序

    一

 二百五十余隻、百六万トンの連合艦隊が出撃し、戦終るや、戦艦〇、重巡〇、小型空母一、軽巡三、潜母一、特務二、駆逐艦三〇、潜水艦一二、合計四十九隻しか残つていなかつたという惨敗を、開戦の前後に何人が予想したであろうか。
 大本営は、勝つた戦は誇大に発表したが、敗戦は悉く秘匿した。国民の意気を阻喪させないため、という理由からであつた。米英が、敗戦を常にそのまま発表して国民の奮起を促していたのに較べると、思慮の深浅に格段の相違があつた。かくて我が国民は、斯くまでの惨敗とは知らずに終戦を迎えた。だから多くの人は「レイテ海戦? それは何だ?」といつた具合だ。「マリアナ沖の決戦? そんな海戦があつたのか?」と苦笑する。「七万トンの空母信濃が出陣の第一日に沈められた? そんな大きい軍艦が?」と怪しむだけである。
 敗戦十年を経た八月十五日の記念に、私は試みに、本書の題名で数回の海戦記を書いてみた。ところが、市井の反響は、私の四十年の記者経験中で最大のものを感じ、記者として退き下がることが出来なくなつた。遂に、「時事新報」紙上に七十六回、引続き「産経時事」の紙上に四十一回の長篇を書いてしまつた。書き続ける以上は、正確な史実に基き、綜合的に、解説と批判とを織り交ぜて、一つの描写を試みようと思い立つた。謂わば連合艦隊の伝記の終末篇を書くようなものだ。

    二

 連合艦隊はお葬式を出していない。一個人の死が新聞の記事になり、本願寺や青山斎場の行列を見ることを思えば、四百十隻が沈み、二万八千機が墜ち、四十万九千人が斃れた「連合艦隊の死」を、お葬式なしに忘れ去るというのは、余りにも健忘であり且つ不公平でもあろう。私は海軍のフレンドとして、その国防史の一つのブランクを埋める役目を買つて出たようなものだ。私が海軍担当の記者として勉強したのは、大正三年から六年までの三ヵ年に過ぎないが、その因縁の糸が四十年近くも切れなかつたのは、一つの運命なのであろう。
 連合艦隊の最後は、哀れという文字の代表であつた。その敗北は、惨澹という表現の極致であつた。敗れずに済んだものを、天運に見放されて敗れた戦さもある。一時の油断のために、勝つべきを失つて戦争敗北の遠因を作つた戦さもある。「惜しい」という言葉の意味を、本当に噛みしめる場合は幾つもある。
 が「惜しい」最大のものは、世界第三位の海軍力を全損したことだ。世界第一の軍艦を失つたことだ。世界第一の兵器が無駄になつたことだ。世界で一、二を争つた兵術が、生産力の不足によつて立往生に終つたことだ。そうして、それらは、政治を誤らなかつたならば、軍閥が日本を支配しなかつたならば、また海軍に開戦反対の勇気があつたならば、「失わずに済んだ」ことを顧みて「惜しい」想いは、愈々痛切ならざるを得ない。況んや領土を失わずに済み、世界一流の大国として存在し得たことを考えれば、「惜しさ百倍」の念仏を高唱する外はない。

    三

 しかしながら、この小さい島国が、開国五十年にして世界五大国の一つに位した驚異の躍進と併行し、海軍力の躍進が一層の華々しさを誇つた歴史は消えるものではない。大正の末期、我が海軍は既に世界三大海軍の一つに列なり、昭和十六年の実力は、イギリスと第二位を争う程度に充実していた。それほどの立派な連合艦隊は、悉く日本国民が造り上げたものであつた。我が民族の財力と智力とが生んだ以外の何物でもなかつた。
 またそれを駆使して戦つた将兵は――特に百万の若人は――日本という国の為に、身を挺して国難に赴いた。戦争を決めた少数の犯人は万死に値するが、戦つた幾百万人の犠牲心は、時代が何う変ろうとも、不滅の尊い記録として永えに民族史の上に染めらるべきである。《注:「染めらるべき」は底本のまま。》
 連合艦隊とその人々。艦隊は再び還らないが、日本と日本人とは残つた。問題は、その日本人が、「還らぬ人々」の愛国心と犠牲心とを記憶して、よく己れの戒めとするか何うかに懸かる。連合艦隊を還元するとすれば概算二兆五千億を要するから、それは還らぬものと諦らめる外はあるまい。だが、日本人の心は還元し得るであろうし、また還つて貰わなければならない。いな、屹度遠からずして還るであろう。
 私は太平洋海戦史を書いている間に、民族の正しい認識、犠牲心の尊さ、日本の希望、国民の衿持、といつた感想の湧いて来るのを禁じ得なかつた。右はそうした感想の一端を述べたもので、本書を読まれる人々の感じは各々異なるであろうし、また、それこそ完全に自由だ。本書は唯だ、海戦を出来るだけ正確に調べて、一記者としての批判を書いたものに過ぎない。連合艦隊の最後を弔つたまでである。
 回顧する、昨年の一月には亡妻を弔うために「恒子の思ひ出」を書いた。いま又、艦隊を弔う一冊を書いた。次は、何か大いに興るものを書き度いものである――。

   昭和三十一年一月
               伊藤正徳

 増刊私語(二十五版発刊によせて)
 〇第二十五版が出版される事になつた。
 〇二十五と言う数字は、自分の一番好きな数字だ。多分其の年大学を出て、一人前になつたからであろう。
 〇丁度この時、米英仏三国から訳本が出版される事になつた。
 〇これをもつとも喜ぶであろう妻の墓へ代参をおくつた。
 〇これが丁度、百二十五回の墓参になつた。
  昭和三十七年四月      著者

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