月星(つきほし)の 国のをしへも 伝へ来て わが日(ひ)の本(もと)に しきしまの道
(松山(しようざん)集)
塙保己一(はなわほきのいち){一八二一年没}
塙保己一は、武蔵(むさし)の国児玉郡(こだまごおり){埼玉県下}の人、五歳で盲人(めしい)となり、江戸に出て、学問をきわめ、和学講談所(わがくこうだんじよ)を興(おこ)し、「群書類従(ぐんしよるいじゆう)」五百三十巻を版にしました。実にえらい人であります。この歌は、
【海の向こうで、遠くて、月や星の国というべき中国や印度(いんど)の教えをも伝えて来て、日の国なる日本の国に敷きひろめて、やがてわが国の道とすることである。】
の意(こころ)で、日本にも道はあるけれども、海外の思想や文化をよくとりいれる国ぶりをうたったので、大きな考えからよまれた歌です。「敷島(しきしま)」は日本(やまと)の枕詞(まくらことば)ですが、ここでは、日本(につぽん)の国という意味に用い、国に敷くという風(ふう)にかけて、日本の道といったのです。
思(おも)ひ入(い)る 道をばつくせ 筑波山(つくはやま) このもかのもに 心うつさで
(三草(さんそう)集)
松平定信(まつだいらさだのぶ)
松平定信は、田安宗武の子で、号を楽翁(らくおう)といいました。奥州白河(しらかわ){福島県}の城主でありましたから、「白河楽翁」とよばれました。幕府の老中という重い役につき、政治家としても、また学者としても世に聞こえた名高い人であります。
この歌は、古今集の「つくは嶺(ね)の このもかのもに かげはあれど 君がみかげに ますかげはなし」という歌と、前にあげた「筑波山 は山しげ山 しげけれど 思ひ入るには さはらざりけり」という歌とからよまれたもので、
【筑波山へのぼるには、あちらのおもて、こちらのおもてと、道はあるが、あちこちに心をうつさないで行くがよい。それと同じように、人間が一たび志を立てたならば、迷わないで、初めの志をとおさなければならない。】
という教訓の歌であります。
この里に 手鞠(てまり)つきつつ 子どもらと 遊ぶ春日(はるひ)は 暮(く)れずともよし
(良寛全集)
良寛(りようかん){一八三一年没}
良寛は、越後{新潟県}の出雲崎(いずもざき)の坊さんです。十八歳のとき坊さんになり、備中(びつちゆう)の国{岡山県}玉島の円通寺(えんつうじ)で修行し、西国をまわって、十七年ののち郷里に帰りました。
そうして年をとってからは、国上山(くがみやま)の五合庵(ごごうあん)に住み、自然を友として静かにくらしていました。書にすぐれ、詩にも歌にもすぐれた、えらいかたでした。
良寛は、生まれつき無邪気な人で、とても子どもが好きでした。ですから、托鉢(たくはつ)に村をまわるときも、法事で里へおりるときにも、ひまさえあれば、子どもたちと話したり、遊んだりして楽しく日を送ったのであります。
従って良寛には、子どもたちと遊んだ歌がたくさんあります。この歌もその一首で、
【この村で、子どもたちと一しょに、手まりをつきつきして遊んでいる楽しい春の日は、もっともっと長くて、日が暮れないでほしいものだなあ。】
という、いかにも純真な歌であります。
富士の嶺(ね)を 木(こ)の間(ま)木の間に かへりみて 松のかげふむ 浮島(うきしま)が原
(中空(なかぞら)日記)
香川景樹(かがわかげき){一八四三年没}
香川景樹は、小沢蘆庵の影響を受けた歌人。生まれは因幡(いなば)の国{鳥取県}ですが、京都に出て、のち、岡崎{いまの左京区}に住み、そこの庭に桂(かつら)の木{モクセイ}があったので桂園(けいえん)と号し、自分の歌の集を「桂園一枝(けいえんいつし)」と名づけました。あたらしい歌風を世にひろめたすぐれた歌人です。
文政(ぶんせい)元年五十一歳の時、江戸に下り、京都へ帰るときの旅日記を「中空日記」といいましたが、これは、その中にのっている歌であります。
【富士山を、木の間木の間からふりかえりみつつ、松の木のかげをふんでゆく浮島が原よ。】
「浮島が原」は、今の原(はら)、吉原(よしわら)のあたりです。この歌をよんでいますと、広重(ひろしげ)(一七九七~一八五八)の東海道五十三次の絵を見るようであります。今は、東海道線の列車が走っていますが、列車や自動車や飛行機で旅したのでは、こんなおもむきは得られないでしょう。むかしの旅のならわしで、すげ笠をかぶり、わらじをはき、杖をついて、一足一足(ひとあしひとあし)、東海道の松並木のかげをふみ、富士をふりかえりふりかえりしながら通っていく――いかにも絵のような平和なおもむきのみえる歌であります。
思ふこと 早(はや)も成らなむ 今日の日の うれしき人に 報(むく)いせむため
(亮々遺稿(さやさやいこう)
木下幸文(きのしたたかふみ){一八二一年没}
木下幸文は備中{岡山県}の人。若くて京都に出ましたが、生活に苦しんで、文化四年の歳の暮から三十歳の春を迎えた正月三日の夜までによんだ貧窮百首(ひんきゆうひやくしゆ)があります。憶良の貧窮問答にあらわれたような力はありませんが、人を動かす真情(まごころ)の力があります。この歌は、
【自分の思うことが早く成就(じようじゆ)するとよい。今日のこの恩をうけた人に御返礼をするために。】
という意です。
人は、他(ほか)からうけた恩を忘れてはなりません。この歌は、苦しい中から報恩を思った、とうとい歌です。のちに景樹の門にはいり、門人の中のすぐれた一人となりました。大阪にいたころ、庭に竹を植えて亮々舎(さやさやのや)と号し、りっばな随筆「亮々草子(さやさやそうし)」を出版しました。
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