長歌(ちようか)と旋頭歌(せどうか)

 これまでこの本では、五七五七七の五句でできた短い歌のみをあげてきましたが、わが国の歌は、この短歌だけではなくて、長歌{ながうたともいいます}という、長い歌があります。また、短い歌より一句多い六句の旋頭歌という歌もあります。
 ここでは、その長歌、旋頭歌についてかんたんに述べます。


   天地(あめつち)の わかれし時ゆ 神(かむ)さびて 高くたふとき 駿河(するが)なる 富士の高嶺(たかね)を 天(あま)の原(はら) ふりさけ見れば わたる日の かげもかくろひ 照(て)る月の 光も見えず 白雲(しらくも)も い行(ゆ)きはばかり 時(とき)じくぞ 雪は降りける 語りつぎ 言(い)ひつぎ行かむ 富士の高嶺は
(万葉集 巻三)
山部赤人(やまべのあかひと)

 この歌は、赤人が関東地方へくだるときに、富士山をあおぎ見てよんだので、調子のなだらかさといい、気品といい、りっぱな歌であります。
 歌の意は、
 【天と地とがわかれた時から、こうごうしく高くとうとい姿をしている駿河の富士山を、大空高くふりあおいでみると、空をわたってゆく日の光も山にかくれ、照る月の光も嶺(みね)にさえぎられて見えない。白い雲も行き過ぎるのをえんりょしているようであり、頂上には、いつでも雪がふりつもっている。なんというすばらしい山だろう。この富士山のようすは、まだ見ない人々にも、また、のちの世の人たちにも、言いつぎ、語りついでいきたいものである。】
というのです。

 この長歌には、次の短歌がついています。
   田子(たご)の浦(うら)ゆ うち出(い)でて見れば 真白(ましろ)にぞ 富士の高嶺(たかね)に 雪は降りける
 赤人は、奈良の都にいる時から、富士山はよい山だと聞いていたのでしょうが、たまたま東海道を旅して、田子の浦から美しい富士山をながめて、すっかり感心してしまったのです。
 歌の意(こころ)は、
 【田子の浦を通(とお)ってきて、ながめのよいところへ出てみると、富士の高嶺にまっ白に雪がふりつもっているのであった。】
というのです。
 この短歌のように、長歌のあとについたものを反歌(はんか)といいます。長歌には、たいていの場合、反歌がついております。これは、長歌全体の気持をまとめて短くうたったり、長歌にうたいきれなかったことがらを補(おぎな)ったり、あるいは心持を強めたりするためにうたう歌であります。
 この田子の浦の反歌は、百人一首の中にもはいっていることは、みなさんもご存じでしょう。ただ、百人一首の方では、ことばが少しちがいますが、万葉のこの原作(げんさく)の方がはるかによいのです。そして、この短歌が特にすぐれたものとなっているのは、反歌としてこの長歌に添(そ)っているからなので、長歌の雄大なひびきに対して、清らかな実景を述べ、作者の見ている場所を示すとともに、長歌のけだかさによって、その気品と重みとを加えています。この長歌と反歌とは、相照らしあわせて鑑賞しなければならないものです。
 「田子の浦」は、静岡県の由比(ゆい)、蒲原(かんばら)あたりの海岸のことで、今、田子浦(たごのうら)といっている富士川の東側ではありません。赤人は西の方からその海岸を進みました。「浦ゆ」の「ゆ」は、奈良時代のころの古いことばで、ここでは、……を通(とお)ってという意であります。

 なお、万葉集にある長歌で、一番長いのは巻二にある柿本人麻呂の百四十九句の歌、一番短いものは巻十六にある佐為(さい)王に仕えた女の七句の歌です。
          
  次に、最も古い旋頭歌(せどうか)について述べます。


   新治(にいばり) 筑波(つくは)をすぎて いく夜か寝(ね)つる
   かがなべて 夜(よ)には九夜(ここのよ) 日には十日(とおか)を
(古事記)
倭建命(やまとたけるのみこと)
御火焼(みひたき)の老人(おきな)

 さきに弟橘比売(おとたちばなひめ)のお歌のところで申しましたように、倭建命は無事に海をわたって上総(かずさ)におつきになりましたが、その後、東国を一帯(いつたい)に平定して、お帰りには足柄(あしがら)山を越えて甲斐国(かいのくに){山梨県}にはいられました。そして酒折(さかおり)の宮においでになった時、長いご旅行の労苦をふりかえって、最初の四七七の三句をお歌いになりました。すると、庭でかがり火をたいているお伴(とも)の老人(ろうじん)が、すぐに答えて、次の五七七を歌ったのでした。
 【新治や筑波のあたりを通ってから、幾晩寝たことであろうか。
  指折り数えてみますと、夜では九晩(ここのばん)、日では十日になります。】
というのです。新治・筑波は常陸国(ひたちのくに){茨城県}の一部、筑波山を仰(あお)ぎ見る地方で、古代から開墾が進んでいたようです。「かがなべて」は、指を折ったり伸ばしたりして物を数えること、という説もありますが、ふつうには、日を並べて、日数を重ねての意と説きます。
 歌で問答をするのはおもしろいではありませんか。さきに源義家(みなもとのよしいえ)のところで一首の短歌を二人でつきあわせて作る連歌(れんが)のことをお話ししました。それも、二人で作るところは似ていますが、問答というのではありません。また、頓阿(とんあ)と兼好(けんこう)のところでお話ししたように、一首ずつの短歌をやりとりして、問答をした例も、古くからありますが、この倭建命と御火焼(みひたき)の老人との問答とは、体裁の上でちがいがあります。
 この問答は、五七七の形でやりとりをしていますが、この五七七の三句は、片歌(かたうた)といいます。この片歌を二つ組み合わせると、ちょうど短歌の上(かみ)の句と下(しも)の句とのように、一つづき一首のものと見ることができます。このように、片歌のくりかくし、五七七・五七七の六句の形をとった一首の歌を、歌の種類として「旋頭歌(せどうか)」といいます。この新治筑波の歌も、旋頭歌の仲間で、しかもこれは、最も古い例になります。(新治(にいばり)は四音ですが、五音のように歌ったものと思われます。)《注:「くりかくし」は底本のまま。》
 旋頭歌といってしまえば、何も二人の問答にならなくてもよいわけですが、新治筑波のが問答の形をとっていることは、やはり旋頭歌がもともと、かけあいや問答から起ったことを示すものでしょう。なお、後の古今集(こきんしゆう)には甲が旋頭歌で問いかけ、乙がやはり旋頭歌で答えた、二首の問答もあります。
   うちわたす 遠方人(おちかたびと)に 物申す我(われ) その其処(そこ)に 白くさけるは 何の花ぞも
   春されば 野辺にまづさく 見れどあかぬ花 幣(さい)なしに ただなのるべき 花の名なれや
 【はるかに見わたした向うにいる人におたずねします。そこに白く咲いているのは何の花ですか。
  春になると野辺に最初に咲く、見てもあきない花です。お礼もいただかずにただお教えできるような花の名でありますものか。】

 最後に、万葉集の旋頭歌一首をあげましょう。


   君がため 手力(たぢから)つかれ 織(お)れる衣(ころも)ぞ 春さらば いかにかいかに 摺(す)りてはよけむ
(万葉集 巻七)
作者不詳(ふしよう)

 【あなたにお着せするために、手の力が疲れるほど骨を折って織りましたこの着物なのです。春になったならば、どんなぐあいに花をあつめて摺って染(そ)めたらばよいでしょう。】
 女の人が、やさしい希望をうたった歌です。
 旋頭歌は頭(こうべ)にめぐらす歌という意、それは、次の五七七の句をはじめの五七七の頭に旋(めぐ)らしてもいいという意でつけられたと思われます。「春さらば いかにかいかに すりてはよけむ、君がため 手刀つかれ 織れるころもぞ」といってもよいのであります。
 このやさしいうつくしい希望にみちた歌で、和歌ものがたりをとじめます。


    あとがき (一)

 終りに、私自身のことを少し書かせてもらいます。私の父は歌よみでしたので、私の小さい時に、万葉集や山家集(さんかしゆう)や、いろいろな歌の本からぬいた歌の暗誦(あんしよう)をさせられました。何の事か意味はわかりませんでしたが、歌というもののしらべ(リズム)が口にのりやすいので、かなりな数をおぼえました。父のいた書斎の障子(しようじ)には、真中(まんなか)のところに、赤と白と紫と三段にガラスがはめてありました。私が六歳の年のある朝、雪の降っているなかで鴬(うぐいす)の声がしましたから、「障子から のぞいてみれば ちらちらと 雪のふる日に 鴬がなく」というのができましたので、父にいいますと、「よしよし、歌になっている、これからも作りなさい」といわれました。
 私の家は、伊勢(いせ)の国{三重県}の石薬師(いしやくし)という村でしたが、その後、同じ国の松阪(まつざか)という町に引こしました。笠寺(かさでら)という名高い寺の祭(まつり)の前の晩に見物にいきましたとき、田舎者(いなかもの)ともいうべき私には、いろいろ目にとまるほしいものがありましたので、「笠寺の 宵宮祭(よいみやまつり) きてみれば ほしき売り物 つづきけるかな」とよみました。「けるかな」は七歳の子どもとしてませた言いかたですが、暗誦した歌の句が、自然に出たのでありましょう。これらがよみはじめで、今年数え年の八十五になるまで歌をよみつづけてきました。
 なぜこんな話をするかと申しますと、この本を読まれる小学生や中学生のみなさんにも歌をよんでもらいたいと思うからです。たとえば、
「遠足にいった。道の桜並木(さくらなみき)がうつくしく、蝶(ちよう)が舞(ま)っていた。」
「テレビで、すもうを見て、おもしろかった。吉葉山が負けたのは残念だ。」
「にいさんは山へいった。ぼくはあしたの日曜は海へいこう。」
「青い海の沖(おき)の方に、白いヨットがたくさん浮かんでいた。」
「音楽会の帰りに、自分もピアノがひきたくなった。おどって歩いた。」
「野球のクラスマッチで、ぼくの打った球が運動場のへいをこした。」
「ねえさんの家へバスでいったら、菊がさいていた。」
「ぼくは昆虫採集がすきだ。標本も大事にしてある。」
「新しい手さげかばんを買ってもらって、うれしい。」
「雨がふりつづいて、いつもうつくしい川の流れにごみが浮いている。」
「雨があがったら、筑波(つくば)山がうすむらさきにくっきり見える。」
「汽車にのると、おかあさんにつれられてきた妹がバイバイと言う。」
「みやげに、かわいいコケシ人形を買ってきた。」
「ふろたきをして、いいかげんになったころ、ちょうどおとうさんが帰ってこられた。」
「学校の帰りに、どこかの犬とかけっこした。」
……なんでもみんな歌です。歌になります。むかしの歌とちがって、今では、いうことばをみな歌によんでよく、漢語でも、外国語でもよんでよいのです。前にのべた林甕臣(みかおみ)さんの歌のように、今いっており、思っていることをよんでよいのです。そして、だんだん作っているうちに、こまかいところへも気がつき、よいもの、美しいもの、大事なことを見つけだす目が養われることになるでしょう。
 歌は心の日記です。日記をつけるようなものです。その日のうちで感じたことをよんでおくと、いつまでも心に残ります。また、歌をよむのは絵をかくのと同じです。心の絵をかくのです。旅に出てうちへおくる絵葉書に歌をかいておくると、おとうさん、おかあさんが、どんなによろこばれることでしょう。
 まだまだいろいろ言いたいのですが、これでおしまいにします。


    あとがき (二)

 さ・え・ら書房の主人浦城(うらき)君が、熱海(あたみ)西山の私の書斎を訪ねられて、小学生や中学生のための歌の本をと、たのまれました。私には大勢の孫や曽孫(ひまご)もありますが、みな離れて住んでいて、歌の話をすることもできません。それで、私の孫や曽孫にも読ませたい、また一般の家庭でも、わが国の古い歌や新しい歌を読んでもらおうと思って引きうけることにしました。そうしたら浦城君は、お茶の水女子大学附属小学校教官の石田佐久馬君と、いま二人録音をとる人とを、二度つれてこられました。私がメモによって次々に話をしたのをテープレコーダーにとり、後にその録音によって石田君が清書をし、わかりやすくかいてくださいました。それにさらに筆をくわえたり、いろいろ書きたしたりして、この本ができたのです。私は、若い時からたくさんの本を書きましたが、その中でこの本のでき方は、変わったものでした。
 また、本の中に絵を入れるにつけて、正倉院(しようそういん)の御物(ぎよぶつ)の開眼(かいげん)の筆、東大寺の四聖(しせい)の御影(みえい)をはじめ、あちこちのお世話になりました。それでこの本は、特にめずらしいとうとい材料をかかげることができたのです。石田君をはじめ、いろいろお聞きした方々、写真をとってくださった方々に、あつくお礼を申します。

昭和三十一年九月                   佐佐木信綱