父母(ちちはは)の 旅(たび)なるわれを おもふらむ 待つらむさまの おもかげに見ゆ
(六帖詠草(ろくじようえいそう))
小沢蘆庵(おざわろあん){一八〇一年没}

 小沢蘆庵は、尾張(おわり){愛知県}に生まれ、京都に出て新しい歌を起こした人であります。
 この歌は、
 【父母が、旅にある自分が、どうしているだろうかとおもうであろう、また、自分の帰りを待っているであろう、そのようすが、おもかげとなって目の前にちらつくように見える。】
というので、旅に出て、両親を思ってよんだ歌であります。「おもふらむ」「待つらむ」と「らむ」を重ねたところに、この歌のいいところ、子としてのやさしい心づかいがよく表われています。


   末(すえ)つひに 海となるべき 山水(やまみず)も しばし木葉(このは)の 下(した)くぐるなり
(明倫(めいりん)歌集)
学丹(がくたん)

 この歌は、「韓信(かんしん)またくぐり」ということをたとえてよんだものであります。
 むかし、中国に韓信という人がいて、後には漢(かん)の三傑の一人といわれたすぐれた武将となりましたが、若いころ、いたずらざかりの若者たちにあなどられて、「このまたをくぐれ。」といわれ、がまんしてまたをくぐったという有名な故事があります。
 【しまいにはついに海にはいる山の水であるけれど、しばらくは木(こ)の葉の下をくぐつていくことよ。】
 山水を韓信に、木の葉を若者にたとえたのです。
 橘南谿(たちばななんけい)(一七五三~一八〇五)の北窓瑣談(ほくそうさだん)という本の後篇に、「自分の家で詩歌の会をした時、たわむれに、むずかしい題を出してよんだ際に、韓信またをくぐるということを学丹居士(こじ)が、『末つひに……』とよんだ。世の教えともなってよい歌とみながたたえた。この学丹は和歌を達者によむ人で、一日に千首の歌をもらくによみ、一題で百首もちがったようによむ人である。」とかいてあります。
 (北窓瑣談には、三句以下を「山水はかねて木の葉の下くぐりけむ」とありますが、作者が後に改めたものとおもわれます。なお、明倫歌集には、作者の名がちがっています。)


   虎と見て 石に立つ矢も あるものを などか思(おもい)の とほらざるべき
作者不詳(さくしやふしよう)

 この歌は作者がわかりません。歌の意は、
 【虎だと思って一所懸命に弓をひくと、石にでも矢はたつものを、どうして自分の思いのとおらないことがあろうぞ。】
 これは、中国の名高い故事で、荀子(じゆんし)という本に、くらやみで、寝ているような石を見て虎かと思ったという説話(はなし)がもとで、史記(しき)に、李広(りこう)が猟(りよう)にでて、草の中に虎らしいものがいるので、弓で射たところ、ブスリと矢があたった。とんで行ってみると、それは虎ではなくて、虎のかっこうをした石であったという話や、呂氏春秋(りよししゆんじゆう)に、養由基(ようゆうき)の同じような話も伝わっています。
 この話をもとにして、この歌が生まれたもので、「精神一到(せいしんいつとう)何事(なにごと)か成らざらん」という中国の有名な句も、この歌と同じことをいったものです。みなさんも、一所懸命につとめれば、自分の志は必ずとおるものであります。


   みぞれふり 夜(よ)のふけゆけば 有馬山(ありまやま) 出湯(いでゆ)の室(むろ)に 人の音(と)もせぬ
(藤簍冊子(つづらぶみ))
上田秋成(うえだあきなり){一八〇九年没}

 上田秋成は、号を無腸(むちよう)といいました。無腸は蟹(かに)の一名で、人はみなまっすぐに歩くが、自分は蟹のように横にあるくとつけた、その号にもその人となりが知られます。大阪の人で、加藤美樹に学び、学問上で賀茂真淵のすじになりますが、京都に住んで、小沢蘆庵と親しく交わりました。歌の風は真淵の万葉風と蘆庵の古今風との中間をいったもので、その個性のにじみでた歌が多くあります。ここにあげましたのは、おだやかな作で、
 【あられがもろくて雨と一しょになり、みぞれがふって夜がふけてゆくと、ふだんは、にぎやかな有馬の温泉の湯室も、ひっそりとして人の音もしないことである。】
 摂津(せつつ){兵庫県}の有馬の湯の、冬の夜のおもむきをうたったのです。温泉をよんだ歌は、万葉集巻の十四に、神奈川県の湯河原(ゆがわら)をうたった「足柄(あしがら)の 土肥(とひ)の河内(こうち)に いづる湯の……」という歌がありますが、ほかにあまりないので、この歌をあげました。
 秋成の文芸に関する観察眼は、平賀(ひらが)源内(げんない)と相並んで、近世国文学の上にめずらしい光を放っています。秋成のかいた雨月(うげつ)物語は現代にももてはやされて、映画にもなり、外国でも評判がよかったとのことであります。


   八十(やそ)ぢまで ひきもよわらぬ 老(おい)の弓 矢さしが浦に 年を経(へ)ぬれば
(上田源大夫手記(うえだげんだゆうしゆき))
伊能忠敬(いのうちゆうけい){一八一八年没}

 伊能忠敬は、下総(しもうさ){千葉県}の九十九里浜の小関に生まれ、佐原(さわら)の伊能氏{前にのべた伊能魚彦の分家}に養われました。名はタダタカですが、チュウケイといわれています。西洋暦法を学び、特に測量に長じ、幕府の命(めい)をうけて北海道をはじめ五畿(ごき)七道(しちどう)を十八年にわたってことごとく測量し、これを図にしるしました。精力、人に超え、年をとっても若人のごとく、寒さにも暑さにもめげず、つとめて、大いなる功績をのこしました。
 この歌は、若いころに、生まれたところに近い村の人の八十の祝(いわい)によんだものです。
 【あなたは八十までも少しもよわらない。名もつよい矢さしが浦で年をすごして来られたのであるから。】
 矢刺(やさし)が浦は匝瑳(そうさ)郡で、同じく九十九里の浜辺。「ひきもよわらぬ老の弓」といい、所の名の「矢」にいいかけた歌です。

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