故郷(ふるさと)は 故郷はとて 白雪の ふりしくころに 又(また)なりにけり
(蝦夷(えぞ)日記)
児山紀成(こやまのりしげ){一八四〇年没}

 児山紀成は伊勢(いせ)の人。江戸に出て夏目長左衛門(ちようざえもん)が蝦夷地(えぞち)御用(ごよう)を仰付(おおせつ)けられたのにかかえられ、文化五年にエトロフに渡り、「蝦夷日記」一巻の著があります。歌は景樹に学び、景樹が江戸に来た時、まず目白(めじろ)台の紀成の家に泊まったのでした。この歌は、
 【故郷はどうであろう、どうであろうと遠く思いやりつつ年を越して、雪の降りしくころにまたなったことである。】
の意で、寒いところでの年越しに苦しんだ歌です。なお、蝦夷へ渡って歌を残したのは、紀成の外に堀田正敦(ほつたまさあつ)、日野信清、後に述べる松浦武四郎などがあります。


   吉野山(よしのやま) 雲も恨(うら)みも 晴れにけり 花の盛(さかり)の 春にあひつつ
(東遊(とうゆう)日記)
頼梅颸(らいばいし){一八四三年没}

 梅颸は、日本外史(にほんがいし)をかいた名高い頼山陽(さんよう)の母であります。初めの名は静子。二十歳のとき頼春水(しゆんすい)にとつぎ、翌年、山陽が生まれました。夫の没した後、梅颸と号し、歌は景樹に見てもらいました。孝心の厚い山陽は、広島から来られたおかあさんをお連れして、吉野山の桜見物に行きました。時に文政十年、母は七十歳、子の山陽もまた五十歳に近い。南朝の哀しい歴史を秘めた吉野の桜は、この親子の旅を祝福するように、美しく散りかかるのでした。八年前に、やはりおかあさんと来た時は、もうおそくて花盛りを見のがした「恨み」も、こんどは十分にむくいられました。
 【ああ吉野山、雨雲も晴れ、前には時がおくれて残念だった恨みも晴れました。いま私ども親子は、春らんまんの花のま盛りにあっています。】
の意。ただ花見ができたうれしさだけではなく、名をあげた愛児にかしずかれている賢い母の満ち足りた喜びが、ことばの外(ほか)にあふれているではありませんか。山陽は、得意の漢詩をつくりました。(ここにその漢詩と、わかりやすく訳したのとをのせておきます。)
  前にたずねて来た時は、花がすっかり散っていた。      前度尋春花己闌
  いま来てみれば暖かい雪が顔をばぬくめます。        今来暖雪照入顔
  十年ぶりで平生(へいぜい)の思いをやっととげました。     十年纔補平生缼
  かあさま連れてまた遊ぶ、花の吉野の花ざかり。       率母重遊芳野山
また、
  母のおかごに従って、そろそろ下る坂の道。         侍輿下坂歩遅々
  なくうぐいすよ、花の香よ、おなごりおしい別れの日。    鶯語花香帯別離
  母は七十のおばあさま、わたしも白髪(しらが)が生えました。  母己七旬児半白
  いつまた、ともに来られよう、花のさかりの吉野山。     此山重到定何時



   日々(ひび)日々に つもる心の ちりあくた 洗(あら)ひながして われをたづねむ
(道歌(どうか)集)
二宮尊徳(にのみやそんとく){一八五六年没}

 二宮尊徳は相模国(さがみのくに){神奈川県}足柄(あしがら)の人。金次郎(きんじろう)といいました。おさなくて父母を失い、家が貧しかったのですが、わらじを作って自活しつつ、学問をおさめ、報徳(ほうとく)の教えを興(おこ)しました。天保(てんぽう)七年(一八三六年)の飢饉(ききん)に、小田原領の飢え人(びと)四万三百余人を助けたのをはじめ、人民のために生(しよう)がい力をつくし、教え導いた、すぐれ人(びと)であります。
 歌の意は、
 【毎日毎日心のうちにつもる塵(ちり)やごみを洗い流しましょう。そうしてほんとうの自分というものを見つけましょう。】
 人間の心のうちにある「我(われ)」を見いだすようにと、教えたのであります。


   壁(かべ)たてる いはほとほりて 天地(あめつち)に とどろき渡る 滝の音かな
(柿園詠草(かきぞのえいそう))
加納諸平(かのうもろひら){一八七七年没}

 加納諸平は、遠江(とおとうみ){静岡県}の学者夏目甕麿(みかまろ)の子でしたが、若くて紀州(きしゆう){和歌山県}に行き、本居大平(もとおりおおひら){本居宣長の養子}について国学を勉強し、また医学を修めた人であります。
 諸平は、「紀伊国続風土記(きいのくにぞくふどき)」という本を作るために、紀州の各地をまわって、その風景を歌によんでいます。
 この歌も、その中の一首で、那智(なち)の滝でよんだ歌です。
 【かべのように立っている大きな岩をとおして、天地にとどろきわたるようなすごい滝の音であるよ。】
 高いところから落ちてくる滝のようすと、すさまじい音とを、同時によんだ雄大な歌であります。
 私もかつて、那智の滝に行きましたが、そのとき、この歌をしみじみと思い出したことでありました。この滝は、古くから宗教的にとうとばれたのですが、上にかかげた図は、鎌倉時代に信仰画として描かれたものです。


  父に似て 餓鬼(がき)とななりそ 大寺(おおてら)の 金剛力士(こんごうりきし)の すがたとをなれ
(山斎(さんさい)集)
鹿持雅澄(かもちまさずみ){一八八五年没}

 鹿持雅澄は土佐{高知県}に生まれ、真淵の門人谷真潮(ましお)に教えをうけた宮地(みやじ)仲枝(なかえ)について国学を学びました。仲枝は宣長に教えを請うた春樹の子でありますから、学問上からいいますと、真淵の曽孫(ひいまご)、宣長の孫であります。身分のひくい藩士の家に生まれ、生(しよう)がい苦しい生活の中から万葉集を研究し、「万葉集古義(こぎ)」百四十一巻をあらわしました。しかし生きている間には版になりませんでしたが、明治時代に、明治天皇の仰せによって出版されました。
 万葉集の研究は、村上(むらかみ)天皇の仰せで源順(みなもとのしたごう)をはじめ梨壺(なしつぼ)の五人がかなをつけましたのがはじめで、鎌倉時代の中ごろに、権律師(ごんりつし)仙覚(せんがく)という坊さんが鎌倉の比企(ひき)が谷(やつ)におりまして、将軍頼経(よりつね)の命(めい)で校合(きようごう){文字などのちがいを照らし合わせて正す}をしました。そうして、契沖のところで申しましたように、貞享(じようきよう)のころ徳川光圀(みつくに)から契沖がたのまれて、全部にわたる注釈を一度つくり、またあらためて二度つくりました。それから、賀茂真淵が出て万葉の学問をひろめ、宝暦(ほうれき)十年にその万葉考(まんようこう)が版になりました。ついで、この雅澄、それから幕末より明治にかけて、木村正辞(きむらまきこと)博士が万葉についていろいろしらべられました。以上の人々の力が主になって、万葉集は今日だれがよんでもわかるようになったのであります。
 雅澄は学者ですが、歌にもすぐれて、万葉風の高いしらべの歌をよみました。ここにあげたのは、男の子の生まれた時、よろこびのあまりによんだおもしろい歌です。
 【父のわしに似て、食べものもろくに食べぬ、やせっぽちの餓鬼になってはいかぬ。大きな寺の門をまもっている金剛力士のような、どえらいすがたになるように。】
 万葉の歌に「大寺(おおてら)の餓鬼(がき)の後(しりえ)に」という句がありますので、それにちなんでよんだのです。「すがたとを」の「を」はそえたことばで、意味はありません。
 なお、昭和三十二年は、雅澄が世を去って百年になりますので、高知市ではさかんな祭があるとのことであります。

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