七 “精鋭”潜水艦隊帰らず
        得意の「漸減作戦」も奪わる

 たしかに日本の潜水艦は、無敵艦隊の一翼を荷つていた。日本海軍の造艦の誇りを世界に示した艦型の雄なるものである。その「伊号」潜水艦の新鋭は、燃料の補給を受けずに単艦よくカリフォルニアの沿岸まで往復した。今日問題の原子力潜水艦ノーチラス号(米国)の先祖みたいなものだ。「呂号」に至つても、ハワイ周辺に作戦するだけの航続力を持つていた。さらに第四〇一号は満載四千トンを超えパナマ運河を爆破する目的で建造されたのであつた(二十年一月完成。出撃せず)。
 奇襲夜戦の訓練に至つては、遠く明治二十八年二月(日清戦争)、百トン未満の水雷艇を以て敵の軍港威海衛の防材を乗越え、当時世界に有名であつた「不沈戦艦」定遠号を雷撃沈没させた伝統の誉れを荷つて試煉を積み、「漸減作戦は引受けました」という自信満々の体勢にあつた。それは英米の最も警戒した鋭利なる日本の武器であつた。その精鋭六十四隻(九万六千トン)、日米戦争の詔勅と同時に一斉に出撃した。更に戦争中に百二十六隻を増勢した。戦い終るや、戦果蓼々、約五十隻の老朽艦が作戦不能で繋留されて残つた。あれほど内外の視聴を集めていた評判の潜水艦は、国民に対して何の報告もしないで永眠したのである(勿論、地区的に何がしかの戦果は挙げたけれども――)。
 詳しい原因は別として、また、南洋の暖い海水が我が潜水艦の訓練外であつたことや、居住性の不良が(居住は極度に窮屈にして余力全部を戦闘用に集中していた)長期作戦の能率を減殺したことなどを強く追う必要もない。根本原因は、米海軍の戦術が前述のように一変し、主力艦の集団来襲が姿を消して攻撃目標を失つたこと。それから構造にも旧式な点が発見されたこと(後述する)、更にタスク・フォース(機動部隊)は必ず潜水艦部隊を伴つていたその潜水艦が、戦争の中途から驚くべき進歩を遂げ、明らかに日本の潜水艦を圧倒し去つたことを特記しなければならない。
 知らない間に潜水艦株券の書換は終つていた。日本駆逐艦が、アメリカ潜水艦の接近を知つた時は、敵は既にわれに魚雷を発射して引揚げた後だ。われが魚雷を狙おうとする瞬間には自分は爆破沈没という一〇対零の開きを生じたのだ。これでは如何なる技術も勝てる筈がない。精神力は遂に機械力に負けた。といつて、日本艦艇の機械力は世界最高の水準にあつたのだが、電波兵器の発明が、一九四〇年の機械力を半身不随にしたのである。だから我が潜水艦隊――世界第一であつた――の還らないのを責めるのは当らない。ただ発明力の優劣を嘆くのみ。
 日本が得意の夜戦を封ぜられてしまつたのもそれだ。ガダルカナル戦の最中、トラックの連合艦隊基地で参謀会議があつたとき、食卓での話に「アメリカの機械力は凄いらしい。ブルドーザーとかいうので飛行場を造るのが日本軍の十倍も早い。目で行こう。碧い眼は夜は駄目だが黒い眼は見える。夜戦で行く外はない」と全員一致した話がある。それほどに日本は「夜戦」を誇りとし、十分の自信を持つていた。その得意の戦法を根本から制圧されてしまつたのも同じ理由による。まことに、電探以下の電波兵器は太平洋上の原子爆弾であつた。もとより日本の軍艦にも電波探信儀はあつた。しかし米艦のそれとは精度に大きい相違があつたのだ。
 その上にレーダー射撃が発明された。暗夜レーダーで日本の軍艦を捉え、その電波が同時に大砲の照準を整えて同時に発射するのだ。すなわち真ッ暗闇の中から命中弾が日本の軍艦に炸裂する。「碧い眼」も「黒い眼」も最早や問題ではなかつたのだ。
 米国の潜水艦は強力精密なる電探及び水中測定兵器によつて日本の軍艦を、水上水中とも遠距離に捕捉した。それを撃破することを使命とする日本の駆逐艦は、逆に米国の潜水艦に撃たれた。不沈航母「信濃」を撃沈したのもまた潜水艦であつた。「大和」を沈めた多くの魚雷の中には、潜水艦の発射による大型魚雷が交つていなかつたという証拠はない。いずれにしても、アメリカの潜水艦が挙げた戦果は、アメリカ海軍軍令部が予期していた所よりも遥かに大きかつた(その改められた認識は今日の原子力潜水艦にまで発展している)。
 かくて日本海軍お得意の「漸減作戦」のお株もアメリカに奪われた。発行株式の総額をアメリカに買占められてしまつたようなものだ。それどころではない。日本の「漸減作戦」は敵の主力艦を漸次減勢してゆく狙いであつた。アメリカの「漸減作戦」に至つては、遂に日本国民の生命に指向された。燃料と食糧とは海上で遮断されて行つた。開戦時の船舶六百五十万トンの豪勢(世界第三位)は殆ど無に帰した。そうしてその六三%までが実に敵の潜水艦によつて沈められたのである。
 我が潜水艦不活発の実情と、米潜水艦の活躍については後章の随所に描かれるが、日本の食料、原料、特に燃料を断絶させた凄惨なる統計(敗戦の第一原因)を左に附記しておく。
(得)
 開戦時に於ける日本航洋船舶   五、九〇〇、〇〇〇トン
 戦時中新造           四、一〇〇、〇〇〇
 計              一〇、〇〇〇、〇〇〇
(失)
 撃沈              八、六一七、〇〇〇
 大破航行不能            九三七、〇〇〇
 計               九、五五四、〇〇〇
(因)
 米潜水艦による被害比率          五四・七
 空中攻撃による被害比率          三〇・九
 機雷その他によるもの           一四・四
 右の中、完全撃沈の率を求めると、潜水艦によるものが六三%となる。

    八 超大空母「信濃」の悲劇
        「不沈戦艦」は悉く沈んだ

 緒論の結びとして、日本が極秘裡に建造した世界的三大巨艦の運命について述べておこう。大和と武蔵とに関しては、後章それぞれの海戦を研究する場合に詳述するが、全然戦わない前に沈められてしまつた「信濃」については、ここで一瞥する外に戦史のページを持たない。国民に最も知られないで、しかも最も威力を誇る「不沈空母」であつたのに――。
 そもそも「不沈戦艦」とは虚空の形容詞である。それほどに堅牢であるという誇称には値するが、別に保障のついたものではない。太平洋戦争の劈頭、英国は「不沈戦艦」プリンス・オブ・ウェールズ号を極東に特派して日本の南下攻勢をシンガポール以北に阻止しようとした。ところがこの最新鋭の英艦は我が海空軍の集中攻撃を受けて爆沈し、首相チャーチルが、報告の電話を急いで切つて泣き伏したという物語を残した。
 次いでドイツは、五万トンの不沈戦艦ビスマーク号を大西洋上に放つた。当時世界最大最強で且つ絶対不沈を信じたので、これによつて英米の海上交通を寸断する作戦であつた。英国は大小百余隻の艦艇を以て追跡した。途中二回の会戦に英軍は少なからぬ損傷を受け、国を挙げて問題となつたが、やがてこれを捕捉決戦したとき、止めを刺したのは、巡洋艦ドセットシアを旗艦とする水雷戦隊の魚雷であつた。
 アメリカは固く信じた。日本の不沈戦艦もこの手で沈まぬことはない。武蔵、大和に対しては、砲戦では勝てない。かれらの十八インチ砲は一発必殺の威力がある。戦艦同士の海戦は絶対に回避し、徹頭徹尾航空機による雷撃戦で行けと(註。英米戦艦の主砲は十六インチ砲。この二インチの差が決定的に重大であつた)。その通り、敵艦は武蔵、大和を見るや巧みに逃避し、その代りに無数の飛行機を飛ばした。何十本の魚雷と幾十個の爆弾を惜しみなく投射すれば、その中に海上の城郭も沈むであろう。或は又一群の潜水艦に執拗に接触させ、矢継早やに雷撃を見舞えば何時かは葬ることが出来ると。
 我が超大空母「信濃」に至つては、その建造中から敵の潜水艦に狙われていたのだ。この巨艦は元は大和、武蔵の同型艦として横須賀で建造されていた。横須賀の船台は通路に接していて大垣根で隠匿することが困難のため六番ドックを特別に造つて其の中で造られた(通称秘密ドック)。ところが、真珠湾で航空主兵主義の確信を固めた後は、今後の航空戦力の重大性をも勘案して、途中から「信濃」を空母に改造することに決定した。だからこの巨大艦は下半身が戦艦、上半身が空母という畸形児的な、しかも考えようでは強靭なる航空母艦であつた。ただ、改造のために工事が大和よりも三年近く遅延し、昭和十九年十一月に至つて漸く完成したのである。
 しかしながら六万八千トン、搭載飛行機四十七機(未載沈没)というのは素より大なる威力である。その甲板は二十糎と十糎甲鈑で二重に造られ、その上にセメント、ラテックス、ソーダストを練り合せた厚板を張り、五〇〇キロ爆弾を弾き飛ばす防禦力を持つていた。設備の細目は省略するが、設計はとにかくも最新式の集積であつた。ただ.戦勢非にして急遽参戦を要したために、艤装に手を抜いた憾みは大きかつたが、しかし其の出現はアメリカの一つの脅威であつた。
 七万トン空母の偉大さを証明する物語がアメリカにある。数年前、海軍卿フォレスタルは六万トン空母の新造を決意して設計も終了し愈々予算という時に、部内及び議会内に反対論が起り、両者譲らず、海相は遂に辞職し、後に病歿するという悲劇を生んだ。ところが三年後に大空母論が再び勝利を占め、五万九千トンの空母にフォレスタルの艦名を贈つて最近に就役した。それを思えば、その十五年前に、六万八千トンの大空母を造つた日本海軍の思想と技術とは、歴史の上に永久に残るべきであろう。
 精魂を罩めて四ヵ年、昭和十九年十一月十一日に信濃は横須賀湾内に浮び出た。この日は第一次世界大戦の終つた日で「平和記念日」であつた。戦争とは凡そ縁の遠い日であつた。戦争の大局は愈々非、海軍はレイテ、マリアナの両海戦で空母の大部分を失い、「信濃」を待つこと、炎暑氷水の比ではなかつた。各種の試験を十分に行う暇もなく、艤装も間に合わぬものは略し、乗員の訓練も施さず、大急ぎで四国松山の連合艦隊訓練地に参加しなければならなかつた。十一月二十八日午後六時、巨艦は大阪湾仮泊のスケジュールを以て出陣した。歴戦の駆逐艦浜風、磯風、雪風が護衛した。六メートルの北風が吹き、空には月が寒かつた。
 二十九日午前〇時半、見張員は水平線の彼方に黒い一片の影を認めた。「雲か敵潜か」が四名の兵員間で論議されたが一致せず、当直将校と副長とに報告して認定を乞うた。二人の将校は代る代る望遠鏡を覗き、「あれは雲だ」と判定した。誤認と決まつたので、駆逐艦への警戒命令も、自艦の蛇行航法も取止め、速力二十ノットで一路南下を続けた。
 ところが午前三時十二分、見張員が、白波の間に魚雷の航跡を発見してアッと驚いた時は既に遅かつた。四本の大型魚雷が殆ど直線をなして進撃し来り、第一発目は既に百メートルに迫つていた。信濃の巨艦はモウそれを回避する暇がなかつた。命中は三時十三分と記録され、立て続けに他の三本が殆ど同一箇所に命中炸裂して、左舷中央水線上部に大穴をあけてしまつた。海水の驚くべき大量が奔入し、最新式の排水管もこの自然の勢には勝てないことが間もなく判つた。
 が、魚雷の三本や五本で沈むものか、という自信(実は自惚れ)が、阿部艦長以下の心に先入観となつていた。だから艦は依然として第三戦速(二十ノット)で航進を続けた。大阪まで乗切ろうというのだ。近くに港湾を求めるとか、沿岸に擱座して乗員の命を救うという考慮は、航続の自信の下に消されていた。ところが浸水は止まず、艦の傾斜は熊野沖――潮岬一〇〇浬の地点――に至つて遂に五十度に達し、遂に「総員退艦」の悲痛なる命令が下された。
 艦長阿部俊雄大佐は責任の重きを負うて艦橋に止まつた。傍らに軍艦旗を身体に巻きつけて悠然と立つた一人の若い士官があつた。十八年に兵学校を最優秀で卒業した端麗なる青年士官安田督少尉である。彼れは被害後沈没までの間、海図をひろげて艦の位置、時間、地点等を平常通り記入し、一分の乱れも見せず、責任の最高度の目盛りを示し、生還した同僚の回顧尊敬の涙を何時までも誘つた。いよいよ艦首だけが水面に残つていた時、波間から見ゆる二人の影がそこにあつた。艦長と安田航海士に相違なかつた。君の名は、信濃の生還者九百名の中に見当らなかつたから。また、沈没の寸前、両陛下の御写真に気が附いて挺身搬出し、キャンバスに包み浮袋を附して水兵に托した若い将校があつた。沢本中尉である。幸にも御写真は駆逐艦浜風の舷側に漂着して、中尉の心は酬いられた。
 沈没の時間は午前十時五十五分である。だから魚雷を被つてから実に七時間四十二分も航海を続けたのである。伊勢湾に入るくらいは十二分に可能であつた筈が、不沈を過信して大阪行を墨守し、ために約五百名の将兵を熊野灘に水葬する結果となつた。顧みるに、〇時三十分の敵潜の疑問に対する不用意、三時十二分の雷跡発見の遅滞、排水の不手際、艤装の未完成、その他幾多の原因を数え得るであろうが、根本は、直衛機数機を附して早朝に出航する方が安全率は遥かに高かつたろう。況して爆弾では沈まない筈の不沈空母を、敵潜出没海面に夜間航破の途を選んだ最高当事者こそ、最高の責任者でなければならない。何人が決定したかは判然としないが、いずれにせよ、其の当時の上層部の情況判断には、迷えるものが多々あつたことを争えない。
 仮りに夜間航破を経済的と認めたとして、それなら一ヵ月前のレイテ戦出陣第一日の戦訓が生々しく残つていた筈だ。潜水艦二隻が栗田艦隊の北進を十月二十二日の夕刻発見、その夜全速力で追い抜き、二十三日未明に完全奇襲を行い、我が重巡三隻を一挙に撃沈破した晴れ業を承知の筈である。然らば「信濃」の夜行に関しては、それに学ぶ警戒法を執るべきであつたのに、何等それらしい措置も見えず、日本海軍の最後の造艦本尊を完全に徒死させてしまつた。
 其の年十二月直ぐに査問委員会が開かれた。建造も、沈没も極秘だから、調書も勿論世に出ないまま、終戦時に焼き棄てられて了つた。いま生存委員について質すと、大きい原因は、艦長以下が不沈を過信して二十ノット航進を続けたことと、更に大きい一つは、乗員が右舷注水を行つて艦の平衡を保つのを怠つたことであつた。先に戦艦武蔵が、十九年十月廿四日、魚雷十数本を受けて比島シブヤン海に沈むや、午後七時三十五分に於ける最後の姿は、前後の砲塔が水上に一線を成していた程の平衡沈下を示した。乗員の熟練によるものである。信濃の場合には、一、四〇〇名の乗員中、八五〇名が軍艦の航海は生れてから初めてだというのだから、平衡注水の観念も方法も不十分であり、七時間半も傾くままに航海して遂に五十度の転没点まで達したのだ。全く嘘のような情けない話である。
「信濃」は一砲も打たず、一機も飛ばさず(松山で積む予定)、竣工してから僅々二十日の後に、いな正式武装成つて出航してから僅か十七時間目に、唯だ単に海底に沈んでしまつたのだ。是れ、世界に於ける軍艦寿命の最短記録であり、六年の苦心一日に消ゆ、という文句そのままの運命を嘆いた。これは単なる出来事ではなかろう。條約破棄の肚で秘密建造を行つた其の産物に対する神の呪いであるとでも考える外に、この悲劇を諦らめる術はなかつた。

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