第三章 順風満帆の緒戦

    一 マレー沖海戦に至る
        プリンス・オブ・ウェールズ出現

 世界海戦史二千年、戦闘形式幾変遷、その全く新しい型の一つが、昭和十六年十二月十日、マレー半島のカンタン沖に出現した。日本の飛行機と、英国の戦艦とが、雷爆撃と対空砲とを以て勝負を決したのである。
 日本側は海空軍基地航空部隊の九十五機、英国側は新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ及びレパルスの二艦(他に護衛駆逐艦三隻)であつた。決闘一時間半にして、不沈戦艦と誇称された巨艦は撃沈され、世界は驚愕の目を以てその戦果を再考また三省した。
 主力戦艦と飛行機とどちらが勝つか? これは既に久しく論議されてはいた。もとより単純な問題ではない。一対一なら勝負にはならないが、飛行機の大群が襲い掛かれば勝敗は判らない。結局それは両者攻防の陣形や、環境や、戦運や、その他多くの要素に関連するものとして、現実に戦つてみなければ判らぬという結論になつていた。
 マレー沖海戦はその勝負を現実に示した点に於て一つの革命的戦闘ということが出来る。正直にいえば、日本の海軍もこの戦果に驚いたのであつた。イギリスが驚いたのは当然であるが、アメリカは驚きと同時に忽ち対策の確立に直進し、以後、海戦の様相を一変する基礎を築いた。その革命戦闘の情況を一瞥しなければならない。
 そもそも此の一戦は何うして発生したか。その経過は回顧の価値がある。
 十二月二日、廟議が対米英開戦と決定するや、マレー攻略部隊は勢揃いを急いで四日に海南島を出港した。八日を期して奇襲上陸を敢行するためにはこの日を最後とする。近藤中将の第二艦隊と小沢中将の第三艦隊が、支援と護送の任務を担当した。この海面は、真珠湾奇襲部隊が北太平洋を航進するのと違つて他国の商船に遭う危険も多く(シンガポール~香港航路を横切る)、仮りに其の方面でも天佑があつて商船に出会わないで航進し得たとしても、既に警戒飛行を実施していた英国空軍に発見される場合も予期せねばならなかつた。果せるかな、六日午後、仏印南端カモウ岬の沖合でイギリスの大型哨戒機に発見され、奇襲上陸の企図は暴露されたと危ぶまれた(五日未明にはノールウェーの汽船に遭遇している)。そこで小沢長官は、爾後接触し来る飛行機は撃攘すべきを命じ(後に一機を撃墜した)、一路予定の航路を進み、十二月八日零時から、シンゴラ以下六カ所に上陸成功、ただコタバルの上陸は敵の空襲を受けて難闘した。しかし、恐るべき敵は其の後に現われようとしている。
 これより先き、十二月二日、イギリスは新東洋艦隊の編成を発表したが、その主力艦二隻が新鋭不沈戦艦プリンス・オブ・ウェールズ号と高速戦艦レパルス号であることが明らかとなつて、我が海軍は大きい衝撃を受けた。従来は其の艦隊は一万トン重巡ケントを旗艦とする巡洋艦隊であつたのが、一挙にして英海軍の至宝とされるプリンス・オブ・ウェールズ号(キング・ジョージ五世号と共に)を派遣したことは、英国の決意のほどを示すものであつて、事実に於ても、それは英国の東洋防衛の自信を示すものでもあつた。何故ならば、日本海軍は、この新鋭戦艦と太刀討の出来る軍艦を南洋に割くことが出来なかつたからである。
 これを具体的にいえば、我が海軍の主力戦艦の中で、プリンス・オブ・ウエールズ号と略ぼ対等に戦い得るのは長門、陸奥の二艦に過ぎず、近く竣工する「大和」はこれを制圧し得るけれども、他は彼れの新式十四吋主砲の前には勝算を予言し得ないのが実情であつた。況して当時の我が海軍南方部隊は近藤中将の第二艦隊を根幹としたが、その主力は金剛、榛名の次等二戦艦であり、その十四吋砲は彼れの砲力には遥かに及ばず、一方に小沢中将の機動艦隊も空母を伴わない艦隊(空母は真珠湾に行く)で、主力は重巡五隻(鳥海、熊野、鈴谷、三隈、最上)に過ぎなかつたから、敵の二戦艦に対しては鎧袖一触に近い敗勢を覚悟しなければならなかつた。
 だから十二月九日午後二時十分、我が潜水艦伊六号がプロコンドル島南方(仏印)に、英の二戦艦を発見した旨を急報するや、折から上陸作戦中の各船団は色を失い、急遽タイランド湾に逃避した。斯く非戦闘の船舶を去らしめると同時に、近藤長官はタイ国の基地にある航空部隊に夜間接触を命じ、自らは水上部隊の全勢力を率いて敵に向い、その夜は先ず第七戦隊(重巡四、駆逐三)と第二水雷戦隊(駆逐一〇)とを以て夜戦を挑み、空十日未明より第二艦隊(戦艦二、重巡二、駆逐一〇)が合同して昼間決戦を断行する計画を樹てた。砲の威力は及ばないが、この大切な緒戦に、敵に後ろを見せるような日本の海軍ではなかつた。戦術と精神力と数とを以て勝利を期したのであつたが、昼戦となれば遠距離の巨砲戦となり、結局は戦艦二隻同士の戦闘に帰着するので、砲戦勝利の公算は英国に六分以上の利があるところを、射撃の術に依つて補うべく、将兵は悲壮の覚悟を以て一夜を明かしたのであつた。
 緒戦には天佑なお吾れにあり、敵戦艦部隊の快速南下のために我が艦隊は追い附けず、一度重巡熊野の搭載機が発見し、次いで、伊五九潜が発見したがスコールの為に見失い、結局、翌十日の航空戦に任せることとなつたのである。

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    二 海空軍の驚異的戦果
        単独にて戦艦を屠つた経過

 偉勲を樹てた我が海空軍の先鋒は、昭和十六年十一月、仏印に三つの飛行場――サイゴン、ツドゥム、ソクトラン――を建設して展開を整えていた。元山、美幌、鹿屋の各航空隊から選出された空襲部隊四隊であつて、兵力は偵察機六、戦闘機三九、攻撃機九九の合計一四四機であつた(第一航空部隊と称した)。
 航空部隊が敵発見の報に接したのは十二月九日の午後五時十分で、出撃には既に遅かつたが、戦意溢れた荒鷺は直ちに攻撃を冒険することになり、六時偵察四機、六時十五分爆撃一八機、七時雷撃一五機を発進し、十日の午前一時まで索敵したが敵艦を認めることが出来なかつた。かくて未明まで残余の総兵力を整備し、午前六時二十五分、偵察隊の九機が、進出距離六〇〇浬と二五〇浬の二線に分れて進発、続いて爆撃隊三四機が七時五十五分に、更に雷撃隊五〇機が九時三十分に飛び立つた。
 進撃方向はシンガポールであつたが、往航には遂に敵艦を発見することが出来ず、各隊無念の歯を食いしばり乍ら空しく帰路に就いた。十中の九までは敵を逸し、そうして其の敵が日本の水上部隊に大打撃を与えて戦勝を誇示したかも知れない危い瀬戸際を、遅れ馳せに飛んだ第三番索敵機が救つた。前節に「天佑」と書いたのがそれである。三番機は索敵線の中央を半ば諦らめながら帰航中、偶然にもカンタン沖五十浬の海上を南下中のプリンス・オブ・ウェールズ以下四艦を発見したのである。
 その発見の報を、各攻撃隊は機上にて傍受し、機首を戻して全速戦場に殺到したのであつた。発見の時と場所と所持の燃料とから見て、これは大戦果を挙げるギリギリの線であつた。敵艦発見は午前十一時五十六分、即ち出発から五時間半を経過している。話を聞いて第一に反転殺到した白井隊(美幌部隊)の爆撃開始が十二時十四分であり、鹿屋空軍の雷撃三隊が最後に参戦した時は一時に近かつたことを考えても、それが攫み得た最終の機会であつたことが判る。
 而して我が海空軍の勇敢な攻撃と技倆とは、真珠湾戦勝の蔭に蔽われて世上の認識を薄くした観があるが、実はそれに優るとも劣るものではなかつた。(イ)対空設備に新式の工夫を凝らした新鋭戦艦を、(ロ)その全力戦闘――奇襲に非ず――に直面して撃沈した手並は、碇泊中の軍艦を奇襲によつて沈めたのとは別な角度から評価して然るべきものと思料されるからである。
 プリンス・オブ・ウェールズの魚雷回避運動は幾分緩慢であつたらしい。しかし其の対空砲火は、日本の戦艦を遥かに凌駕するのではないか、というのが攻撃隊員の実感であつた。それを事実に徴しても、第一攻撃隊の八機は、高度三千メートルに於て被弾五機を数え、第二回目に突入した雷撃隊石原隊は、防禦砲火と炸裂弾のために、反対舷から突入して来た僚機を見失うほどに熾烈であつた。それよりも驚いたことは、最後に武田隊の八機が、正に沈まんとするプリンス・オブ・ウェールズ号に止めの爆撃を加えた時、三千メートルの高度に於てなお五機に命中弾を被つたことである。
 統計をとつてみると、雷爆撃を実施したのは七十五機(爆撃一小隊不参加)であつたが、その中で、三機が撃墜、一機が大破不時着、二機が中破、二十五機が被弾要修理という数字であり、即ち対空砲の命中率は二戦艦を平均して四一%強という驚異的な成績であつた。その得意とする八聯装ボンボン砲と、二十聯装機関砲とが、日本機何するものぞ、とばかり射出した自信のほども察しられるのである。
 ただ、雷撃機に対する射撃が、爆撃機に対するよりも弱かつたのは、平素の訓練の相違に原因するものであつた。即ち、英国の雷撃機は、時速九〇浬乃至一〇〇浬の機速で魚雷を発射するので、対戦射撃も其の速度に慣れていたのが、日本の雷撃機は一五〇乃至一九〇浬の高機速で発射を実施したので、所謂タイミングが外れ、手許が狂つたことを指摘し得るのである。図示する如く、敵艦の致命傷が専ら魚雷に基因したのは、我が雷撃機の数が多かつたこともあるが(雷撃五〇機、爆撃三四機)、一つはその活躍を多く許した砲火不十分(割合に)の点を挙げなければなるまい。
 雷撃の実績を検すると、プリンス・オブ・ウェールズ号には十五機が襲い掛かり、その発射雷数十五本の中で七本が命中した。命中率四六・七%である。レパルス号に対しては襲撃機数三十五、発射雷数三十四本の中の十四本が命中した。命中率四一・二%であつて、共に平時訓練以上の驚くべき成績を挙げている。命中個所を図示すれば上の通りだ。

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 かくて高速戦艦レパルス号は、十四本の魚雷の集積効果によつて爆沈したが(二時二十分)、後述するような世界無類の強力なる日本海軍の魚雷を十四本も受けて頑張つた艦体構造の堅牢さは特筆に値する。想い起す、日本の戦艦を改装した当時(華府條約後)、その砲塔に穴を開ける場合、日本製の各戦艦に用いたドリルを以て「金剛」に用いたら何うしても穴があかない。金剛は外国製(ヴィッカース・アームストロング社)の最後の一艦であつたが、職工ばかりでなく海将達も英国の鋼の堅さに舌を捲いたことがある。その堅さに近代的工夫を施した戦艦だから、艦齢二十年のレパルスでも強力魚雷十四本に堪えたのであろう。
 プリンス・オブ・ウェールズに至つては、更に数段の進化を具現した堅艦であり、先ず以て「不沈戦艦」の第一号としてシンガポールに現われたわけであるが、七本の中の五本が次々と急所を射て速力が六ノットに減じたところを、五百キロ爆弾三個(一個は舷側海中の有効弾)が火薬庫の爆発を誘致して致命傷となつたものだ。それでも約三十分浮んでいて二時四十五分に完全に姿を消したのである。
 プリンス・オブ・ウェールズと戦つたのは二十五機であつた。その雷爆撃によつて世界的堅艦も遂に撃沈されたというニュースは、海戦法式に一大革命を起したこと前述の通りである。その当時、一部の批評には、直衛機を伴わずに敵の制空権内に行動した英将を無謀だと言つたが、後に判明した記録によれば、司令長官トム・フィリップ中将は、それを百も承知で出撃している。即ち二戦艦の出撃には戦闘機掩護の絶対に必要なことをシンガポールの総司令部に再三力説したが、機数不足の故を以て申請が容れられず、さりとて軍港内碇泊の愚は論外として、今日の危機に出動しないわけには行かず、依つて五隻の快速部隊を編成して牽制威圧の短期行動を試みたものである。幕僚の退艦懇請にノー・サンキューと一言して沈んだフィリップ提督は英海軍の至宝、また海空軍の権威であつた。其の霊に聞くことが出来たなら、航空主兵主義の確認と、併せて日本海空軍の勇戦に賞讃の一語を惜しまなかつたであろう。

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