三 スラバヤ以下の海戦
連合国の艦隊を悉く屠る
太平洋戦争の戦史最初の五十ページは、未曽有の華々しさを以て染められる。陸に於いては「何々攻略作戦」が矢継早やに予定通り成功し、海に於ては大小五つの海戦が何れも大勝利の裡に初幕をおろした。陸軍は、満洲と支那大陸に大兵力を割かれたので、南方作戦には僅かに十一個師団、七百機、船舶三百九十万トン(海陸軍併せて)を動員したに過ぎない。海軍は、山本長官の第一艦隊が広島湾にあり、南雲中将の空母艦隊が真珠湾に赴いたので、第二流の兵力を派遣したに過ぎない。これを以て、比島を五十日、マレー方面を百日、蘭印を百五十日で占領する作戦計画を、殆ど計画通りに実現したのだから、正に順風満帆の言葉をそのままの成功であつた。
南方作戦に於ける海軍の任務は、敵艦隊を求めて決戦するよりも、先ず上陸作戦を支援することであつた。護送を主とし、決戦を従とした。故に、海戦は敵の艦隊が我が船団を攻撃して来た時に生起する筈で、我が方から海上掃蕩戦を実施するだけの計画は持たなかつた。主力近藤中将の艦隊は次の編成であつた。
戦艦二隻(金剛、榛名)。
重巡一二隻(愛宕、高雄、鳥海、熊野、鈴谷、三隈、最上、妙高、羽黒、那智、足柄、摩耶)。
軽巡七隻(川内、鬼怒、神通、長良、那珂、球磨、由良)。
駆逐艦四〇隻。
潜水艦一五隻。
これらが、本隊、仏印部隊、護衛部像、四つの急襲部隊、空襲部隊、機雷部隊の九隊に分割されて南方攻略を支援したのである。一に纏つた艦隊として作戦するのではなかつた。而して敵の南方海軍兵力――米のアジア艦隊、英の東洋艦隊、蘭の極東艦隊、濠西の艦隊――に対比すれば、昭和十六年十一月の現勢に於てはこれで十分であつた。金剛、榛名の二戦艦に太刀討の出来る敵はいなかつたのである。そこヘプリンス・オブ・ウェールズとレパルスの二大戦艦が俄かに加わつて来て、今度は形勢が逆になつてしまつたのである。この二艦を中心として前記の各国軍艦を編成すれば、勇将近藤信竹の胸底にも勝算は疑われたであろう。したがつて、この二艦を屠つたマレー沖の海空軍の手柄は、一日で南方作戦の全面を救つたとも言い得るのだ。その二大艦亡き南方海上は、日本も金剛級を要せず、重巡を主力として其の任を全うし得る公算である。
昭和十七年二月二十六日、四十一隻の輸送船団を護衛してジャバ攻略に向つた第五戦隊(重巡那智、羽黒、第二及び第四水雷戦隊)は、スラバヤの北西方六〇浬の地点に於て敵艦隊の出撃し来るのを認めた。太平洋戦争に於ける初の艦隊海戦が起つた。両軍は共に緊張して遠方から砲戦を交えたので敵は早々に逃避したが、やがて我が軍が小部隊なのを見極めて夕刻に反転攻撃し来り、夜半までに二回に亙つて砲雷戦を交えた。
この海戦で日本海軍最得意の機密兵器が敵味方を共に驚ろかした。九三式強力魚雷がこれである。これに就ては後に詳しく書く機会があるが、その特徴は、英米の魚雷の射程が速力三十二ノットで八、〇〇〇メートルに対し、実に四〇、〇〇〇メートルに達するという五倍の威力を持つ点だ。二〇、〇〇〇メートルなら五十ノットの高速で走り、しかも航跡が見えないという特質をも兼備しているのだ。二十六日夜十二時、我が強力魚雷は一挙にして和蘭巡洋艦デロイテルとジャバ、英駆逐艦エレクトロラ及び蘭駆逐艦コルテネールの四隻を轟沈してしまつた。他の敵艦はこれを機雷に触れたものと信じた。やがて同一海面を日本の軍艦が疾駆するのを見て不可解を禁じ得ず、それが遠距離魚雷であつたとは戦後まで信ずることが出来なかつた。この戦いは「スラバヤ海戦」と呼ばれるが、別の名を「強力魚雷海戦」と称しても差支えなかつたろう。将兵は艦橋甲板に雲集して、大砲の届かない遠方を航海中の敵艦が、高く大火煙をあげて沈んで行く光景を、花火を見物する余裕を以て眺めていたという。
越えて二十八日、第七戦隊(重巡熊野、鈴谷、三隈、最上、第五水雷戦隊)は五十六隻の船団を護送して作戦中、アメリカ・アジア艦隊の旗艦ヒューストン、濠洲巡洋艦パース、和蘭駆逐艦エバステンの三隻が船団襲撃に来たのを捕捉し、これを砲撃によつて悉く撃沈した。二万メートル前後の距離で、訓練を積んだ重巡の八吋砲は高い命中率を示し、艦隊砲戦に就いて平常習つた通りを実戦で演出したようなものであつた。この「バタビヤ沖海戦」も前掲の「スラバヤ沖海戦」と共に、緒戦を飾つた楽隊入りのニュースであつたが、三月一日の午前十一時、前記の第七戦隊はジャバ沖を警戒中、英巡洋艦エキゼター、駆逐艦ホープ及びエンカウンターの三隻を発見し、偶々附近海面にあつた第三艦隊の足柄、妙高と共に之を包囲し、砲戦によって撃沈してしまつた。
この相次ぐ三つの海戦によつて、南方にあつた英米蘭濠の連合国海軍兵力は、米国駆逐艦四隻のバリー海峡突破脱出を許した以外は悉く撃沈し、完全に制海権を掌握して南方攻略戦の後顧の憂いを絶つた。一方、真珠湾で偉勲をたてた南雲中略の機動部隊(空母赤城、蒼龍、飛龍、戦艦比叡、金剛、榛名、霧島、重巡利根、筑摩、軽巡阿武隈、駆逐艦八隻、補給艦六隻は、二月十九日にポートダーウィンを空襲した後、二月末にジャバ方面に雄姿を見せたが、敵艦隊の掃蕩には此の威力を煩わす必要もなかつた。真珠湾からマレー沖、それから蘭印に移つて戦われた三つの海戦により、僅か百日の間に、連合国の水上艦隊は東亜の戦場から完全に一掃され、皇軍の武威高く揚り、何人も三年半の後の降伏を予想するものはなかつた。
四 珊瑚海の戦術勝
海空軍の成功と攻勢終焉
勢いに乗じた海軍は、印度洋に進出中の英国艦隊にも一撃を与え、間接にビルマ作戦を支援するに決し、三月九日に第二艦隊に第一航空艦隊を加えた兵力を出撃させた。同時に米英という二大海軍国を敵とするような作戦は、兵理の上から成立しない筈であつたが、今は現にそれを戦いつつあり、緒戦の勢いは、それさえも成立するかに見えた。
印度ベンガル湾の掃蕩は、箒で玄関先を掃くように雑作もなく片づいた。進んで四月五日にはコロンボを急襲し、脱出した英国巡洋艦ドセットシア及びコーンウォール号を追うて忽ちこれを撃沈した。蒼龍飛行隊長江草少佐指揮の艦爆五三機を以てした。適確な攻撃は前者を十三分、後者を十八分で沈めた。戦意も技術も満点の攻撃隊であつたから命中率八八%という嘘のような成績を記録した。引続き四月九日、トリンコマリを急襲、基地の空軍、船舶、施設を粉砕し、返す刀でセイロン島東岸を遁走中の空母ハーミスを撃沈した。これまた八二%の命中率を挙げて我が海空軍の高い戦力を示し、かくて印度洋の作戦を完勝の裡に終つた。
息つく暇もなく、今度はMO作戦が下命された。モレスビー、ナウル、ツラギ、オーシャン各地の攻略戦であつて、要は東ニューギニアの要衝モレスビーに航空基地を進め、ここから濠洲に爆撃を指向しようというのだ。兵力は原忠一少将の指揮する空母瑞鶴、翔鶴を中心に、重巡六、軽巡三、駆逐一五(その他小艦多数。陸戦隊、設営隊の船団十四隻)である。
筆者は寡聞にして斯かる計画が戦前の日本海軍に存在したことを知らない。いかに外郭防衛線の進展とは言つても、モレスビーから濠洲爆撃を策する如きは、安全性を自ら放棄するに等しい遠征であつたが、「勢い」はそれを可能と信ぜしめたに相違ない。心の驕りもそれを手伝つたことは確かだ。しかも現実には、兵力的にそれを可能、いな簡単とさえ思わせる勢いであつた。珊瑚海の勝利が之を実証した。
このMO作戦は米濠にとつては容易ならぬ脅威であつた。米は空母二、重巡六、駆逐一三の外に濠洲の巡洋艦二隻をも加えて我が攻略を懸命に阻止しようとした。五月八日未明、両軍の索敵機は互いに相手機動部隊を発見して、開戦以来最初の艦隊航空戦が展開された。吾れは瑞鶴、翔鶴、彼れはレキシントン、ヨークタウンで共に新鋭空母の太刀討であつた。
この海戦に於ても、我が海空軍の技倆はアメリカのそれを一段抜いていた。戦闘で失われた我が飛行機数は三八機であつたが、アメリカ側は六六機を失つた(米軍公表)。しかも我が攻撃隊は米の主力空母レキシントン(日本の赤城と同等で排水量三万八千トン)を撃沈し、同じく空母ヨークタウンを中破し、油槽船ネオショーと駆逐艦シムスを轟沈した。日本の失つたものは僅かに駆逐艦菊月と小艇三隻に過ぎなかつた。改装空母祥鳳は前日に輸送船団の上空護衛を担任して退避中に空襲されて沈んだ。それを加算しても、珊瑚海海戦の勝利は明白である。
このとき空母レキシントンを襲つた爆撃機は十九発の爆弾を投下して十発の命中を得(五三%)、魚雷は十四本中の九本が命中したから比率は六四%という素晴しさであつた。レキシントンは巡洋戦艦として建造中であつたのを、華府会議でサラトガと共に空母に改造を認められたもので、日本の赤城、加賀と対抗するもの、その甲板や一般防禦鈑は戦艦並みの堅牢を誇つていた上に、この機動部隊の防禦砲火は、印度洋の英艦とは大人と子供ほどの相違があつた所から見て、当時の我が海空軍の強さを実証して余りがあつた。
もしも更に一回の攻撃を加えていたら、ヨークタウン号は、ミッドウェー海戦を待たないで此の一戦で撃沈していたであろうし、第一次ソロモン海戦(八月八日)の勝利半途の引揚げ(もう一回攻撃を加えれば敵の輸送船団三十余隻を撃破することが出来た)と共に、「勝を粘らない」海将の心理として惜勝の例に数えられている。が、レキシントンの沈むのを確認し、ヨークタウンの航行困難の有様を見ては、勝利を祝つて引揚げても少しも可笑しくはなかつたろう。
註。ミッドウェ一戦で我が空母赤城を沈めたのはヨークタウン号の攻撃機であつた。同艦は其の後に撃沈された。この海戦の為め、日本のモレスビー攻略船団は途中から引返し、海上からの進攻作戦は中止となつた。故に、アメリカは珊瑚海々戦に於て戦略的勝利を収めたと主張する。即ち、戦術的には敗けたが戦略的には勝つたという意味であつて、必ずしも自讃ではない。
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