文(ふみ)好(この)む 木(こ)の下蔭(したかげ)に やすらひて ともに語らむ 武士(もののふ)の道
(景山公(けいざんこう)家集)
徳川斉昭(とくがわなりあき){一八六〇年没}

 徳川斉昭は、水戸(みと)の藩主で、景山公とも烈(れつ)公ともいわれました。この歌には「弘道館(こうどうかん)に行きて文武(ぶんぶ)を閲(けみ)して」という詞書(ことばがき)があります。水戸の弘道館は、斉昭が設けた水戸藩の学校です。ここには梅の木がたくさん植えてありました。梅の木には好文木(こうぶんぼく)という名があります。それで、
 【文を好むという梅のこかげにやすみつつ、武士道についての話をもしようとおもう。】
の意です。斉昭は、嘉永(かえい)四年に、臣下に命じて「明倫(めいりん)歌集」五冊を編纂させました。それには教訓の歌が多くあつめてあります。


   武蔵(むさし)の海(うみ) さしいづる月は 天(あま)飛ぶや かりほるにやに 残る影(かげ)かも
(国民(こくみん)歌集)
佐久間象山(さくまぞうざん){一八六四年没}

 佐久間象山は、信濃(しなの){長野県}の人。幕末の勤王家(きんのうか)として、また学者として有名であります。
 この歌は変わった歌でありまして、歌の前に、「横浜に船(ふな)がかりせるペルリに代(かわ)りて」という詞書(ことばがき)がついております。
 すなわち、アメリカのペルリが、黒船四せきをひきいて、初めは浦賀(うらが)へ来{嘉永六年一八五三年}、のちに、横浜へ来て{安政元年一八五四年}、和親条約(わしんじようやく)を結んだのでありますが、このペルリの横浜にいたときの心持になってよんだ歌です。
 【武蔵の国の横浜の海の東にさし出るあの月は、自分の故郷のカリフォルニヤの方では、夜あけがたに西の空に残っている月であるかまあ、なつかしい。】
 「天飛ぶや」は、前にあった遣新羅使使人の「天とぶや 雁(かり)を使に えてしかも 奈良の都に 言(こと)つげやらむ」の歌にあったのを、ここでは、「雁」を「かりほるにや」にかけてよんだのです。
 この歌は、私が神田乃武(ないぶ)氏のもとに古い万葉集を見せてもらいにいった時、断片にかいてあったのを見て、おもしろい歌なので、国民歌集にかかげたのでした。
 なお、象山は以前はショウザンといいならわしていましたが、今は、ゾウザンとよんでいます。


   時鳥(ほととぎす) なきもやせむと 思ふまで 青葉すずしき 川ぞひの宿
(航海日記)
村垣範正(むらがきのりまさ){一八六〇年作}

 村垣淡路守(あわじのかみ)範正は、嘉永三年に海岸防禦(ぼうぎよ)の役をつとめ、安政(あんせい)三年に函館(はこだて)奉行となって移民開墾(かいこん)をすすめ、六年に神奈川奉行として神奈川開港につくしましたが、万延(まんえん)元年正月十八日、新見(しんみ)豊前守(ぶぜんのかみ)正興(まさおき)の副使として、条約を交換するために、アメリカへわたったのです。迎えのために特派された軍艦ポーハタンに乗り組み、閏(うるう)三月二十五日、ワシントンに着き、九月二十八日、江戸へ帰ってきました。
 この歌は、ニューヨークの郊外に行ったときの作で、
 【ほととぎすがこの国にいたらば鳴くかしらと思うまでに、青葉のすずしい川ぞいの家であるよ。】
の意です。遠い国に来ても、五月の空の風光が、日本に変わらないので、なつかしくてよんだのです。
 一行は、アメリカの各地で、新しい文明の進歩に目を見はりました。その中でも、おどろいたのは汽車で、
   野も山も 見る目とまらず いととくも 轟(とどろ)きはしる 車なりけり
 【野も山も目がまわるくらいの速さで、ゴウゴウと音をたてて走る汽車は、すばらしいものだ。】
という歌をよんでおります。そうして、ステーションのことを「蒸汽車(じようきしや)やどり」とかいてあります。
 わが国に初めて汽車{そのころの人は、おか蒸汽とよんだ}ができたのは、明治五年で、東京の品川(しながわ)から横浜の間を走ったのでありますが、それはこの歌のときから十三年後のことであります。
 なお、範正は、明治元年に隠退して淡叟(たんそう)と号し、十三年に世を去りました。(右のさしえは、アメリカでの記念写真から写しました。)


   月見れば 同じ空なり 大海原(おおうなばら) 五百重(いおえ)千重雲(ちえぐも) たちへだつれど
(海舟(かいしゆう)詠草(えいそう))
勝安芳(かつやすよし){一八六〇年作}

 勝安芳は、江戸の人。名は義邦(よしくに)。号は海舟。安房守(あわのかみ)に叙(じよ)せられたので安房とよはれ、後に安芳と書いてヤスヨシと改めました。
 徳川氏が大政(たいせい)を奉還(ほうかん)したとき、幕府の兵が反抗したので、官軍が江戸に攻めてきました。そのとき安芳は、官軍の参謀の西郷(さいごう)隆盛(たかもり)と話しあって、江戸城を無事に明けわたし、いくさをおこさないで、江戸百万の人々を救ったのであります。
 それよりさき、万延(まんえん)元年、前にのべた村垣範正らがアメリカに向かうと同じ時に、安芳は、アメリカ航海を命ぜられて、咸臨丸(かんりんまる)という、日本ではじめてできた軍艦に乗って、太平洋の荒波をこえ、サンフランシスコへ行きました。この歌は、そのときよんだ歌であります。
 【月を見ると、同じ空である。大海原をこえて来て、五百重(いおえ)にも千重(ちえ)にも雲がたちへだててはいるけれども。】
というのですが、考えようによっては、ずっと広く大きな意味にもとれる歌であります。


 大海(おおうみ)を わが庭の井(い)と くみあぐる 初若水(はつわかみず)に 春は来(き)にけり
(欧西紀行(おうせいきこう))
高島祐啓(たかしまゆうけい){一八六三年作}

 高島祐啓は、江戸の人。幕府の侍医(じい)でありました。文久(ぶんきゆう)元年十二月に幕府から、イギリス、フランス、オロシャ、オランダ、ホルトガルなどへ遣(つか)わされた外国奉行(がいこくぶぎよう)竹内下野守(しもつけのかみ)に随従(ずいじゆう)し、医師として大いに得(う)るところがありました。同行した一行の中には、翻訳方(ほんやくかた)箕作(みつくり)秋坪(しゆうへい)、福沢諭吉(ゆきち)、通詞(つうし)(通訳)福地(ふくち)源一郎らがありました。《注:「ホルトガル」は底本のまま。》
 この歌は、文久三年の正月を船の中に迎えてよんだのです。
 【大きな海の水を、自分の家の庭の井戸の水のような気もちでくみあげて、元日の朝の若水(わかみず)とし、春を迎えたことである。】
 大洋の気息(いき)に触れて、のびのびとひろがった気持の歌であります。若水は元日の朝くむ水のこと、初はそえたことばです。

前頁  目次  次頁