四 対米戦争の勝算?
        陸軍は盲信し、海軍は疑惑す

 大和、武蔵は造つても戦争は極力回避するという戦略思想が、厳として海軍を支配する限り戦争は起らないであろう。重臣会議が総理大臣に海軍大将米内光政を推したのは、時と人とを得たものであつた。が、陸軍の不満は掩うべくもなかつた。陛下のお口添えで漸く畑陸相が就任したが、畑は間もなく薄弱なる理由で辞表を提出し、そうして陸軍は後継者の推薦を拒否した。筋書通りである。米内が前に海相として日独同盟を峻拒したその仇を討つと同時に、陸軍の意思に反する内閣の流産を示威したのである。米内去つて東條への道が開け、「英米討つ可し」の青年将校の矯激論が政治を動かす動向いよいよ露骨を加えて来た。この下剋上の府に於て、大佐以下の世界を知らぬ連中の親独排米論は完全に将官級を牛耳つていた。石原中将の対満集中論も排斥され、岩畔、辰巳等の米英を知る大佐級は帷幄の外に退けられ、戦争論は滔々として三宅坂から全国に奔流した。
 その時、海軍大将山本五十六は、連合艦隊司令長官として海上にあつた。如何なる内閣にあろうと、もし山本が海軍大臣であつたら、日独同盟には全海軍を背負うて反対したであろうし、対英米戦争には更に強く反対したであろう。海軍が反対なら、陸軍が如何に剣を鳴らしても一人で戦争は出来ない。何たる不幸か、山本は旗艦長門の司令長官室で独り前路を憂うるのみであつた。
 山本を艦隊長官にしたことを、或る軍事参議官は「海上に逃がした」と説明した。東京に居れば暗殺されること必至であり、それは国家の大損害だというのだ。山本としては連合艦隊の長官は武将最高の誉れであり、それを断る理由はない。かくて「軍人は政治に干与すべからず」という詔勅の境域に去つた。
 就任に際し、山本は語つた。「後は吉田善吾にやらせる。吉田という男は、君は知るまいが俺より頑強だ。あれにやらせて置けば大丈夫だから安心し給え」と。これも一つの不幸だが、吉田は内外に迫る神経戦に健康を損じ、間もなく退任の外なきに至つた。その後は、智あれども勇なき人々の登場となり、陸軍に引摺られて渋々ながら深淵に落ちて行くのである。
 近衛首相は、新任及川海相の態度が、米内や山本と違つて陸軍と妥協的であり、段々と引摺られて行くのを心痛し、昭和十六年初秋、山本長官の上京を機会に二人で荻外荘密談を催した。近衛の質疑は、日本海軍が英米と戦争して勝算があるかという一点であつた。山本はハッキリと答えた。
 「一年間なら十分に暴れてみせましよう。それから先は保障は出来ません」
と。つまり長期戦は負けという返事だ。つまり、戦争はやらない方がいい、ということを言外に明示していた。二人とも、英国人のジョン・ブルの粘り、米国民の大和魂に劣らぬパイオニア・スピリットを知つていた筈だ。そこで対英米の戦争は何としても避けねばならないという方針が、近衛の肚にも確然と定まり、対米外交に全力を注ぐこととなり、それがまた陸軍の憎悪を招き、遂に東條の登場となるのである。
 東條到つて天下危うし。と書いては過酷であろう。担がれた将軍が何人であつても、時既に陸軍の総意に反することは出来ない。総意は即ち「英米討つ可し」であつた。学者先生や作家の中から「英米討つ可し」や「大東亜共栄圏」なぞを書き立てる者が輩出する時勢となつていた。今日は、知らぬ顔の半兵衛で、平和論やら中立論で大衆の人気取りをやつている連中が、その時は陸軍の人気取りに走つて、日米交渉を媚態外交なぞと罵倒した言論罪を、大威張りで犯した。野村、来栖の対米交渉は戦争準備の時を稼いだに過ぎない。かくて、長唄を唄わせながら後ろで浪花節の三味線を引いて(来栖大使の諷言)、談判を打ち壊わし、いわゆる「聖戦」の幕を奇襲で切つて下した。
「英米討つ可し」の感情は仮りに百歩を譲つて認めるとしても「英米に討たれては」即ち勘定が合わない。その、討つか討たれるかを判定する唯一の有資格者は海軍当局であつた。何故なら英米は二大海軍国であり、それらの本土は攻むるに由なく、攻められる危険は日本の本土の方であつたから、日本海軍が長く太平洋の海空権を掌握し得るか何うかが勝敗の岐れ目であり、戦争か平和かを決する唯一の鍵であつた。
 時の海軍当事者は、果して山本が近衛に答えたと同じことを東條に直言したか。長期戦の敗北を説いて戦争に反対したか。否な、彼らは唯諾した。時の勢いであつたか? しかし、最高批評家は言つた。
「亡国の責任は主として海軍にある。猪突の陸軍を責めるのは大人気ない。国論も、陛下もこれを抑えることは出来なかつた。ひとり海軍のみがこれを抑え得た。海軍がノーといえば戦争は出来なかつた筈だ。即ち、世界眼を持つていた海軍の屈従に罪がある」と。その通りであろう。問題は海軍を高く買い過ぎるか何うかの一点にある(結論に詳述する)。
 山本は一年以上延びれば勝算なしと言つた。他の提督は何う考えていたか。要するに戦争は野球戦とは違う。九回で勝負が附くものなら、「大和」「武蔵」の痛打力は日本軍を勝利に導いたであろう。回数無限とあつては「大和」も遂に疲敗の運命を免かれなかつた。返す返すも海軍の最高当局に、米内や山本の勇気が足りなかつたことが残念である。第二艦隊参謀長海軍中将小柳富次氏の著書「レイテ沖海戦」の結論に「不同意ながらズルズルと引摺り込まれて行つた先輩当事者の優柔不断に対しては、今日なお多大の心残りを感ぜざるを得ない」と書いてあるのは、海軍知識層の言として之を裏書するものである。

    五 世界に誇つた大造艦技術
        「末恐ろしい後輩」の末路

 一千五百億円――これは戦艦大和一隻の建造費であつた(一トン二百万円換算)。この一事だけでも、日本が未来永劫、こんな軍艦を造れないことは明らかだ。今日の我が国防総予算の全額を一隻で使つてしまつた勘定だから、それだけでも恐ろしい軍艦といわねばならない。同時に、それだけ投じて平気でいられた日本の財力も、今から顧みると恐ろしいくらいだ。
 それよりも、七万三千トン(正確には七万二千八百九トン)、十八インチ砲九門、さらに巡洋艦「最上」級の主砲であつた六インチ砲を、副砲として十二門も装備し、二十八ノットの高速力で走るという大戦艦は、造艦の世界記録として何国も破るものはない。その造艦の野心と技術の方が恐ろしいと言つてよかろう。
 が、日本の造艦は、国民が知るよりも却つて外国に於て夙に優秀を認められていたもので、巨大艦の建造も決して偶然の産物ではなかつたのだ。遡れば、一九〇七年、巡戦筑波が、艦首の衝角(ラム)を撒廃して、これを漁船型に改めた時に、日本海軍は世界の造船界に、「末恐ろしい新人」として登場したのであつた。それまで戦艦の艦首は、水平線から水中に沿うて尖つており、それで敵を衝撃する構造であつたのを、日本が遠距離砲戦には無用且つ速力源の損失もあると認めて逆にこれを引きこめ、一挙に漁船型の舳先に改めたのが、世界の先鞭をつけたのである。
 今の日本の軍艦は、これを批評する材料さえ持たないが、戦前の我が海軍は、世界で一、二を争う多くの資産を持つていた。負けたからといつて冷笑したら大間違いである。
 かつて日本海海戦(一九〇五年)の連合艦隊は、旗艦三笠を初め艦艇の全部が輸入品であつた。今日の自動車界の比ではない。ところが翌年日本が初めて巨艦(筑波)を造るや、忽ち設計の革新を断行して世界をリードした。再び自動車にたとえれば、一躍キャデラックを超越するような新車を造り出したのに等しい。十二分の驚きに値するであろう。
 大正十一年十一月、ワシントン軍縮会議に於て、日本の新戦艦「陸奥」は暫らく会議の話題を浚った。ヒューズ代表の原案は「計画中及び建造中の戦艦全部を廃棄する」もので、その廃棄艦のリストに「陸奥」が加わつていた。加藤全権は直ちに抗議した。陸奥は十月に完成して呉から横須賀に初航海を終つていたからだ。英米は容易に承認せず、約三週間に亙つて論争が展開された。アメリカの記者連は、ムツが明治天皇の名であるから日本が飽くまで頑張るのだと書いたりした。
 その実は「陸奥」の戦闘力が、米の同型コロラド級よりも、また英のキング・ジョージ五世級よりも、遥かに優つていることを承知し、それなら揃つて廃棄する方が有利だと考えたためであつた。序でながら加藤友三郎は、政治的手腕にも秀でていた。陸奥を復活する代りに、英米は各々二隻ずつ復活したら何うか、と提議して難局を治めたのであつた。
 昭和に入るや日本の造艦術は更に一段の躍進を記録した。三千トンの軽巡「夕張」は英米の六千トン級と同一の武装を施して天下を驚ろかした。その延長として、当時有名だつた重巡競争に於て、日本のそれは英米を凌ぐこと次の通りであつた(一万トン巡洋艦の比較)。
 国(艦名)   砲力      魚雷力     速力      防禦鋼
 日本      八吋砲:一〇  二四吋:一二  三四ノット半  舷側四吋
 (那智)    四・七砲:六                  砲塔一吋
 英国      八吋砲:八   二一吋:八   三一ノット半  薬庫四吋
 (ケント)   四吋砲:四                   其他一吋
 米国      八吋砲:一〇  二一吋:六   三二ノット半  舷側二吋
 (ペンサコラ) 五吋砲:五                   砲塔二吋
 優劣は素人の眼にも一目して判る。だから昭和の初期、イギリス東洋艦隊の旗艦ケント(一万トン重巡)が横浜に入港し、我が同型艦「妙高」に招かれた時の感想に、
 「吾々は今日初めてウォア・シップ(軍艦)に乗つた。吾々が今まで乗つていたのはホテル・シップであつた」
と述べたのは、半ばお世辞の名文句でもあるが、半ば軍人の実感でもあつたろうことを附記しよう。同じく、一九三七年、英帝の戴冠式に参列した我が重巡「足柄」を見て、ロンドン・タイムスの記者が「海の狼を迎えて」と書いた拝観記の一節もこれに通ずるものがあつた。
 全艦これ戦闘、という姿が日本の軍艦を表徴していた。そうした内容は、当時の海軍軍人の精神に即応するものであつた。その設計が血を引いて戦艦大和を生んだのである。その技術経験の集積が戦艦大和に帰結したのである。決して偶然の作ではなく、また日本人以外から生れたものでもない。
 ところが、これら世界記録の三大艦が、何れも敵の航空機や潜水艦によつて、僅か半歳の間に相次いで沈んでしまつたのは、何かの因縁とさえ思われる程である。背景は、日本の敗勢がいよいよ濃厚となり、海軍が最後の決戦を強いられた環境に於て、作戦に無理があつたことを第一因とすべきであろう。巨艦そのものは、他の戦艦に較べて絶対に強靭であつた。戦艦武蔵の如きは、パラオ島の近海に於て魚雷三本を射たれながら平然と航海し、本当の不沈戦艦の誇りを天下に示したのであつた(十九年三月)。しかも二カ月後には戦列に復帰し、ビアク作戦にも、マリアナ海戦にも第一線で活動したほどである。

    六 その名高し“無敵艦隊”
        日本の「伝統戦法」奪わる

 「無敵艦隊」とは素より形容詞だ。「不沈戦艦」も同じである。不思議にも、「不沈戦艦」を呼号した戦艦に限つて真ッ先に沈んだ如く、傲る名前の久しからぬたとえを作るようなものであつた。
 「無敵艦隊」とはインビンシブル・アルマダの訳語である。そのインビンシブル・アルマダ(スペインの大艦隊)の第一号は、一五八八年八月、英仏海峡に於て敗走の運命に終つた。ジャパニーズ・インビンシブル・アルマダはその第二号として、昭和十九年十月、レイテ海戦にその大半を失つた。「名前の自慢はしない方がいい」とは、敗れた後にこそ唱えるけれども、当時は全国民がその名にあこがれて国防の安きに感謝したものである。
 笑つてはいけない。我が「無敵艦隊」はその利用を誤らなかつたら正に「無敵艦隊」であり得たのだ。英米といえども、進んで日本の近海を侵す勇気は絶対になかつたのだ。まことに恐るべき海上の威力だったのである。如何にお世辞を安売りしても、現在の我が海上自衛隊の兵力に「無敵艦隊」の名を贈るものはあるまい。それは却つて無礼でさえある。開戦当時の我が「無敵艦隊」は、いささかもその名に恥じない威容を天下に示していたのである。
 大和、武蔵は言うまでもない。それに続く陸奥、長門、扶桑、山城、伊勢、日向の三万トン級戦艦は、決戦陣列の第一陣に金剛、比叡、榛名、霧島の快速戦艦を擁して主力戦列十二隻、その片舷斉射の弾量は、アメリカ主力艦総兵力のそれに優るとも劣るものではなかつた。二大巨艦の参加により、米日の主力艦兵力比は、一〇対六のワシントン比率から一転して、一〇対八の割合を上回つたろう。
 アメリカ海軍軍令部に於ける図上作戦では、西太平洋上に攻勢をとれば、敗戦濃厚なりとの結論に達したので、主力艦中心の渡洋決戦主義を改め、タスク・フォース(機動部隊)の遊撃戦法を推進することに決めた。すなわち航空母艦を戦列の中心に集め、戦艦はこれを護衛する第二次兵力とする部隊を編成し、日本の主力艦隊を爆撃中心で撃砕する戦法である。
 その航母の飛行機を主戦兵器とする方針と併行して、アメリカが考えたのは、潜水艦の活用であり、機動部隊には必ず有力な潜水艦艦隊を伴い、誘導雷撃によつて日本の主力艦を減殺しようと計つたことである。思うに米海軍のこの新作戦は、日本の前記主力艦戦列の優勢を打破し、日本の勢力が減少して米軍の勝利公算が生ずるとき、一挙に制海権掌握の決戦を挑もうとするのである。これ実に、米海軍が日本海軍の伝統戦法を奪つて逆用するものである。ここに面白い物語がある。
 ワシントンで米日戦艦の比率が一〇対六と決まつてから、日本は「漸減作戦」という戦術を案出した。略言すれば潜水艦を東部太平洋に進出せしめ、進撃する米国の主力艦隊に雷撃を反覆して漸次兵力を減殺し、彼我の勢力ほぼ同等となるのを待つてこれを我が近海に撃滅しようというのだ。すなわち作戦の前提は潜水艦にあつた。その航続力と雷撃訓練と隻数とは死活的重要と考えられた。
 一九三〇年のロンドン軍縮会議に於て、日本が潜水艦の保有量を七万八千トンと主張して執拗に戦つたのはそのためである。さかのぼつて一九二二年以来、英米が「潜水艦全廃論」を宣伝して来たのは――非人道的武器と称して――日本の漸減作戦を見抜いてその裏をかくためであつた。ロンドンの潜水艦論争は火を吐いた。結局、日英米三国とも、平等に五万二千七百トンを保有することで決着した。
 我が海軍軍令部には不満の焔が燃え上つた。日本が必要とするのは「平等」の名ではなくして潜水艦の兵力量である。七八、〇〇〇トンは、図上演習百ぺんの後に算出された絶対の所要量である。五二、七〇〇トンでは潜水艦の隻数不足ほぼ十六隻である(大中両型合せて)。すなわち奇襲部隊二隊を失うもので、肝腎の「漸減作戦」に大打撃を与えること必然である。ロンドン條約は帝国国防の危機を招くものである――と。
 ここに海軍省と海軍軍令部との悲しむべき対立が起つた歴史は書いている紙幅がない。東京駅頭浜口首相の襲撃事件さえも、この條約不満と無関係ではなかつたのだ。更に発展して「統帥権問題」の国内闘争を誘致し、やがて議会政治を不具にしたのも、潜水艦の減量に端を発したといえないことはない。それほどの潜水艦は今度の戦争で何をしたというのか。

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