らがおりたつ水田(みずた)の面(おも)には、その顔や姿が水鏡となって映るけれども、それを見ているひまもないほどに忙(せわ)しく、あの人たちは苗を植えつけていることよ。】
の意です。はなやかな祇園(ぎおん)のあけくれにいて、堅実な農村の女性に寄せた同情のこころが、美しい調べとともに、よくよまれています。和歌は、こうして、一人の茶店女のまごころを、千載(せんざい)の後に伝える力のあることを証明しているのであります。
なお、梶には、百合(ゆり)という養女があって、同じように歌をよくよみ、「さゆり葉」という三冊の歌集を世にのこしました。
ゆくべくは いづくか道の あらざらむ 心に草の しげらずもがな
(執斎(しつさい)遺稿(いこう))
三輪執斎(みわしつさい){一七四四年没}
三輪執斎は、周濂渓(しゆうれんけい){中国の哲学者一〇七三年没}の文章のことばをとって名を希賢(まれかた)といいました。京都の儒者(じゆしや)で、江戸にも大阪にも住んで、漢学を人々に講じました。
歌の意(こころ)は、
【ゆこうとすれば、どこに道のないということがあろう。ゆくべき道は必ずある。自分の心に雑草がしげらぬようにしたいことである。】
というので、王陽明(おうようめい){中国の哲学者一五二八年没}の知行合一(ちこうごういつ)の学を説いた学者らしい、しつかりした歌であります。
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