四 特殊潜航艇の参戦
        開戦第一日に特攻精神

 真珠湾攻撃の詳しい戦況は多くの著書に譲る。本章の数回は、「連合艦隊の最後」を分析解明する必要上、その「最初」に一瞥を与えるのと、それから海軍滅亡の作戦上の根因をなした航空兵力滅亡の跡を検討する関係と、またその機会に、奇襲戦の着想実施に関する正確な記録と、幾つかの記憶すべき物語とを要約紹介するために書く。
 既にして立派な航空母艦、訓練された各搭乗者達、その挙げた未曽有の大戦果について、読者は記憶を新たにされたことであろう。しかし同時に国民を感銘させた「特殊潜航艇」の攻撃については、戦果が不明であつただけに、記憶から消え去る可能性が多いと思われる。だがこれは決して小事件ではなかったのだ。レイテ湾の決死作戦、最後の菊水作戦、また神風特攻作戦、或は回天作戦という一連の兵術思想が、早くも真珠湾の開戦第一日にその一端を顕現した意味に於て極めて重大なのである。
 特殊潜航艇ははぼ必死の兵器であつた。長さ二十四メートル、直径二メートル弱、排水量四十六トン、潜航五時間、魚雷二本、電池推進の怪物であつた。潜水艦がそれを真珠湾頭まで抱いて行つて放す。艇は敵の戦艦に接近して雷撃するという構想である。この発案者は、当時中尉であつた岩佐直治、松尾敬宇という殉忠一徹の青年士官達であつた。それは開戦の三ヵ月前の出来事である。一見して「一割生還主義」(レイテ戦の章参照)と相容れない。山本長官は、襲撃後に収容不可能の故を以て却下した。九月末、収容法を研究して再度具申したが、山本は生還の見込みがない計画として却下した。中尉達は諦めず、その後何回も長官に直訴し、逐に熱誠を以て山本を動かしたのである。山本は、甲標的――海軍ではこう命名していた――の帰還性能について更に研究を命じ、大改良を加えて(航続力十六時間に増大)十一月中旬に漸く完成した。
 もつとも特殊潜航艇は新しいものではなかつた。源を遠く「人間魚雷」――日露戦争の頃――の着想に発し、昭和十四年に採用決定、十五に第一号が就役して「豆潜」と呼ばれ、開戦の年には二十隻近くが「甲標的」の名で実在した。が、本来は艦隊の決戦前後の混乱時に使用する目的で造られ(動力が尽きれば脱出可能)、厳重警戒の敵軍港内に潜入して戦う兵器ではなかつた。敢てこれを戦うには、超人的の肝ッ玉と技術とが必要なことは言うまでもない。また、今は亡き燃ゆる愛国心が、若い血汐を沸騰させて、山本と雖も触れることが出来なかつた、その赤誠の迸りでもあつた。今の人が、冷やかに顧みて不可解と思うであろう犠牲の血は、日本民族の中に伝承されて一つの通念を形成したものの如く、この決死行に、多数の志願者が現われて選定に入学試験的困難を現出したのは、今は昔の物語であるが、漸く下記十名が合格の名誉をになつた。岩佐大尉を初めとし、古野、横山の両中尉、広尾、坂巻の両少尉、佐々木、横山、上田、片山、稲垣の各兵曹が、五隻の甲標的に分乗(一艇二人)、十二月八日午前三時から三分の間隔をおいて、順次に湾口へと発進された。攻撃は空襲後か、その夜間かを自由に選ぶ筈であつた。そうして攻撃後はラナイ島西方七浬に浮揚待機している潜水艦に辿りつく計画であつた。
 ところが真珠湾の入口附近は浅瀬が多く、一本の深水路の入口には防潜網が張られ、米艦艇の出入時だけ開くことになつていた。だから我が特殊潜航艇は、その近傍で待機し、敵艦艇の通過した尻について潜入する外に途がなかつた。アメリカの戦闘公報によれば、午前三時五十分頃、掃海艇コンドル号が自分と並行して湾口に航進中の小型潜水艦らしきものを発見し捜索したが見失つたと報告している。幸い午前五時から八時まで掃海艇入港のために網を上げていたのでその時間に潜入したのもあろう。
 いずれにせよ、艇の故障のため擱座、人事不省となつて捕えられた酒巻少尉の外は悉く戦歿して戦績を知るに由なく、ただ空襲中に「機雷注意」の警報が盛んに発せられた事実により、その活動を想定するだけである。恐らく敵艦を沈めた魚雷の中には、決死の隊員が魂を込めて打ち込んだ四十五センチ魚雷の何本かが加つていたであろうことを信ずる外はない。
 なお、発案者で選に漏れた松尾中尉(ハワイ視察。帰国遅れる)は心平かならず、翌年五月シドニイ湾内に潜航戦を強行して名誉の戦死を遂げた。以上は真珠湾作戦の輝ける戦果の蔭に埋れるには余りに芳ばしい人の犠牲であつた。

    五 戦略的に失つた説
        第二回攻撃を諦めた回顧

 真珠湾作戦は、戦術的には世界的大奇襲の成功記録として史上永えに残ること必定である。一に山本五十六長官の着想にかかるが、その起源は遠く山本自身の航空重点主義――大佐の時から航空方面担当――に発し、次いで昭和十五年の連合艦隊演習に於ける航空機の威力確認に示唆されたこと既述の通りだ。更に彼れの信念を固めた一つの要素は、イギリス地中海艦隊がその艦上機を以て夜間伊太利タラント軍港を奇襲し、碇泊中のイタリア軍艦に多大の損害を与えた戦訓であつたろう(主として雷撃)。
 面白いことは同じ戦訓をアメリカも見逃さなかつたことだ。即ち昭和十六年一月、海軍卿ノックス氏は、スチムソン陸軍長官に宛てたハワイ防備計画に関する提案に於て、
 「碇泊中の軍艦に対する雷爆撃成功の英国の戦例に鑑み、日米戦争起れば敵の真珠湾奇襲に先ず備えねばならぬ。その危険は第一に飛行機による雷撃爆撃である。故に戦闘機並びに防空砲の増加、対空レーダー設備に対して最高の優先を賦与せねばならない云々」
と述べ、ス長官は同感を答えて現地防備軍にこれを指示したのであつた。何分にも宣戦布告前の奇襲であつたために、防備が効果を発揮しなかつたまでである。その無念と、その逆用とが「真珠湾を忘れるな」の警語となつて全国民の復仇の戦意を沸き立たせることとなつたのである。このリメンバー、パール・ハーバーの一語が米国の戦争遂行に一〇〇%効を奏したことは明らかであり、随つてアメリカの史家は真珠湾奇襲を日本の戦略的敗北と定評するのである。前年のルーズベルトの有名な選挙演説は活きていた。「私は繰返し、また繰返し、更にまた繰返して誓う。諸君の子弟は決して海外の戦場に送られるようなことはない」と言つた「繰返し演説」の誓約の縄を解いて了つたことを意味するのだ。
 顧みるに最初の計画では、野村大使がハル長官に国交断絶の通告文を手渡してから一時間後に奇襲を実施し、国際法を干犯しない手筈であつた。後に時間差を三十分に改めた。ところがその覚書は五千語に近い浩瀚なもので、それを十四部に分割送信し、ワシントン時間の十二月七日午後一時に米政府に手交する筈であつたところ、翻訳やタイプが間に合わず、野村大使が国務省に駆けつけた時は午後二時二十分となり、攻撃は既にその三十五分前に開始され、日本の大使が手交した時にはハル長官は戦闘情報のラジオを聴取中であつた。かくて無通告戦争の罪を犯すことになつたのである。
 そのまた裏面を見れば、日本の通告暗号電報は、十二月七日午前八時に米国海軍省で解読され(情けない話だが)、十時少し前に、国務省に届けられた。軍令部長には九時十五分に報告されている。勿論宣戦布告ではないが、これをハワイ及び比島に飛電して防備に就かしめれば、真夜中ではあつたが(ハワイの午前二時前後)、完全奇襲は免かれた道理ではある。事実、マーシャル参謀総長は午前十二時に各海外の軍司令官宛に「戦争警告」の緊急電を発したが、ハワイ着は空襲中になつた模様である。
 いずれにしても、アメリカの対策の遅速はアメリカの問題であり、日本としては戦争通告の一時間前に戦争を行つたという事実を如何ともすることが出来なかつた。
 通告が予定通りだつたら、真珠湾奇襲は作戦上の一大傑作であつた。その結果、とにかくも所定の南方作戦を予期以上の速度で完了することが出来たのだ。ただ一つの課題は、アメリカ海軍では「レーンボウ作戦計画」というのが確定しており、開戦となれば比島以下は運命に任せ、艦隊主力は六ヵ月乃至九ヵ月以内に、マーシャル或は西カロリン群島の線に進出して対日決戦を行うことになつていた。もしこれが偵知されていたら、山本はハワイ奇襲を冒険しなかつたろう。マーシャル群島近海の邀撃決戦こそ、日本海軍が三十年の朝夕に訓練を積んで来た海軍戦略の本筋であつたからだ。しかし開戦前は、米艦隊が直ちに南方作戦を側面から脅威し来るものと判断し、それを防止する思想に駆られて真珠湾に赴いた訳で、要するに仮想の争いに帰するのである。
 終りに攻撃自体について言えば、南雲艦隊が一回の空襲「(二波に分けた)だけで、颯々と引揚げてしまつたのは、甚だ勿体ないことをしたという説である。あれだけの戦果を挙げれば、風の如く去る方が兵法にも適しており、慾を張ると却て失うという駁論もある。しかし、当時第二航空戦隊司令官山口多聞少将が主張した第二回攻撃を断行し(飛行隊は準備された)、残された大きい獲物として巨大なる石油貯蔵庫と、艦艇修理工場とを爆破炎上させたならば、我が方も犠牲は出たではあろうが、アメリカ海軍の復興は更に大いに遅延したことに間違いなかろう。
 アメリカの戦史家はこれを力説して日本海軍が小成に安んじたと言う。アメリカ海軍なら危険を冒しても反覆攻撃を断行したであろうと言う。後からの戦評は、結果論として自由に書けるが、数機を以て石油タンクを爆破していたら真珠湾奇襲は天下公認の満点であつたろうことを附記しておく。

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