わが袖(そで)の 玉と拾(ひろ)ひて つつまばや うちつけられし 石も瓦(かわら)も
(落葉(おちば)集)
福田行誡(ふくだぎようかい){一八八八年没}

 福田行誡は武蔵(むさし)の人。明治の初めから中ごろへかけてのすぐれたお坊さんであります。僧として徳が高かっただけでなく、歌もまたすぐれておりました。この歌は、
 【人から石や瓦をうちつけられても、それを自分の袖の中の玉と思って、拾って、つつんでおこう。】
の意であります。
 人生には、時としては、人からののしられたり、あざけられたりして、残念なこともありますが、そういうときに怒らないで、そのことを自分の修養のために、よくとろうという意の歌ですが、一二句は法華経(ほけきよう)に「宝珠(ほうしゆ)をもってその衣(ころも)の裏に繋(か)け」とあるのにより、四五句は、同じく法華経に「もしこの経を説(と)かん時、人あって悪口(あつく)をもって罵(ののし)り、刀杖瓦石(とうじようがしやく)を加うとも、仏を念ずるがゆえにまさに忍ぶべし」とあるのによったのであります。
 また、行誡のよまれた歌に、
   法(のり)の海 よしいかばかり 深くとも くみほすまでは くまむとぞ思ふ
 これも教訓の歌としてすぐれています。「法の海」を「学(まなび)の海」とかえれば、学問に志(こころざ)す人々の元気をはげます歌となります。


   故郷(ふるさと)へ 飾る錦(にしき)は 匣(はこ)の中(うち) 身にまとふべき 時にあらねば
(新島襄)
新島襄(にいじまじよう)

 新島襄は、上野(こうずけ)の国{群馬県}安中(あんなか)の人。幕末の元治(げんじ)元年三月、若くて江戸を出ようとする時、
   もののふの 思ひ立つ田の 山紅葉(やまもみじ) 錦(にしき)着ずして など帰るべき
 【男子たるべきものが、思いたったからには、紅葉のにしきを着ないで、どうして帰ろうぞ、必ず錦を着て帰る。】
という歌をよみました。「もののふ」は「ますらを」(りっぱなおとこ)と同じ意に用いたもの。二句の「思ひたつ」に紅葉の名所である大和(やまと)の立田(たつた)山をかけ、「たつ」に錦を裁(た)つがかけてあります。
 そうして函館(はこだて)にゆき、六月、函館を脱出して、八月、ワイルドロヴァ一号で米国におもむき、明治七年十二月に日本に帰りました。そのときによんだのが「故郷へ」の歌であります。
 【ふるさとへ帰るについて、飾ろうと思った錦をば、このはこの中にちゃんといれてある。今それを自分が身にまとうときではないから。いずれその錦をよく飾りたいものである。】
という意の歌です。燃えるような理想をいだいて、日本にりっぱな教育をほどこしたいという気持があふれている歌であります。
 翌八年に、京都に同志社(どうししや)をひらき、あつい信念をもって、わが国の教育につくされたのでした。


   絶間(たえま)なく 進む器(うつわ)の 針みれば ただ時の間も をしまれにけり
(梨(なし)のかた枝(え))
三条実美(さんじようさねとみ){一八九一年没}

 三条実美公は、明治維新の元勲(げんくん)で、長いあいだ、太政(だじよう)大臣であられました。号を梨堂(りどう)といわれたので、歌の集を「梨(なし)のかた枝(え)」といいます。若い時、七卿落(しちきようおち)といって、東久世(ひがしくぜ)通禧(みちとみ){のち伯爵}などと七人の仲間で、政治上の計画がやぶれて京都から長州{やまぐちけん}に落ちのびたことがあり、のち福岡におられた間によまれた歌には、国を憂(うれ)え君をおもうすぐれた歌がたくさんあります。明治後も、鉄道の開業式、博覧会の開場式、議会の開院式などいろいろの歌がありますが、ここにかかげたのは、「時計」という題の歌です。明治以後の歌には、新題といって、汽車や汽船などの新しい事がらをよむことが流行(はや)ったのでした。時計は慶長(けいちよう)十五年(一六一〇年)にスペインから渡って来たのですが、これも新題の一つで、
 【絶え間なく一秒一秒進んでいる時計の針をみると、ほんの少しの間の時もおしまれることである。】
の意で、時間のとうとさをよまれたのです。六十秒で一分、六十分で一時間、二十四時間で一日が過ぎてゆくのですから、この歌のように時をおしまねばなりません。
 中国の陶淵明(とうえんめい){詩人、四二七年没}のおじいさんはえらい学者でしたが、その人のいったことばに、禹(う)は黄河(こうが)の水を治(おさ)めて、亜聖(あせい)――尭(ぎょう)や舜(しゆん){二人とも古代の聖王}に亜(つ)ぐ聖人といわれた人であるが、寸陰(すんいん)――みじかい時間のたつことをもおしんだ。いわんやわれわれは、寸の十分の一の分陰(ふんいん)をおしまねばならぬ、と人々に諭(さと)したとのことであります。そのことを、私の父の先生である足代(あじろ)弘訓(ひろのり)翁(おう)が常に話されて、門人たちに分陰をおしめといわれたので、その話を父がよくいいました。私もその教えを守り、常に分陰をおしんで勉強しております。時計の歌をあげたついでに、書きそえておきます。


   われとわが 思ひなせばめ 天(あま)つ日(ひ)を かけても見るは 心ならずや
(国民歌集)
大西祝(おおにしはじめ){一九〇〇年没}

 大西祝博士は、哲学者としてすぐれた方であります。岡山の人で、操(みさお)山が近くに見えるので操山(そうざん)と号(ごう)されました。若くて京に出、同志社に在学中、池袋(いけぶくろ)清風(きよかぜ)について歌を学ばれ、後、上京して東京大学を出られましたが、雑誌「国民の友」に歌論を発表されもしました。この歌は、
 【自分から自分の思想をせまくしてはいけない。天の上にかがやいている太陽を、研究することができるのも、心ではないか。自分の心は大きな力をもっているということを、確信するがよい。】
の意。「思ひなせばめ」の下に「そ」がはぶいてあって、「自分を小さく無力なものと、おとしめ考えてはならぬ」と禁止した句法です。はてしもなく進んでゆく科学の前途を予言した歌ともいうべく明治時代の人らしい気塊(きはく)のこもった歌であります。


   いづこにか しるしの糸は つけぬらむ 年々(としどし)来なく つばくらめかな
(詠草(えいそう))
樋口一葉(ひぐちいちよう){一八九六年没}

 樋口一葉が、紫式部以後の女の小説家としてすぐれた人であるということは、みなさんも知っているでしょう。
 一葉は、明治十七年、十三歳の一月に、おとうさんの友だちの和田(わだ)重雄(しげお)という人に歌を習い、後に中島(なかじま)歌子(うたこ)の弟子になって、「たけくらべ」を書き終った二十八年一月までに、四千首あまりの歌をつくりました。これは十三のとしによんだ歌です。
 【どこに、見おぼえになるしるしの糸をつけたことであるかしらん、毎年毎年つばめが来てなくことである。】
 つばめは春がくると必ず自分の巣にくるが、どこかにしるしの糸でもつけておくのであろうか、というやさしい想像の歌です。十三歳でよんだ歌としてはおとなめいていますが、これは次にのべる林さんは別として、落合さんが明治の中ごろに和歌の革新を唱(とな)えられるまでは、一般にはみんなこういうふうの歌なのでした。
 一葉が、のちにすぐれた小説家になったことは、その天才と境遇とによることはもちろんですが、歌を学んだことが下地(したじ)になったものといってもよいと思います。
 私は中島さんの歌の会で一葉さんによくあいましたので、一葉さんの十七回忌(き)に、妹の邦子(くにこ)さんからたのまれて、「一葉歌集」という集を選び、また、下谷(したや)竜泉寺町(りゆうせんじまち)の一葉さんの住んでいた近辺に、その記念碑がたつのに歌をかきもしました。

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