たて初(そ)むる 志(こころざし)だに たゆまずば 竜(たつ)のあぎとの 玉もとるべし
(真爾園(まにぞの)集)
野之口隆正(ののぐらたかまさ){一八七一年没}

 野之口隆正は石見(いわみ)の国{島根県}津和野(つわの)の人、平田篤胤(ひらたあつたね)の門にはいって国学を勉強し、長崎に五年いて、西洋の理学をも修め、国語をも研究しました。後、京都にでて報本学舎(ほうほんがくしや)という塾を開きました。参議の岩倉具集(いわくらぐしゆう)も教えを請い、明治維新の際に功のあった玉松操(みさお)もその門から出ました。
 歌の意は、
 【人間として志を立ててたゆまずにつとめはげんだならば、いかなることも成しとげられる。天へのぼって雨をふらすという竜(りゆう)のあごの玉でも、とることはできるであろう。】
 隆正は、きわめてまじめな学者でありましたが、おもしろい話がのこっていますから、書きそえておきます。
 ある時、塾に学んでいる若い者が、講義の終ったあと、かねて用意してかいてきた短冊(たんざく)を出しました。それには、「みよしののよしのの山の木(こ)のもとの夜(よる)のねむりの花の香(か)のする」とかいてあって、先生の野之口というお苗字(みようじ)について「の」を十一よみこみました、という。次のも「の」が数おおくはいっている歌の短冊を出しました。隆正はじっと見ていて、しばらく考えているようすでしたが、諸君のは「の」の数が少ない。自分は今「の」が三十ある歌を作ったといいました。歌は三十一字であるのに、「の」が三十あるというのはと、弟子たちはおどろいてだまっていますと、隆正は、筆をとって紙へかきました。
   ののののの ののののののの ののののの ののののののの のののののしの
というのです。弟子たちが、これは一たい何ですとたづねますと、「どこかに乃野(のの)という野(の)があるのだ。その野のという意味である」といって、ふしもおもしろくうたいだしました。
   乃野ノ野ノ 乃野ノ野ノ野ノ 乃野ノ野ノ 乃野ノ野ノ野ノ 乃野ノ野ノシノ
 シノはシノ竹のことで、源実朝の歌の「あられたばしる那須の篠原」の篠である、といいましたので、みなはおどろきかつ感心したという話が伝わっています。


   めせめせと 炭(すみ)うる翁(おきな) 声かれて 袖(そで)に雪ちる 年の暮(くれ)がた
(海人(あま)の刈藻(かるも))
大田垣蓮月(おおたがきれんげつ){一八七五年没}

 幕末の女歌人(じよかじん)として名高い蓮月尼(れんげつに)は、京都に生まれ、初めの名は誠(のぶ)といいました。夫にも子にも死にわかれ、尼(あま)となって、つつましくしずかに清い一生を送りました。おさなくから歌にすぐれ、書もたくみで美しく、手づくりの陶器を売っていましたが、雅趣(おもむき)に富んだものであって、人々に珍重(ちんちよう)されました。
 この歌は、
 【さあお買いなさい、買ってください、と呼びつつ炭を売りあるいている老人の声もかれて、その袖には、冷たい雪の散りかかる師走(しわす)の街となったことよ。】
の意(こころ)です。小さい街頭のスケッチではありますが、その底にこもる同情のこころは痛切であり、深いものがあります。
 富岡(とみおか)鉄斎(てつさい)翁(おう)が若くて長崎へ絵の修業にゆかれる時、尼(あま)は送別の歌などを送られましたが、その鉄斎翁のかかれた尼の伝に、「尼つねに貧民を賑給(しんきゆう)するをもって楽しみとなす」とあるように、陶器を売った金を貯(たくわ)えては、貧しい人たちにわかたれたとのことであります。
 尼の歌集「海人(あま)の刈藻(かるも)」(海人に尼をかけ、かる藻はよんだ歌の意)の初めに、「鉄斎富岡鎌(れん)、写於蓮月庵中(れんげつあんちゆうにおいてうつす)」と題した庵(あん)の図がのっていますから、それを前のページにかかげておきました。


   音にきく 高師(たかし)の浜の 松が枝(え)も 世のあだ波は のがれざりけり
(新万葉集)
大久保利通(おおくぼとしみち){一八七八年没}

 大久保利通は鹿児島の人。明治維新の後、西郷、木戸(きど)、大久保といわれた三人のえらい政治家の一人であります。
 この歌は、内務卿(ないむきよう)であったころ、堺(さかい){今の大阪府}の県令(けんれい){今の知事}が、こまっている士族を助けるために、浜寺(はまでら)の松を切ってしまおうとするのを聞いて、県令におくられたのです。
 【むかしから名高いたかしの浜の松の木も、世の中のあだ波はのがれることができないで切られてしまうのか、実にざんねんなことである。】
という意です。
 百人一首にも出ている「音にきく 高師の浜の あだ波は かけじや袖(そで)の ぬれもこそすれ」という歌によって作られたのです。
 この歌のおかげで、当時切ることがやめられて、今日(こんにち)でも浜寺公園には老松(おいまつ)が立ち栄えております。歌の徳というべきであります。


   あらたまの 年のはじめは 鴬(うぐいす)の こゑもさらなる ここちこそすれ
(葛原勾当(くずはらこうとう)日記)
葛原美之一(くずはらみのいち){一八八二年没}

 葛原勾当美之一は、備前(びぜん){岡山県}八尋村(やひろむら)の人、三歳で盲人(めしい)となり、京都に上(のぼ)って生田流(いくたりゆう)の琴をならい、若くて勾当(こうとう)という盲人の役になりました。後に検校(けんぎよう)になるようすすめられましたが、自分は勾当でよいといって応じなかったそうです。発明の才に富(と)んで、竹琴(ちくきん)を創案しました。また、二十六歳の正月から、いろは四十八字と一二三の数字の木版(もくはん)活字を作らせたのを捺(お)して、毎日毎日日記をつけました。今ならば点字タイプライターもあるのですが、天保(てんぽう)八年から明治十四年まで四十六年間、一字一字を拾って捺しつづけたのはとうといことです。孫のしげる君が、「葛原勾当日記」として活版にされましたが、その日記の中には歌がたくさんはいっていて、琴のしらべ、水の音、鳥の声、鐘のひびきなど、音に関する歌が多くあります。また、福島中佐のシベリヤ騎馬旅行をたたえた長歌(ちようか)もあります。ここにかかげた歌は、
 【年の初めに聞くと、鴬の声もことさらよいような心もちがする。】
の意(こころ)です。
 この歌のはいっている安政(あんせい)五年四十七歳の正月の日記一ページをかかげておきます。五日の「あいむ」は「あいすむ(相済む)」の「す」がおちたのです。


   幾年(いくとせ)か 思ひ深めし 北の海 みちびくまでに なし得つるかな
(多気志楼詠草(たけしろうえいそう))
松浦武四郎(まつうらたけしろう){一八八八年没}

 松浦武四郎は、伊勢(いせ){三重県}の人、天保(てんぽう)四年十六歳の時から十年間に日本全国をまわり、蝦夷(えぞ){北海道}探検の志(こころざし)を立てて何度も蝦夷におもむき、いばらの道をひらいたり、雪の上にもねて、北海道の全土、樺太(からふと)をしらべ、蝦夷日誌三十六冊、大小二十余冊の絵図をあらわし、北海道の開拓に生(しよう)がいをささげた人であります。
 京都の北野(きたの)の天満宮(てんまんぐう)に、加藤清正が、日本地図を背面(うら)にほって奉納した大きな鏡があるのにならって、直径三尺二寸の鏡をつくらせ、北海道十一か国と樺太の図をえがき、この歌と、明治七年五月吉日(きちにち)とをほらせて奉納したのであります。
 【何年か心に深く思いこんでいた北海道の地理書も絵図もできあがり、世の人々をみちびくまでになった。まことにうれしい。】
という意(こころ)です。ここにその鏡の背の写真をかかげておきます。
 武四郎は、若い時、本居春庭(もとおりはるにわ)の教子(おしえご)なる足代弘訓(あじろひろのり)の門にはいって、国学や歌を学び、歌の名を弘(ひろし)といいました。
 自分のことになりますが、私の父は、同じく足代先生の門人で、松浦翁(おう)をよく知っておりましたので、私が十一歳のとき、父につれられて、伊勢から東京へ上(のぼ)ったとき、神田の五軒町(ごけんちよう)に住んでおられた翁をお訪ねしたところ、病気でねておられましたが、病室へ通されました。子ども心にも、いかにも強い、しっかりしたかたであるという印象が心に焼きつきました。その枕もとには、大きな絵がかかっていましたが、翁はそれをゆびざしながら、「これは、お釈迦様にはすまないが、あの涅槃(ねはん)の図にならったもの、ここに横になっているのは私(わし)で、まわりにいるのは、私の死をなげく人たちや、犬や猫などである。」といわれました。そうして私に向かって、「自分は北海道を何十年もかかって調べあげた。おまえはおとうさんによく教わって、歌の道を勉強しなさい。」と力づよい声でいわれました。私は「ハイ。」といっておじぎをしたことを今でもはっきりおぼえています。

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