老柿(おいがき)の いささ五百枝(いおえ)の をち方の 青海原は 見れど飽(あ)かぬかも
(新万葉集)
坪内逍遥(つぼうちしようよう){一九三五年没}

 坪内博士は明治十八年に、「当世書生気質(とうせいしよせいかたぎ)」「小説神髄(しんずい)」を発表して文壇に革命的な影響を与えたすぐれたかたであります。歌は晩年によまれて私にも折々示されました。この歌は、熱海市(あたみし)水口(みなくち)に移り住まれて、邸内に大きな柿の木が二本あったのに因(ちな)んで、双柿舎(そうししや)と名づけられました、そこでよまれた歌です。歌の意は、
 【老いた柿の、ささやかながらたくさんの枝の出ている、その遠方に見える伊豆の海の青い海原(うなばら)は、見ても見ても、飽(あ)かないことである。】
の意です。五百枝は枝の数の多いのをいわれたのです。


   垢(あか)づきて 仮名(かな)づけ多き 教科書も 貴(とうと)きものと 筐(はこ)にをさめぬ
(新万葉集)
西田幾多郎(にしだきたろう){一九四五年没}

 西田幾多郎博士は、石川県の人、有名な哲学者でありますが、五十歳ごろから歌をよまれました。
 この歌は、
 【手あかがつき、かなづけをたくさん書きこんだ古い教科書であるけれども、今は、とうといものと思って、大切にはこにしまった。】
という意であります。
 教科書のおかげで勉強をして、自分の今日があるのだとおもう、りっぱな心もちのあらわれた歌です。みなさんも、学校の教科書をそまつになさらずに、よくしまってお置きになるといいと思います。
 なお、博士は、鎌倉市の姥(うば)が谷(やつ)に住んでおられ、七里が浜のけしきがすきであったので、
   七里が浜 夕日ただよふ 波のうへに 伊豆(いず)の山々 はてし知らずも
という歌をよまれました。その歌の碑が稲村(いなむら)が崎(さき)から腰越(こしごえ)にむかう海岸、すなわち七里が浜の一部に立っています。


   山窓(やままど)に タイプライター たたきをれば 木つつきやをると 人きくらんか
(詠草(えいそう))
田中館愛橘(たなかだてあいきつ){一九五二年没}

 田中館博士は岩手県の人。日本の科学のいろいろな方面の創始者で、各種の国際会議に六十八回も出席、世界的に活躍されたえらい方です。またローマ字運動に一生をつくされました。
 博士は歌を好んでよまれました。この歌は大正六年四月、傷をなおすために、小さいタイプをたずさえて、湯河原(ゆがわら)温泉に湯治(とうじ)にいっておられた時の作です。
 【山に近い家の窓のところでタイプをうっていると、そとを通る人が、コツコツという音を聞いて、おや、木つつきがいるのかしらんと思うであろうか。】
の意です。これは十九日の作、次の日の二十日に寺田寅彦(とらひこ)博士にむけて、タイプでうったローマ字がきの手紙の中に、タイプの歌八首をかきおくられました。その中の三首、
   夜(よ)ふかきに タイプライター たたきなば 人や目ざめて 水鶏(くいな)とすらん
   玉あられ たばしるごとく タイプうちて 早くもことを なさまほしけれ
   「玉あられ 学びの窓」を うちしごと タイプライター うたばやな今も
 第一、二首は木つつきではなく、くいなの声、玉あられの音に擬して作られたのです。第三首は、本居宣長の著「玉あられ」に「玉あられ 学びの窓に 音たてて おどろかさばや さめぬ枕(まくら)を」とあるのによられたのです。
 博士は学士院で会議のすんだ後、時々私に歌を示されました。昭和二十七年の五月の会議の日、休憩室におりました時に、博士はいつものなごやかな面わに微笑(ほほえみ)をたたえつつ近くに来られて、紙片に鉛筆で、「ちはやふる 神代ながらの 山と水 春は花あり 秋は月あり」とかいて見せられました。私は、「花あり春は 月あり秋は」とする方が……というと、うなづいておられました。しかるに数日の後、ラジオは博士がなくなられたと伝えたので、学界の長老として尊敬していた博士の永眠を嘆いたことでした。


   秋の風 大野(おおの)を吹きて ますらをの 涙のあとに 芥子(けし)の花さく
(竹柏園(ちくはくえん)百人一首)
尾崎行雄(おざきゆきお){一九五四年没}

 尾崎行雄君は、政治家としてりっぱな人で、第一回の国会選挙以来引きつづいて代議士に当選し、六十年あまりも議会につくし、「憲政(けんせい)の神様」とまでよばれた人でありますが、歌をも折々よまれました。この歌は、欧州旅行中、オータールーでの作です。
 一八一五年六月十八日、一時優勢であったナポレオンはウェリントンの率いるイギリス、オランダ軍とブリッヘルの率いるブロイセンの連合軍とによって撃破され、潰滅(かいめつ)したのでした。その古戦場に立って、
 【秋の風がオータールーの広い野を吹いて、英雄が敗北した沈痛の涙のあとに、今あのように芥子の花がさいていることよ。】
と哀悼(あいとう)の眼(め)をそそいだ作であります。
 なお、オータールーはワーテルローともよまれていますが、仏語の辞書にヴァーテルローと発音してあるのが、ベルギーの地名ゆえよいのです。しかし、英国人のよみ方オータールーがふつうのよみ方であるとのことです。
 尾崎君は、作品を私に示されました。この歌は、大正六年一月の「心の花」附録の「竹柏園(ちくはくえん)百人一首」にかかげてあります。


 これからあとは、明治時代の和歌革新運動をおこされた落合君、正岡君、その門流の人々、また竹柏会(ちくはくかい)の人の中から、少数の人の作のお話をします。


   やよや子ら 東鑑(あずまかがみ)に のせてある 道はこの道 春のわか草
(萩之家(はぎのや)歌集)
落合直文(おちあいなおぶみ){一九〇三年没}

 落合直文君は、明治の和歌を革新した一番はじめのすぐれた人であり、第一高等中学校{一高、今の東大教養学部}の先生として、国語国文を教えられました。本郷(ほんごう)駒込(こまごめ)の浅嘉町(あさかまち)に住んでおられたので、浅香社(あさかしや)という歌の会を興(おこ)され、その門下から多くのすぐれた歌人がでました。
 【お聞きなさい、子どもたちよ。あの東鑑という書物にのっている道は、この道なのだよ。こういって自分らが歩いている道のあたりは、過ぎさったむかしを土の下に深くひそめて、今年の若草が新しく芽をふいている。】
 「東鑑」というのは、鎌倉幕府の記録で、鎌倉時代の武家政治のようすを知るための大切な材料です。どんな道も、むかし歩いたであろう人のことを思えばなつかしいものですが、六百年前の記録にも残る道ですから、なおさらのことです。多分、鎌倉へいかれた折の作で、東鑑という特に縁(えん)の深い書物の名をよまれたのが、当時の歌として新しくおもしろいのです。落合君の作には、ほかにも有名な歌がありますが、それらは他の書物でも読まれるでしょう。

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