夜(よ)のほどの 野分(のわき)も知らず さきにけり 窓にとりいれし 朝顔の花
(桂芳院遺草(けいほういんいそう))
柳原安子(やなぎはらやすこ){一八六六年没}
柳原安子は柳原均光(なりみつ)の夫人で、歌は香川景樹の門にはいり、すぐれた才をもっていました。
歌の意は、
【昨日の夕方、空のようすが、あらしのようであるから、もしかしたら暴風でもくるかと思って、朝顔の鉢(はち)を家の中にとりいれておいたところ、おもったように夜中にあらしがふいて、庭の中はひどい害をこうむったが、それにもかかわらず、窓の中へとりいれた鉢の朝顔は、いつもの朝のようにすがすがしい花を大きくひらいている。】
というのです。実感からきた写生の歌で、深みのある歌ではありませんが、新しみがあります。また物ごとに注意するがよいという、教訓にもおのずからなるとおもいます。野分は、秋の半(なか)ばごろに吹くあらしのことです。
わが顔を 壁の穴より うかがひつ ねずみの友と 思ふなるべし
(野雁(ぬかり)集)
安藤野雁(あんどうぬかり){一八六七年没}
安藤野雁は、奥州半田(はんだ)銀山{福島県}の役人の子でありましたが、江戸に出て、塙保己一の子忠宝(ただとみ)の門にはいり、番町(ばんちよう)の塾に学びました。まことに変わった人で、破れた衣服に縄の帯(おび)をしめたり、雨の中を草履(ぞうり)をはいて平気で歩いたりする人でした。しかし、学問にも歌にもすぐれて、万葉集の注釈を生(しよう)がいのしごととして「万葉集新考」をあらわしました。
この歌は、
【ねずみのやつ、わしの顔を壁のあなからしげしげとのぞいているわい。大方、自分の友だちぐらいに思っているのだろう。】
の意で、貧しく荒れはてた住居(すまい)のさまもしのばれますが、自分で自分をあざける語気が底に流れています。いま一首、ねずみをよんだ歌に、
汝(な)がひげは 筆に結(ゆ)ふべく なりぬなり 老(おい)のねずみは 心したらむ
というのもあります。
【ねずみよ、お前のひげは、あつめると筆になるほど伸びた。老いたねずみよ、気をつけるがよい。】
の意で、老いたねずみをからかった歌ですが、何か野雁自身の自画像のようにも見えるではありませんか。一生を不遇のうちに、しかし自身は満足して、歌と学問を友として過ごしたのでありました。
万葉集の「野」という字を、今では「ノ」とよむようになりましたが、近世から昭和のはじめにかけての間、「ヌ」とよんでいました。それで野雁は、「おれはヌカッタ男であるから、ヌカリとよむのだ」といっていたとのことであります。
くれなゐの 大和錦(やまとにしき)も いろいろの 糸まじへてぞ 綾(あや)は織(お)りける
(向陵(こうりよう)集)
野村望東尼(のむらもとに){一八六七年没}
野村望東尼は、福岡の人で、名は「もと」といいましたが、夫に死に別れてから、尼(あま)さんになって、望東尼(もとに)といいました。歌は大隈言道の弟子で、女歌人としてすぐれた才能をもっており、特に、幕末の時代に、女の勤王家(きんのうか)として、女丈夫(じよじようふ)といわれた人でありました。それで、姫島(ひめじま)という玄海灘(げんかいなだ)のはなれ島に流されもしました。
この歌の意は、
【くれないの色をした大和錦をみても、ひといろでは、あの錦は織れはしない。いろいろの糸をまぜて、ああいうりっばな綾が織りなされるのである。】
日本の国のすぐれた文化は、外国の文化をもとりいれ、りっばにできあがるものであるということをうたったのです。
望東尼は文章もじょうずで、姫島に流されていた時も「姫島日記」をかき、その後の日記もあります。望東尼の住んでいた福岡の郊外、向(むこう)が陵(おか)の平尾(ひらお)の山荘は、福岡市で保存されてちゃんと残っています。
蟻(あり)と蟻 うなづきあひて 何かこと ありげに走る 西へ東へ
(志濃夫廼舎(しのぶのや)歌集)
橘曙覧(たちばなあけみ){一八六八年没}
橘曙覧は、越前(えちぜん){福井県}福井の人。もとは井手(いで)という姓でしたが、井手氏は橘諸兄(たちばなのもろえ)の子孫であるというので、井手を橘にかえ、また名を曙覧と改めました。「赤い実」すなわち、みかんの実が赤くなるのを、「アケミ」といい、曙覧という字をあてたのであります。
江戸時代の和歌は、真淵によって万葉風のつよい歌がさかんになり、景樹によって古今集の優雅なしらべが主張されたのでありますが、この曙覧にいたって、もっと新しい、もっと自由な歌風がひらけました。この蟻の歌に見える清新な観察や、のびのびしたよみぶりなどは、いかにも曙覧らしさであると思います。
【蟻と蟻とがばったり会って、うなずきあって、何か重大な事でもあるかのように、西へ東へと走ってゆくよ。】
の意であります。「ありげに」は、ありそうにというのと蟻とをかけたのです。大きな人間の目から見れば、蟻のあくせくした努力は、おかしくもあり、あわれでもありましょう。しかし、高いテレビの塔からでも見おろしてごらんなさい。人間も蟻も、たいした差はないと思われるでしょう。
曙覧の集に、「独楽吟(どくらくぎん)」といって、第一の句に「たのしみは」とおき、おしまいを「……時」という字でとめた歌が五十首あまりあります。その中に、
たのしみは めづらしき書(ふみ) 人に借り はじめ一ひら ひろげたる時
たのしみは 木芽(このめ)煮(にや)して 大きなる まんじゅうを一つ ほほばりし時
たのしみは あき米(こめ)びつに 米出(い)で来(き) 今一月(ひとつき)は よしといふ時
たのしみは まれに魚煮(に)て 児(こ)ら皆が うましうましと いひてくふ時
というのがあります。
第一は、読書人(じん)の心もちのわかる歌、第二はまんじゅうのすきなことが知られてほほえましい歌、「このめにやして」はお茶をいれての意。第三、第四はその貧しかったことが知られていたましく思われます。
なお、曙覧には、鉱山や紙すきの労働をよんだ連作もあり、また次のようなものもあります。
こぼれ糸 網につくりて 魚とると 二郎太郎三郎 川に日くらす
【こぼれた糸屑(いとくず)で網をつくって魚をとろうと、兄弟三人が川で日をくらすことよ。】
の意です。「太郎二郎三郎」というべきを、歌ではしらべというのが大事ですから、わざとひっくりかえしたのです。
行く人を 田舎童(いなかわらわ)の 見るばかり 立ち並(なら)びたる つくつくしかな
(草径(そうけい)集)
大隈言道(おおくまことみち){一八六八年没}
大隈言道は、筑前(ちくぜん)の福岡の人で、新しい歌の道をひらいた人です。前の曙覧は福井の人ですが、二人とも、なくなったのは慶応(けいおう)四年(明治元年)で、新しい歌をよんだという点も似かよっております。ただし、曙覧は奈良朝風(ならちようふう)でつよいうたい方であるのに、言道は平安朝風のやさしいうたい方でした。けれど、やさしい中に、清新な気風がみちあふれていました。
この歌は、つくしをよんだ歌ですが、擬人的(ぎじんてき){人でないものを人と同じように見る}な見方がおもしろい歌です。
【田舎道をとおってゆく人を、村の子どもたちがめずらしがって立ち並んで見ているように、ツクシンボウのせいの高いのや低いのが並んで立っている。】
という意です。
つくしというものを、こんな風におもしろくよんでおります。ほかにも、つくしをよんだのに、
踏(ふ)まるるも 今かと思ふ 春駒(はるこま)の ひづめがもとの つくつくしかな
【野に放し飼(が)いにしてある馬のひずめで、今ふまれるか、今ふまれるかと思うところに、つくしが、にょきにょきと生えている。】
という歌があります。どちらも目のつけどころの新しい歌であります。
また、動物の親子の愛情をうたった歌に、
さきだちて 山路(やまじ)すぎゆく 牛の親に 子牛よりくる 村時雨(むらしぐれ)かな
山道を親牛がさきになってゆく。折からしぐれの雨がふってきたので、親牛のそばへ子牛がよってゆく、の意。
つばくらめ 親まちわびて 並べれば 我(われ)もおそしと 見る軒端(のきば)かな
軒の巣(す)につばめの子がいく匹も並んでいる。餌(え)を持ってくる親の来かたがおそいので、自分も、ああおそいなと軒を見あげる、の意で、つばめの子と人間とが一しょになっている歌です。
句法(いい方)の変わっているのをあげますと、
ひきつれて 大路(おおじ)出(い)づなり 馬車(うまくるま) また馬くるま 牛くるま牛
京都でよんだ歌です。馬車(うまくるま)は馬車(ばしや)ではなく、馬・車、また、馬・車・牛・車・牛と切ってよむべきで、馬が来た、車が来た、また馬が来た、車が来た、こんどは牛が来た、車が来た、牛が来た、というので、京都の大路(おおじ)(広い道)へ、次々にあちらの方から出てくるのを見ていてよんだのです。
きこえずば なほ声高(こわだか)に 道とはむ こなたにゆくや 志賀(しが)の山越(ごえ)
前に貫之の歌のところで説明した志賀の山越をゆく時の歌で、上句は、「あちらにいる人に聞いてみても、きこえぬらしい、きこえないならば、もっと高い声でたずねよう」というので、「もしもし、こっちの方へいってよいのですか、志賀の山越は」と、下句はことばをそのまま歌にいったのです。万葉集の歌の「波たかし、いかに揖取(かじとり)、水鳥の 浮き寝(ね)やすべき なほやこぐべき」とおなじように、ことばをそのままよみいれたのです。
なお、言道にはオランダ語をよみいれた、当時としてきわめて新しい歌もあります。
いたづらに わが身フルゴロオトガラス 水に虫ある ことも知らずて
【顕微鏡でみると、水の中に小さい虫がいるというが、そんなことは知らないで、自分はなま水をのんで年月を経(へ)てきたことである。】
の意。「フル」に「世に経(ふ)る」ことを言いかけたのです。顕微鏡のオランダ語は、フュルグロオトグラスというとのことですから、それを聞きなまって用いたものと思われます。また、「フラスコ」(洋酒(ようしゆ)の瓶(びん))をよみいれた歌もあります。
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