第一章 艦隊成るまで
一 連合艦隊への郷愁
立派だつた艦と人とを弔う
「連合艦隊」の名は長く国民に親しまれていた。「聯合艦隊」の字は海国日本の護りとして、安全感の護符のように思われていた。世界第三位の海軍。或る艦種では世界一の海軍。強く、しかもスマートな姿。威容という文字がそのまま当て嵌まつた海軍。それは国民に親しまれ、且つ信頼される十分の真価を持つていた。
その大海軍が、いかに敗れたとはいえ、影も形も残さないように消え去つたのは一体何うしたわけだろう。昭和十六年十二月八日、広島湾を打つて出た大戦艦十隻の中の九隻が沈没し、僅かに残る一隻の「長門」が、横須賀埠頭に繋がれて砲術学校の教室に使われていたという――敗戦直後ビキニに曳かれて原爆の試験に沈む――一〇〇%の凋落は、そもそも如何にして由来したか。
敗戦の翌春、文芸春秋は早くもこれを捉えた。連合艦隊の末路について、私に執筆を希望した。私は確信もなかつたし、また、友人の屍を掻き回すような気がして心が進まなかつた。また、仮りに無理をして書いたとしても、今日のような記録は得られなかつたに相違ない。今は敗戦から十ヵ年を過ぎて、一般の気持も漸く落ちつくと同時に、不思議にも(?)、未だ「連合艦隊」に対する回顧の情が、国民の心に活きていることを発見した。四、五回で打切る予定で、時事新報に書いた表題の拙文が、相次ぐ要求によつて遂に八十回の長稿に発展して了つたのは、私の意思であるよりは一に読者の意思であつた。
思うに「連合艦隊」の名は、残念にも「聯」の字が「連」に変つてしまつたが、それに対する憧憬の回顧は、国民の胸底深く秘められていたようである。曽て東郷司令長官がロシアのバルチック艦隊と決戦するため出動するに際し(日本海海戦。世界名は対馬海戦)、鎮海湾の碇泊地から大本営に宛てた電報に、
「敵艦見ゆとの警報に接し聯合艦隊は直ちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども浪高し」
の一文は、その後久しく国民が愛誦した名文句であつた。それはまた、戦闘開始に当り、旗艦三笠の檣頭高く掲げられた、
「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
の信号――いわゆる「Z信号」――と共に忘れられない感激の文字でもあつた。遡つて黄海海戦(日清戦争の海上決戦)には旗艦松島の勇敢なる水兵があつた。敵艦定遠(当時の世界的巨艦で我が主力艦の二倍大)の巨弾が「松島」に命中して多数の死傷者を出した。その中の瀕死の一水兵が、通りかかつた副長に縋りついて呼吸も苦しく尋ねたのは「定遠はまだ沈みませんか」という一語であつた。副長は感激し「安心せよ。定遠は戦闘不能に陥つた」と告げるや、水兵(三浦寅次郎)は最後の微笑を湛えながら「どうか仇を討つて下さい」と言いも終らず息絶えたという戦さ物語である。その軍歌の結びの句は、
「まだ沈まずや定遠は
その言の葉は短きも
御国を守るくにたみの
心に永く記されん」
という一節であつた。「国民の心に永くしるされん」と謳つた作者佐佐木信綱博士の悲願は、大部分は既に消えたであろうが、なお一部国民の心底に、不滅の生命を残しているのではなかろうか。
このような郷愁は、同時に私が曽て海軍担当の海軍記者であつた時代(大正三年~六年)の歓びを呼び戻し、「お葬式」を出さずに死んだ連合艦隊のために、その十年後の新祭壇に立つて、友人総代の弔辞を読む気持に駆られるのである――。
このとき敬友小泉信三氏が長い感想の手紙を寄せられたが、それは正しく海軍に対する青年の親愛の記憶を雄弁に語るものであつた。小泉氏は慶応義塾の塾長当時庭球部長を兼ねていた。氏の還暦の祝いに旧テニス選手数十名が先生の家に集まつた。丁度昭和二十二年で敗戦の心の傷も未だ生々しく、且つ占領政策もきびしい時であつた。酒がまわつた後、代表が「お祝いとうさ晴らしに何か合唱をしたいが如何ですか」と言うので勿論賛成すると、一同が忽ち大声で合唱したのは実に「軍艦マーチ」であつた。その頃彼等が占領に対して為し得た最大のレジスタンスであつたが、その叫びが「軍艦マーチ」である所に、我が海軍に対する国民敬愛の潜むのを認め、海軍が好きであつた先生も胸を打たれた――というのが手紙の要旨である。
二 「不沈戦艦」の秘密建造
世界一の三巨艦の由来
日本の海軍が世界に話題を蒔いた多くの事件の中で、超大戦艦「大和」「武蔵」「信濃」の建造は其の最も大きい一つであつた。英米の代表的戦艦が三五、〇〇〇トンであるのに、この三艦は七二、〇〇〇トンというのだから、正に内外の驚愕に値した。その裡には多くの悲喜劇が伏在する。当時、国民は全然その建造を知らされなかつた。こんな大きい図体を、人に隠して造ろうとした海軍当局者の心臓も大したものであつたが、其の苦心もまた並大抵ではなかつた。
その出生も、その死亡も、共に知らされなかつた国民が、執筆中の私に多くの質問を発したのは、海軍への郷愁と相俟つて極めて当然であつた。要約すると、
「世界最大の戦艦を造つたその造艦の誇りは民族の名を荷うて世界の歴史に永久に刻まれるものだ。徒らに敗戦を嘆くばかりが終戦の回顧ではない。七万二千トンの巨艦は再び造ることはなくとも、日本がそれだけの能力を持つていたという歴然たる事実は、民族の再興に一大精神力を注入するものである。が、戦略戦術の面から、何故に斯かる大戦艦を造つたのか? 不沈戦艦が何うして沈んだのか? 英米主力艦の殆ど二倍に近いような巨艦を、日本が何うして造り得たのか? 今では想像も及ばないが、何所かに欠点がなかつたか? 相撲力士の巨大漢に何所か欠点があるように――。或は戦術運用を誤まつて沈んだのか。それらの真相を知りたい」
というのだ。当然の疑問であるが、その疑問こそは“日本海軍の疑問”であり、その解説の中から幾多の面白い示唆が得られそうである。超大戦艦大和、武蔵、超大空母信濃の秘密建造は即ち海軍戦略の表裏内容を語るものだからである。
もし神様に聞くことが出来れば、武蔵、大和、信濃の三艦には沈没の宿命を授けておいたと告げるかも知れない。それは條約を破棄する肚を以て建造に着手したものだからである。これら三隻の超大鑑は、一九三六年以降相次いで、長崎と呉と横須賀とに於て、未曽有の大垣根を張り回した造船台の上にキールを据えた。絶対秘密もこの大垣根其の物をかくす術はなかつたが、中身を秘匿し得れば目的を達するという苦心惨憺の造艦であつた。何故隠さなければならなかつたか。(信濃、大和は初めから船渠内建造)
七万トンの大戦艦は必ずしも條約違反の産物ではなかつた。しかし「平和の神」の目は、つとに日本の條約破棄の心底を透視していた。
一九三六年の世界危機の当時も、ワシントン軍縮條約は未だ活きていた。日英米の三大海軍国はこの條約の下に戦艦の建造を休止していた。かつて英独の建艦競争が第一次世界大戦の導火線になつた事実を知る政治家達は、今度は日米海軍競争が第二次大戦の口火になることを恐れ(英海軍をも捲き込んで)、一九二二年、ワシントン会議に於て見事に軍縮協定を成し遂げた。有史初めての成功であつた。日本の主席全権、元帥加藤友三郎(日本海軍の最も尊敬されたワンマン。後に首相)は、この協定を成立させる上に大きい役割を演じ、英米のジャーナリズムから雨のような賛辞を浴び、ひいて日本海軍の名を高からしめた。
日本が「世界三大国」の一つに数えられた嘘のような華々しい姿は、勿論国力の伸長と大海軍の威容とにまつ所が多かつたが、加藤が、英のバルフォーア、米のヒューズという世界屈指の政治家と列んで、いささかも遜色がなかつたばかりでなく、幾度びか会議の難局を打開する主導権をとつたことが、大日本の評価と無関係でなかつた事実を、私は華府で目撃している。
その加藤は帰国して海軍を一挙に半減した。條約を忠実に守り、世界第三位の海軍力に甘んじ、戦わずして平和裡に国力の発展を期するという大戦略の指導に当つた。部内の強硬派も、陸軍の猛者も、加藤の前では一言も発することが出来なかつた。
不幸にして、加藤は、五・五・三のワシントン比率(英米日の兵力割合協定)に対する不満を根絶するまで長く生きなかつた。海軍は大切なワンマンを失つた。強硬派が台頭し始めた。強硬派は比率の改訂を主張し、駄目なら條約を破棄しても構わぬという主張であつた。一九三〇年のロンドン軍縮会議当時は、未だ加藤元帥の余勢が残つていた。岡田(後に首相)、財部、野村、山梨、堀といつた智将が要所にあつて協定をまとめた。米内(後に首相)、山本(五十六元帥)等もその後継者であつた。
ところが、五・一五や、二・二六事件の軍情と表裏を成して強硬派が大勢を支配して来た。一九三五年に約束された第二次ロンドン会議は軍縮協定の運命を決する会議であつた。その重大性の故に、一九三四年に予備会商がロンドンで行われた。少将の身を以て代表に選ばれたのが山本五十六であつた。條約派も反対派も、共に彼の将来に期待をかけたのだ。山本は帰つて筆者に打明けた。
「来年は先ず絶望だ。次善の策を考える外はない。マクドナルド(英首相)と二人で話したが、流石に偉い政治家だと思つた。親切なおやじの話を聞いているような感じがした」
山本が加藤友三郎の思想を継ぐ人であつたことは明らかだ。しかし未だ身分が低い(少将)。強硬派の中に和して如何にこれを引摺つて行くかを念ずるのみであつた。
果然一九三五年の会議は決裂した。日本海軍は初めからその積りで臨んだといえる。残るところは、一九三六年を以て終る「戦艦建造休止の條約」を更に五ヵ年延長し、その間に妥協の商議を重ねることだけであつた。英米はこれを頼るべきただ一本の親綱として平和の橋を渡ろうと願つた。戦艦の建造さえ再開されなければ、海軍競争は一応防ぎ得ると信じられたからである。
いよいよ一九三六年が来た。世界は日本の態度を凝視した。海軍平和の成否は一に東京霞ガ関の去就にかかつていたからだ。ところがその秋、日本はワシントン條約の延長無用を声明し、協定から脱退する旨を通告したのである。その当時の世界の騒ぎはここで描写しているいとまがない。とにかく、世界政情四面暗澹たる中に、もしも日本が休艦協定の延長に同意したら、それだけが東方を染める一道の光であり、その光を頼つて天下の暗雲を開く術もあろうと希願した世界が、いかに失望の底に叩かれたかは一目瞭然である。
それほどの大事だ。日本も軽々しく行つたわけではない。海軍部内の自重派はつとに努力を傾けた。元老政治家達も国際日本の不利を深憂した。しかし既に海軍の大勢を支配した條約脱退派(建艦競争派)の怒涛の突進を堰きとめる術はなかつた。
戦艦「大和」が呉工廠で龍骨を据えるのと、條約脱退の通告が華府に到着するのと正に同時だ。真珠湾の奇襲と宣戦通告とが殆ど同時であつた如く――。
三 建艦すれども戦争せぬ
米内海相が議会で確言す
條約脱退の通告と間一髪に「大和」の建造が開始された。本来ならば神業にも出来ない相談だ。それが出来たところに問題がある。
①既に二年前から建艦の肚が決つていた。
②設計の青写真が何枚も作られた。
③一年前から造船台の準備と諸材料の収集が開始されていた。
それでなければ大戦艦の建造が條約廃棄と同時に始められる道理は絶対にない。いわんや、日本は英米と同様に、十五年間も戦艦の建造を休止していたのだ。更にまた、日本は三万五千トン以上の軍艦を造つた経験を持たない。英米も同様であつた。そこでワシントン條約は軍艦のトン数限度を三万五千トンに決めていた(註。唯一の例外として英国の既成巡洋艦フッド号の四万二千トンを認めた。そのフッドは大西洋で独艦ビスマーク号のために撃沈されたのは皮肉である)。
十五年間も休んだ後、三万五千トンから一挙に二倍の七万トンとは、よくも造つたものである。英米の専門家でさえ五万トン級以上には予想しなかつたことを思えば、我が造艦の技術と肝ッ玉とは記録的のものであつたことが回顧されよう。目指すところは、建艦競争再開の日、数では英米には勝てないから質で勝つ外はない。それには英米の思いも寄らない巨大艦を一挙に造つてしまうことだと考えたのである。もう一つの大きい理由は、この大艦はパナマ運河を通過することが出来ないから、他日アメリカが之に倣つても、艦隊を大西洋から太平洋に移動するのに大困難を来すという狙いもあつた。
かくて一九三六年十一月、條約脱退と同時に起工された戦艦「大和」は、條約が厳存していた間に設計が済んで、世界が休艦延長を念願する最中にキールを据えた。私が前稿に、「神様の目は日本の破約を睨んでいた」と書いたのはこの意味である。天下未曽有の大建艦は見事に成就したが、天意にそむいた運命の末路は前述の通りである。
しかしながら、ここで誤解のないよう一言しなければならないことがある。それはこの大建艦は條約の精神に反したとしても、建艦の目的は戦争を挑むことでは断じてなかつた、という一事である。
むしろ、平和の裡に、大海軍の威力を背景として日本の国際的立場の向上を計るという心構えであつた。加藤友三郎の大戦略は、根本に於ては依然として海軍を支配していた。七万トンの巨艦は、英米との交渉に於て必ず「物を言う」し、何国といえども日本を軽視することを許さない「鉄の保障」を打樹てるという思想に発したのである。
海軍大臣米内光政が昭和十二年冬、議会に於ける質問に答えて、
「帝国海軍は英米を相手に回すような兵力は持たないし、将来もまたそんな計画をする考えは毛頭持たない」
とハッキリ言い切つたのは、所信を確言したものであつた。この発言は重大である。その時戦艦「大和」は既に造船ドックの中にあり、武蔵、信濃の建造も確定していたことを想起して感慨深いものがある。
のみならず、当時、日独伊防共協定の強化に真向から反対したのは、海相米内と次官山本五十六であつた。なかんずく、山本は全陸軍を向うに回して一歩も譲らず、刺客に狙われて臆せず、遂に協定案を葬り去つた。「英米を敵に回すような馬鹿はやらぬ」という固い戦略信念は、たとえ「大和」を造つても寸毫も変る所はなかつたのである。
ただ大戦艦の率先建造が世界の空気を悲観の方向に導いたことは争われない。私は一九三七年秋から翌年春にかけて欧米の新聞訪問をやつた。殆ど例外なく日本の大艦建造が質された。英国の隠れたる大記者グイン(前モーニング・ポスト紙主筆)は、日英同盟の締結当時からの記者で、心からの親日家であつたが、「自分は日本の大建艦は海上勢力の上ではプラスになるが、国勢の大局に於てはマイナスになりはしないかと心配している」と言つた。私は終りに、
「英米は何故日本に七割の海軍を許さないのか。一割認めれば(当時は六割――即ち英米連合軍の三割)万事解決するのだ。大局から見て英米にそれ位の政治的見識が欲しい」
と述べたところ、グイン氏は同感であり誠に残念だと答えた。私は今でも残念だと思つている(一〇・一〇・六の米英日海軍比を一〇・一〇・七にすれば海軍の不満は忽ち氷解した筈だ)。
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