身をいるる わづかばかりの 家ながら すめば事たる かたつむり見よ
(日記)
富岡鉄斎(とみおかてつさい){一九二四年没}
富岡鉄斎翁(おう)は京都の人、名を百錬(ひやくれん)といわれました。若くて漢学国学を修め、石上(いそのかみ)神宮の宮司(ぐうじ)にもなられましたが、画家として南画(なんが)界の重鎮、最もすぐれた方でありました。詩文をよくされ、歌も折々よまれました。海松布(みるめ)をえがいた上に「絵島潟(えじまがた) 南の海は 波荒れて みるめわびしき 筆の跡(あと)かな」と、南画のおとろえたのを歎(なげ)かれた歌もありますが、ここにかかげましたのは、人間の奢(おご)りをいましめられた歌で、
【自分のからだをいれる、ほんのせまい家であるが、住んでいればそれで事が足りるのだ、あの蝸牛(かたつむり)を見るがよい。】
の意(こころ)です。翁の性格がにじみ出ている歌であります。
問ひてまし 語りてましを あまた世を 隔(へだ)ててけりな 道の友垣(ともがき)
(法窓夜話(ほうそうやわ))
穂積陳重(ほづみちんちよう){一九二六年没}
穂積陳重博士は伊予(いよ){愛媛県}宇和島(うわじま)の人。明治時代の法学の第一人者でありますが、父君(ちちぎみ)重樹(しげき)氏が藩の国学教授であったので、博士も歌をよまれました。私は東京大学に講師であった時代に、親しく語りあいまして、この歌をかかれた短冊(たんざく)も持っています。それには、「大岡(おおおか)忠相(ただすけ)の墓に詣(もう)でて」と詞書(ことばがき)がかいてありますが、博士の著「法窓夜話(ほうそうやわ)」によりますと、大正四年十一月、相州{神奈川県}高座(こうざ)郡小出(こいで)村妙見寺の墓に詣でられたのであります。(小出村は東海道線の茅(ち)ヶ崎駅の北五キロほどの所です。)忠相は大岡越前守(えちぜんのかみ)といって、享保(きようほう)二年(一七一七年)に江戸の町奉行になり、すぐれた裁判官として名高い人です。
この歌は、
【いろいろなことをたずねたい、話をもしたいとおもうが、多くの年を隔(へだ)ててしまっていることであるよ。会うことができないのは残念である。同じ法律の道の友だちであると思うに。】
の意。わがふむ道と同じなので、すぐれた故人(こじん)をしのぶ情のふかい歌であります。
なお、博士の名はノブシゲでありますが、ふつうのよみによんでおきます。
麦畑(むぎはた)の 萌黄(もえぎ)天鵞絨(びろうど) 芥子(けし)の花 五月(さつき)の空に そよ風のふく
(心の花十八巻五号)
芥川竜之介(あくたがわりゆうのすけ){一九二七年没}
芥川君は、大正時代の新しい小説家としてすぐれていました。その錦糸堀(きんしぼり)中学時代に、柳川(やながわ)隆之介(りゆうのすけ)というペンネームで、「大川の水」という文を、また、歌をも歌誌「心の花」に寄せられました。ここにあげたのは、京都旅行中の一首です。古い都の五月をも、新しい眼(め)で見て美しくよんであります。
【麦の畑はもえぎ色のびろうどのように美しく、近くに芥子の赤い花もさいていて、五月のさわやかな空に微風がふいている。】
「もえぎびろうど」の句も新しく、芥子の花の配合も美しい歌です。
天地(あめつち)の わかちなかりし 上(かみ)つ代(よ)に たちかへるなり 天(あま)がけりつつ
(詠草(えいそう))
長岡外史(なかおかがいし)
長岡外史将軍は長州{山口県}に生まれ、少年時代から日本外史(にほんがいし)の素読(そどく)に通じ、藩公から外史という名を賜(たま)わったのでした。陸軍にはいり中将まで進まれましたが、在官中、陸軍臨時気球研究会会長を兼任し、また官をしりぞいてからは飛行協会の副会長、飛行倶楽部(くらぶ)の理事長などをつとめ、もっぱらわが国の航空界の発達につくされました。
また、高田師団長(しだんちよう)であった時、オーストリアからレルヒ少佐を招き、わが国にはじめてスキーを輸入して普及させた、スキー界の恩人でもあります。
この歌は、
【天と地とは大むかしは一つであったのがわかれたというが、そういうわかちのなかった上代にかえったように思われる。天の上を飛行機にのって飛んでいると。】
の意。飛行機上の気持をあらわした歌で、「あまがける」という古いことばに、新しい命が与えられたのでした。
スキーをよまれた歌も数首あります。その中の、
女らも 男に伍(ご)して 学ぶべしと 妻をしてまづ スキー穿(は)かしむ
というのは、いかにも作者の面目のうかがわれる作であります。
百日(もも)とせも 千(ち)とせも 絶(た)えず 香(か)ぐはしき 花橘(はなたちばな)に なけ杜宇(ほととぎす)
(九如帖(きゆうによじよう))
王堂(おうどう)チェンバレン{一九三六年没}
王堂(おうどう)チェンバレン先生は、イギリスの人で、明治六年日本へ来て、日本の古典{古い本}を研究し、また日本の文化を世界に広く紹介されました。かの、ラフカディオ・ハーン{小泉八雲}が、日本へきたのも、チェンバレンの本をよんで知ったからで、八雲が日本へ来たとき、チェンバレンのいた横浜のホテルで、日本での第一夜をすごしたとのことであります。
チェンバレンは、日本のことをいろいろ研究したとき、橘(たちばな)守部(もりべ)のあらわした本に、新しい考えかたが述べてあるので、守部のの子冬照(ふゆてる)のおくさんの東世子(とせこ)のところへいって、まだ出版されていない本を見せてもらいました。それで東世子のお祝いのときにこの歌を短冊(たんざく)にかいておくったのです。《注:「守部のの子」は底本のまま。》
【百年も千年も、たえずよいかおりを放っている花橘に、ほととぎすよ、来て鳴くように。】
という意です。写真にしてかかげてあるのをごらんなさい。「千とせ」を「千東世」とかいて名をいれ、「絶えず」の「ず」というのに、おめでたい「寿」がかいてあり、「花橘」に「橘」の姓(せい)をいれてあります。そうして「王堂」とかいてあるのは、チェンバレンは姓で、「バジル・ホール」が名ですが、バジルはラテン語で王、ホールは英語で堂の意ですから、日本風に「王堂」という号を用いておられたのです。
私は、このチェンバレン先生から、文学の道を教えみちびかれましたので、いまでも御恩は忘れません。昭和二十三年に私は「玉堂チェンバレン先生」という一冊の本を世に公(おおやけ)にしました。
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