第二章 真珠湾の回想

    一 世界的の大奇襲
        今日の原子奇襲の警戒

 太平洋戦争は真珠湾に明けた。奇襲作戦は軍の最上層の僅か一部しか知らず、日本の国民は悉く知らず、アメリカの軍民は素より知らない所へ落された爆弾であつた。そうして、それは当時の最有力の武器、即ち航空機によつて実施された。今後の最有力の武器は原子爆弾である。それを以て「真珠湾式」に奇襲されたら、太平洋艦隊全滅どころの騒ぎではない。国が全滅するかも知れない。
 アメリカがソ連の奇襲を警戒して飽くまで心を許さないのは実に其のためである。真珠湾の体験を次の原子奇襲に置き換えて国防を考えているのだ。国交断絶の通告の三十五分前に奇襲爆撃が開始されていたのだ。それが若し原爆水爆を以てする一千機の各都市一斉攻撃であつたとしたら、勝敗は其の時に決まつて了うではないか。原子兵器の禁止、原料の国際管理、軍事相互査察、空中撮影、等々、幾多の国際的話題は、その源を真珠湾に発していると言つても過言ではない。
 それほど重大な真珠湾奇襲であつたが、その戦況は既に広く知られ、本書に於て改めて詳記するのは無用の筆を重ねるものである。そこで、或は正確に知られて居ないだろうと想われる点、及び奇襲の準備と、更に当時の連合艦隊の「実力」を理解する為の作戦事項等について考察を試みることにしよう。
 真珠湾攻撃は戦争ではない。日本海軍は戦争をしたが、米軍は戦争をしなかつたからだ、と書くのは極端であろうか。しかし、これは史上未曽有の大奇襲であつた。アメリカ艦隊は殆ど戦う遑もなかつた。だから、両軍の作戦や技術を基調として勝敗の戦史を書くことは出来ない。剣道に於て、一方の剣士が道具もつけずに横になつている所を、他の剣士が無断で打ち込み、前者は竹刀を持つ遑もなく素手で受けて致命的に叩かれてしまつたようなものだ。この場合、叩かれた剣士の力倆を批判するわけには行かない。ただ突然襲い掛つた剣士日本の力倆は、相対的には批判し得ないけれども、なお一方的には十分批判の対象になる。
 一、三千浬を発見されずに忍び寄つた航法。
 二、雷爆攻撃の技術。
 三、その戦法戦術を達成するに至るまでの訓練の経過。
がそれである。そうして最後に、
 「天佑はかかる方法で戦端を開いた者の上に長く恵まれるかどうか」
という考察である。第四の点は必ずしも真珠湾奇襲のみに関係するものではないが、前の三つは、ありし日の海軍を忍ぶ好個の資料となるものである。《注:「忍ぶ」は底本のまま。》
 この作戦は絶対無条件の奇襲を前提として初めて成立する。空母群がオアフ島の二百浬圏から飛行機を発進させ、それが湾上に現われるまで発覚しないことを條件とした。事前に見附けられたら、日本の遠征艦隊は、遥か優勢なるアメリカ太平洋艦隊のために撃破され、飛び立つた航空隊は島内にあつた六百機の米空軍のために食われ、太平洋戦争は第一日にして早くも勝敗を決定してしまうからである。それほどの大賭博であつた。
 一隻、二隻と別々の航路をとり、或は佐伯湾から、或は呉から、横須賀からというように、ぼつりぼつりと単冠(ひとかつぷ)湾(千島群島エトロフ島)に集まつて行つた。どの艦も、何の目的かは全然知らされていない。また如何に想像力の強い艦長でも、三千浬も遠方のハワイを奇襲するなぞとは思いもよらなかつたからだ。十一月二十二日に全軍の勢揃いが完了した。その兵力は次の通りだ。
 空襲部隊(南雲中将)
  空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴。
 支援部隊(三川中将)
  戦艦比叡、霧島。重巡利根、筑摩。
 警戒部隊(大森少将)
  軽巡阿武隈。駆逐艦谷風、浜風、浦風、磯風、霞、霰、陽炎、不知火、秋雲。
 補給部隊(極東丸特務船長)
  給油船極東丸、健洋丸、国洋丸、神国丸、東邦丸、東栄丸、日本丸。
  註。別に航路哨戒に今泉大佐の潜水艦隊三隻と、ミッドウェー航空基地破壊に、小西大佐の駆逐艦二隻が派遣された。
 翌二十三日、奇襲計画が初めて全員に開示された。若い飛行機搭乗員は躍り上つて歓んだ。一発で米の巨艦を撃沈するンだ。男子の本懐を絶叫したのは当然である。が、司令や幕僚は同じく欣喜雀躍の裡に重い心痛を感じた。
「三千浬の秘密航進」、「洋上の燃料補給」、「米海軍の哨戒圏潜入」がそれであつた。十年間の統計をとると、この北太平洋の十二月は、荒天が二十四日で静かな日は七日に過ぎない。果してハワイまでの十二日間に洋上補給可能日があるか。またその間に船舶に出会つたらどうするか。米国の汽船や漁船なら尚更だ。特にハワイの一日前あたりで出会つて、一本無線をうたれたら万事休すである。一に天佑に俟つ外はない。
 天佑は未だ吾れにあつた。何十年振りの好天気に恵まれ、また一隻の船にも会わず、更に土曜深夜で米軍の哨戒飛行にも発見されず、航行陣型一糸も乱れずに、十二月八日未明、ハワイ近海の予定地点に到達したのである。
 初め海軍軍令部はこの大賭博戦に反対であつた。先ず南方作戦に集中し、その一段落の後に米海軍を邀撃する方針であつた。この方針は日本の海軍が三十年守り通して来た謂わば伝統の作戦方針であつた。即ち明治四十二年に「帝国国防方針」が議定され、アメリカを第一想定敵国と定めて以来、内南洋の列島線(マリアナ群島からマーシャル群島)に於て決戦を行うことを基本作戦とし、それに沿うて訓練を重ねて来たのだ。
 然るに山本長官は断乎として真珠湾奇襲を主張して譲らず、論争一ヵ月の後、永野軍令部総長の一言で真珠湾攻撃が決つた(十一月三日)。山本は前掲の三大難点に対し、
 「天佑吾れにあれば攻撃可能なり。途中失敗するようなら、天佑なきものと観念して全作戦を放棄すべし」
 と言い放つた。全作戦の放棄とは意味極めて深長であり、或は戦争の放棄までも含んでいたかも知れないが、いずれにしても彼れの不退転の決意を示す言葉であつた。

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    二 大奇襲着想の由来
        作戦計画に応ずる猛訓練

 真珠湾奇襲について、記憶すべき重要なる一つの事実は、その作戦計画が、昭和十六年即ち開戦の年の五月までは、日本海軍の頭に全然存在しなかつたことである。
 それまでは、前述の通り、内南洋でアメリカ艦隊の進撃を待ち受け、逸を以て労を待つ、という孫子の兵法に則る邀撃決戦しか考えていなかつた。アメリカ海軍も亦、この海面に進出する方式として「渡洋戦法」を考案し、その航法として「輪型陣」を案出した。それに対して、日本は潜水艦を以て「漸減作戦」を行い、兵力伯仲した所を、戦術と個艦の優越とを以て彼れを撃滅するという方針であつた。初めの二十八年間は戦場を、小笠原諸島とマリアナ列島の線に想定したが、山本長官になつてその戦線をマーシャル群島の線にまで延伸し、更に昭和十五年七月頃、彼れは更にこれをハワイまで進展する夢を描くようになつた。その夢は、我が海軍の航空戦術が意外に進歩し、昭和十五年上半期の演習で、その航空兵力が艦隊決戦の主兵として立派に役立つことを確認した時に結ばれたのであつた。
 昭和十六年一月、山本は彼れの片腕であつた大西滝治郎少将(当時第十一航空艦隊参謀長)を呼んで内密にハワイ航空攻撃の可能性を研究するよう委嘱した。四月に大西は成案を山本に手渡した。山本はそれを見てひそかに決意を固め、五月に入つてその作戦を艦隊の正式研究問題として幕僚に示した。艦隊には懐疑論が多く、草案者の大西少将まで「成否は五分五分だから熟慮再考されては如何」と山本に進言したほどであつた。が、山本の信念は巌の如く、七月にこれに沿う訓練を航空戦隊に内命した。
 それは艦隊の訓練方針であつて、一に艦隊長官の権限内のことである。航空兵力の最大限の利用を策案する長官の任務の一つでもあつた。既にして昭和十二年の渡洋爆撃(南京空襲)以来自信を高め、その後、年々猛訓練を重ね来つた航空戦隊は、その高々度爆撃に於ても、急降下魚雷襲撃に於ても世界で集め得る総てのデータを遥かに超越する成績を挙げていた。恰かも国際競技に於て、日本人が水泳に適することを誇示する以上の適応性を、天晴れ飛行機の急降下雷爆戦の上に発見していた。山本大将は昭和十五年初夏、これを旗艦「長門」の艦上で痛感し、一躍ハワイ航空戦のヒントを得たものである。
 このヒントは、万一戦争になつた場合には、従来の守勢邀撃戦法よりも、攻勢先制戦法の方が得策であるという見地に立つて作戦訓練を実施することを意味する。同じく「攻勢防禦」――offensive defence――の戦略であるが、その戦線をハワイ海域に進め、その手段を航空奇襲に求める一点が革命的であつたというに過ぎない。本来、作戦目的は毎年一月初頭、軍令部総長から之を艦隊長官に指示し、長官はそれに従つて目的達成の手段を考案訓練するのが常規であつた。作戦目的は二十数年相変らず「アメリカ艦隊の撃滅」であつた。その目的達成の手段が、昭和十六年夏になつて、マーシャル海戦からハワイ航空戦に変針されたものに過ぎない。
 即ち、日米戦争を企図して真珠湾奇襲を案出したものでは絶対にない。むしろ正反対に、山本は日米戦争には大反対であり、筆者自身も彼れの口から何度聞いて同感の握手をしたか知れない。しばしば世上援用されている山本長官の近衛首相への確言――「日米戦争となれば海軍は半歳や一年は大いに暴れて御目にかけるが、それから後は自信なし」――は即ち戦争反対の表明であり、また彼れの某氏に与えた書簡に「アメリカと戦争するならワシントンで城下の誓いをさせる覚悟が必要だ」とあるのも、対米戦争なぞは愚の極だという意味でしかなかつた。現に開戦の二十日ほど前、山本は上京して永野と会見した時、野村大使の日米交渉好転の報を聞き、二人で祝盃を挙げた事実さえあるのだ。
 話を作戦訓練に戻せば、山本長官に命じられた航空奇襲の訓練は五カ月に亙つて真に猛烈を極めた。まことに、優れたる技倆のみが、大艦隊を一瞬に屠り得るのである。凡技を以て臨めば失敗は明瞭である。そこで従来に輪をかけた猛訓練が始つた。鹿児島の市民が海鷲の曲芸といつて見物した訓練は、城山の上空から岩崎谷に来て急降下し、谷間を縫い、山腹を旋回し、海岸に出ると更に超低空に降りて同時に魚雷発射の演習をやるのであつた。搭乗員も何故にこんな危ない曲芸の訓練をやるのか全然見当が附かなかつたことは言うまでもない。
 それはオアフ島真珠湾の水面が狭隘であり、背面の山から降りると市街に高層建築が乱立し、直ぐに海面となつて、その手の届く対岸に軍艦が碇泊している地形を対象とする実地訓練のようなものであつた。なおこの危ない激しい曲芸訓練には、少なくとも百機以上が参加していたのに、一機の事故もなかつたほど、海空軍の練度は高かつたことも記憶していい。十月になつて軍令部から凄く大きい荷物が第一航空戦隊の旗艦「赤城」に贈られた。開いてみると、一坪以上の大きさの真珠湾の模型であつた。攻撃担当参謀の源田中佐は毎日その前に坐して頭を練つた。攻撃隊長を予定されていた淵田中佐は、その地形に慣熟して隊員を訓練した。なお四百機以上が参戦するので、訓練は鹿児島の外、出水、鹿屋、佐伯等八力所で昼夜兼行的に続けられた。
 操縦の外に大切な武器の研究は、訓練に劣らぬ苦心の下に完成された。戦艦の防禦鋼を貫くための特殊徹甲爆弾と、その有効高度の実験も生易しい仕事ではなかつた。特に深度の浅い真珠湾内の雷撃に用いる魚雷の新造とその発射法には最も頭を悩ました。従来の魚雷では、近距離の浅い海では殆ど効果がないのだ。
 鋭意研究反覆の後、
    発射高度        初速度    機首角度
 (A)一〇~二〇メートル  一六〇ノット  水平(零度)
 (B)    七メートル  一〇〇ノット  四・五度
 の二方式で八〇%の命中を得ることが判つた。そうして特に沈度の小さい新型魚雷を必要とし、その確信を得たのは九月中旬であり、製作間に合わず、空母「加賀」が出港を十八日までギリギリに延期して最後の魚雷を積み込んで単冠湾で分配したような苦心を重ねたのであつた。

    三 見事なる攻撃
        正確と余裕とを見る

 廟議が開戦に決したのは十二月二日であつた。この計画の機密保持のため、関係艦隊の間は隠語で電報を交換した。有名な「新高山登れ」――攻撃を決行せよの意――の電報は、二日に山本長官から発せられた。幸い海上平穏、予定時間に真珠湾の真北二百三十浬に達した。
 昭和十六年十二月八日午前六時(東京時間一時三十分)、攻撃の第一波百八十三機(爆撃機五一、攻撃機八九、戦闘機四三)が見事に各艦から飛び立つた。見事というのは、発進の際に艦の動揺が片舷十度を越せば不可能に近いとされていたのを、その日は十五度の大傾斜に拘らず全機無事故で発進した技倆のことだ。熟練の限度を見せたようなものである。一時間をおいて第二波百六十七機(爆撃機七八、攻撃機五四、戦闘機三五)がこれも同様の見事さを以て飛び立つた。
 最後に死活の重要な岐れ路があつた。真珠湾上空までの所要時間は一時間五十分前後だ。敵の基地防衛隊は六基のレーダーを備えていた。この電波探信儀は、四、五十浬に迫る頃には飛行機の大群を捉えるかも知れない。事実その一基は七時半頃北方上空に飛行機の運動ありと報告している。上官の一中尉は床の中で半睡で読んで半信半疑で起き出した。そうして恰度その時分に本国から飛来する筈のB17の一隊があるので、それと思い込んで放つておいた。その一隊は何も知らず時刻通り着いて忽ち日本の制空隊に全滅させられてしまつた。側杖の最も残酷なるものである。さて、感附かれたら「完全奇襲」は不可能になつて「強襲」を決行しなければならない。
 両者の戦法はハッキリ違う。完全奇襲の場合に於ける攻撃順位は、第一に雷撃隊である。肉薄攻撃を必要とし、またそれが可能だからだ。次が爆撃隊の番になる。飛行場や工場を攻撃して硝煙天を焦がして了うと軍艦攻撃の邪魔になるから、降下爆撃は最後にする。
 反対に「強襲」になると、先ず戦闘機が制空戦を戦つて突撃路を開き、次に爆撃隊が突込み、その混乱に乗じて最後に雷撃戦を行うという順序だ。勿論、効果の上にも行動の上にも大きい相違が生ずるが、さてその孰れかを確認するのは、真珠湾の上に到達してから一万何千フィートの上空で行い、即座に各攻撃隊の展開順位を命じなければならない。
 淵田中佐が湾上に顔を出して見おろすと、団雲の隙間に真珠湾だけが青空を展げ、しかも泊地は日曜日の朝の静けさを保つて横たわつていた。忽ち全軍突撃の命令が発せられた。時に七時四十分、東京時間で午前三時十分である。そうして各攻撃隊が雷撃を実施したのは、七時五十五分から八時五分の間に順を追い、おのおの一時間に亙つて攻撃を反覆した。
 入れ違いに第二次攻撃隊が殺到した。午前九時前後である。その頃は硝煙が文字通り全空を掩い、凄絶形容の言葉もない修羅場と化し目標の視認は困難を極めた。そこで各隊は断然低空に降りて爆撃すること一時間、中には十数メートルの電線を尾輪に引ッかけて帰還した者があつたほどの勇猛なる戦闘を演じた。
 この三百五十機の大攻撃隊の中、実に三百二十一機が母艦に帰つて来たのは驚くべき生還の数字であつた(喪失二十九機)。まして挙げた大戦果に対此して驚嘆の外はなく、要するに猛訓練の結果としての航空将兵の練度が如何に高かつたかを語ると同時に、「奇襲」の着想が、時ならぬ花を戦史の上に飾つたものでもあつた(大戦略の上からの是非の批判は別として)。
 その戦果をアメリカ側の発表から拾うと、
 ◇沈没――戦艦ウェスト・ヴァージニア、同アリゾナ、同カリフォルニア、同オクラホマ、同ネヴァダ。巡洋艦以下六隻。
 ◇大中破――戦艦メリーランド、同テネシー。巡洋艦以下四隻(残艦悉く小破)。
 先ず太平洋艦隊の水上部隊は全滅といつて差支えない(空母がいなかつたのはアメリカ側の天佑であつた。これが其の後に大なる影響を及ぼすのである)。そうして当時の戦果の報告(大本営発表)が、前掲のアメリカ戦後の公表と大差がなかつたことは、攻撃隊の落着いた攻撃振りを雄弁に語るものであつた(その後の戦果発表は嘘が大半であつた)。また命中率も驚異的であつた。米軍発表によれば雷撃五五・三%強、水平爆撃二四・四%強、急降下爆撃四九・二%強というのだから、演習よりも好成績であり、精度の高さに改めて嘆賞を贈らざるを得ない。
 更に敵飛行機の破壊は二一九機に達し、我が空母群を追撃する敵の戦力を完封して、無事に戦場を離脱したのである。

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