高殿(たかどの)の 窓(まど)てふ窓を あけさせて 四方(よも)の桜の 盛(さかり)をぞ見る
(明治天皇御集(ぎよしゆう))
明治天皇(めいじてんのう)

 明治天皇は、父帝(ちちみかど)孝明(こうめい)天皇の仰(おお)せにより、おさなくて歌をおよみになり、御一代(ごいちだい)に実に多くの御製(ぎよせい)をおのこしあそばされましたが、このお歌は、明治四十五年におよみになったのであります。
 【高殿の窓という窓をすっかりあけさせて、四方の桜の花のまっさかりを見ることである。】
という、まことに朗(ほが)らかに広い大きい心もちのお歌であります。この高殿というのは、どこの御殿(ごてん)を心に思っておよみあそばされたのであろうと、かつて宮内(くない)庁の人に聞きましたところ、「あの二重橋(にじゆうばし)のそばにある伏見櫓(ふしみやぐら)ではございますまいか。あの上からは、遠い所まで見わたされますので、両国の川開きのおりなどに、皇后さまにも、お上りになってごらんになるように、とのおことばがあったと、伝え承(うけたまわ)っております」との答でありました。
 この御製は、春のさかりの花のさかりに、高殿のすべての窓をあけさせたもうて、四方(よも)の桜をみそなわしたというような御心(みこころ)でありますが、ふと考えられることは、明治維新の際にお下(くだ)しになった五箇条(ごかじよう)の御誓文(ごせいもん)のなかに、「智識ヲ世界ニ求メ……」の一か条があります。これまで鎖国(さこく)でとざされた日本の国の窓という窓をまず開かせ、そうして、年々に大きく豊(ゆた)けく発展せしめたもうた明治時代の歩みが、この御製一首に凝(こ)り集(あつ)まったのではあるまいかと思われます。
 万葉集の
   青丹(あおに)よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今さかりなり   小野老(おののおゆ)
という歌は、奈良時代のうち一ばん栄えた天平(てんぴよう)のみ代をたたえた代表的な歌であります。
 また、古今集の
   みわたせば 柳桜(やなぎさくら)を こきまぜて 都ぞ春の 錦(にしき)なりける   素性(そせい)
という歌は、平安時代の栄えたようすを代表した歌とも考えられますが、この「高殿の」の御製は、明治時代を象徴するお歌と申してもよいかと思うのであります。


   四八八三十 一十八五二十百 万三三千二 五十四六一十八 三千百万四八四
(短冊(たんざく)集)
渡辺重石丸(わたなべいかりまろ){一九一五年没}

 数字ばかりで書いてありますので、これが、歌かとおもわれましょうが、よく読んでみると、まじめな歌です。
   世は暗(やみ)と 人はいふとも 正道(まさみち)に いそしむ人は 道も迷(まよ)はじ
というのです。
 【世の中はまっくらやみのようであると、人はいうかもしれないけれども、正しい道をふんで働いている人は、道をまよいはしないであろう。】
という教訓の歌であります。
 渡辺重石丸は、本居宣長の門人渡辺重名(しげな)の孫、平田門(ひらたもん)の重春(しげはる)の弟で、国学に長じ、後、東京麹町(こうじまち)の富士見町(ふじみちよう)に塾を設け、国学を講じていました。乃木(のぎ)将軍もしばしばたずねて、いろいろ、話を聞かれたと伝えきいています。
 万葉集巻十一の二五八一番の歌には、「言云者三三二田八酢四小九毛心中二我念羽奈九二」(言にいへば耳にたやすし少(すくな)くも心の中にわが思はなくに)と、数字が九字はいっていますが、この重石丸の歌のように数字ばかりでかいたのは、楫取魚彦(かとりなびこ)のと、外にいま一首、碓氷(うすい)峠に石にほられてあるのを知っているだけです。


   高麗(こま)百済(くだら) 新羅(しらぎ)の国を われ行けば わが行く方に 秋の白雲(しらくも)
(夏目漱石全集)
夏目漱石(なつめそうせき){一九一六年没}

夏目漱石君は「わが輩は猫である」や「坊ちゃん」など、すぐれた小説をたくさん世にのこされた人ですが、折々によまれた歌が全集の中にのっています。
 この歌は、明治四十二年九月、大連(だいれん)にゆき、十月、朝鮮(ちようせん)をまわって帰られた折、よまれたのです。
 【朝鮮のあちこちを自分が行くと、秋のこととて、どこにも白い雲がたなびいている。】
 気品のある歌であります。「高麗・百済・新羅」は、三韓(さんかん)時代の朝鮮半島の古い国の名であるのを用いられたのです。なおこの外にも、
   肌寒く なりまさる夜(よ)の 窓の外(と)に 雨をあざむく ポプラアの音
   草繁(しげ)き 宮居(みやい)の跡(あと)を 一人(ひとり)行けば 礎(いしずえ)を吹く 高麗(こま)の秋風
という歌があります。


   天地(あめつち)の わかゆる春の 新草(にいくさ)の 緑(みどり)の中に 石の馬立つ
(五百重浪(いおえなみ))
森鴎外(もりおうがい){一九二二年没}

 森鴎外博士は、名は林太郎(りんたろう)。高湛(たかしず)ともいわれます。明治時代に「紅露逍鴎(こうろしようおう)」といって、小説家の尾崎紅葉(おざきこうよう)、幸田露伴(こうだろはん)、評論家で学者であった坪内逍遥(つぼうちしようよう)とならび称せられた人であります。
 明治三十七、八年の役に、軍医部長として満州へ出征されたとき、せわしい職務のあいだあいだに、多くの歌をよんで、それを「歌日記」一冊にまとめられました。この歌は奉天(ほうてん)の福陵(ふくりよう)でよまれたのです。(福陵は清(しん)の太祖(たいそ)の陵(みささぎ)で、奉天の東にあるので東陵(とうりよう)ともいいます。)
 【天地の若くなる春の新しい草が、みどりをよそおっている中に、みささぎの道には、古い石の馬が立っている。】
という意であります。中国の古いみささぎの前には、石人(せきじん)、石馬(せきば)といって、石でほった人や馬が、少しずつ間をおいて立てならべてあるので、この歌はそれをよまれたのです。
 私のところへは、明治三十八年五月の消印のある葉書で、おもてに、「第二軍軍医部 森林太郎」とかき、裏にこの歌と、いま一首「春来(く)とも しらずがほなり みささぎの 白土をかの にれのうつぼ木 五月二十四日」とかいてよこされました。


   スミダ川(がわ) コトシハ花ニ コナンダニ 葉桜(はざくら)ニナリ 三度(さんど)キタワイ
(新式歌文雑誌(しんしきかぶんざつし))
林甕臣(はやしみかおみ){一九二三年没}

 林甕臣は、越後の人、本居宣長の門の林国雄の孫で、平田鉄胤(かねたね)の門にはいり、かたわら洋学を修め、はやく歌壇の革新を計って高振社(こうしんしや)を組織し、明治二十六年に「新式歌文雑誌(しんしきかぶんざつし)」を出して、新しい歌を唱(とな)えました。当時、言文一致体(げんぶんいっちたい)の文が主張されていたので、歌もまた言文一致でなけれはならぬと述べ、この歌も、ふつうの歌で「すみだ川 今年は花に こざりしに 若葉が陰(かげ)ぞ 三たび訪(と)ひける」とよんだのを、口語体に改めたのです。意味はよくわかりますから説くのをはぶきます。

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