第四章 ミッドウェー海戦

    一 太平洋戦争の敗因第一号
        艦隊決戦を急いだ一戦

 戦局を大観して、専門家が「これは怪しいぞ」と勝利を疑い出したのがミッドウェー海戦であり、「これは駄目らしい」と半分諦めたのがマリアナ海戦であつた。この二つの海戦が、連合艦隊から「航空兵力」を奪い去り、「大和」「武蔵」の威力を空虚に終らしめたのだ。もう一つ加えれば、ソロモン消耗戦があるが、要するに、国民に余り知られない敗因の根本が、この二大海戦にかかつていたことは間違いない。大戦果の大本営発表とは正反対に、亡国の悲しむべき大原因がそこに根ざし、それが「連合艦隊の最後」を運命づけた真相を述べねばならない。
 昭和十七年春の戦勢は、国民が勝利の花見に酔うことを是認していたように見えた。真珠湾の大勝利は明らかに米海軍の戦力を封じたので、比島からインド洋に亙る大作戦は、順風満帆裡に早くも一段落を告げた。殆ど傷つかない無敵艦隊は、相次いで懐かしい祖国の港に帰つて来た。戦争がこの辺で終るものなら万々歳だが、問屋は卸ろさなかつた。問屋は「戦争はこれからだ」というのである。米英は戦争に負けたことのない国だ。日本と同じであつた。途中いかに苦戦しても、最後まで戦つて終局に於て勝つた歴史を持つ国々である。パイオニア・スピリット(米)の不敗魂と、ジョン・ブル(英)の粘着力とは、第一次大戦を四ヵ年戦つて、遂に緒戦の勝者ドイツを降伏させた生々しい事実を持つていた。
 両国を知悉する評論家達が、圧迫されながらも、対米戦争論に抵抗を続けたのもその故であり、また軍令部総長永野修身大将が、十六年九月六日の御前会議(和戦の方針決定)に於て「対米戦争も二年は持ち耐えますが、それから先は判りませぬ」と奉答し、また連合艦隊司令長官山本五十六が、十月初旬、近衛首相に対し「一年くらいなら十分暴れて御目にかけましよう。しかしそれから後は自信がありません」と確答したのは、孰れも己を知ると共に敵(アメリカ)を知る者の言であつた。その山本大将の「半年」は大成功裡にすぎ、いまや「一年」の下半期を迎える重要なる「時限」が、十七年五月に到来したわけである。「それから後は自信がない」という「残りの期間」中に山本は如何に打開の途を拓こうとしたか。達識の山本は、朝野酔える時に独り醒めていた。彼れの心を常に圧していたのは真珠湾で撃ち漏らしたアメリカの有力航空母艦の存在と、新造された何隻かの戦艦であつた。特に航空兵力の決定的威力を認識していた山本にとつては、サラトガ、エンタープライズ、ヨークタウン、ホーネット等の一流空母が厳存する事実であつた。
 つまり、米海軍得意のタスク・フォース(機動艦隊――昭和五年頃着想)の中核は無疵で残つており、やがて日本の北から南方に蜿蜒三千浬と拡大された戦線を切断するであろう。何としてもこれを撃滅しなければならない。
 現に空母ホーネットは、十七年四月十八日に東京を空襲して市民の肝を奪つた。海軍が護る日本の表玄関を破つて奥座敷を荒したものである。忠義の提督は、聖慮を驚かした罪を感じたことでもあろうが、それよりも、本土を敵の空襲から護るための哨戒は、敵が高速の正式空母(速力三十ノット)を有し、そうして勇敢なる戦法を実施する限り、事実不可能なことを知つていた。
 日本にレーダーの設備乏しく、専ら小艦艇を以て太平洋東正面の沖合六〇〇浬を哨戒する、疎にして微弱なる網の目は、高速空母が破ろうと思えば何時でも破れるに決まつていた。何としても空母を叩いてしまわない限り、市民は枕を高くして眠ることは出来ない。山本の戦意は責任感と共に脈打つた。が、それはいわば附随的の理由であつたろう。山本が決意したミッドウェー作戦の根本理由は他にあつた。「一年」の後に処する海軍用兵の常道、即ち「艦隊決戦」是れであつた。換言すれば、第二の真珠湾を戦つて、海上決勝のケリを附けることであつた。つまり、全勝の勢いを駆つて――無疵の大艦隊の威力を以て――敵の残兵力を撃滅することだ。我が全きを以て敵の半ばを打てば百戦危からずと考えたのは、作戦思想として素より当然であつた。大きい疑問はその準備の一点にあつた。

    二 “長期戦の自信なし”
        妥協に望み、早期決戦急ぐ

 そこで海上決戦に全勝すれぼ、あとは政治家の戦局収拾に一任しよう。長期戦では勝ち味がない。アメリカといえども、あと三、四年は反攻の見込みがないと判れば、妥協平和の途も自ら通ずるであろう――というのが、永野、山本両提督の一縷の望みであつた。両人ともワシントンで駐在武官の履歴を持ち、よくアメリカの国民性と戦争史とを知つていたから、日本が彼れを屈することは出来ない(陸軍は簡単に屈し得ると誤算している)。ただ一時的ながら絶対有利の戦勢を背景とすれば、或は妥協が出来るかも知れないという「一縷の望み」を抱いたわけである。また、海軍としては、悠然として敵の復興を待つているのは下策だ。この辺で相当の賭博を打つても海上決戦を試みることは、戦略の大局からみて至当であつた。また、こうでもしなければ打つ手が無かつたとも言えるであろう。
 問題は、その戦場をソロモン方面に求めるか、或は真正面のミッドウェー方面に求めるかの是非に懸つていた。ソロモン決戦論の根拠は、同群島にはラバウルからガダルカナルに亙つて我が艦隊が根拠する地点を持つから、その東方に進出して米濠の連絡線を遮断する態勢に出れば、米国は引込んでいるわけには行かない。どうしても艦隊を以て対抗して来るであろう。即ちアメリカ艦隊を吾れに有利なる戦場に誘致して一挙に撃滅戦を期するというのである。
 けだし我が方には甚だ好都合な作戦であるが、果してアメリカ艦隊が全力で進撃して来るかどうかは未知数である。少しく希望的観測を前提とする嫌いがあり、もし彼れが出撃せずに更に悠々機会を待つことになれば、日本の焦眉的に希求する早期決戦は出来ないで、苦が手の長期戦に陥る危険がある。即ち最も悧巧な作戦ではあるが、勝算が多いだけに機会が少ないという欠点があつた。専ら軍令部方面の主張ではあつたが、二つとも佳いことは稀だという譬えの通りであつた。
 右の対案として山本長官によつて主張されたのがミッドウェー作戦である。其の狙いはミッドウェー島を攻略し、併せてアリューシャン諸島をも占領すれば、米国はモウ我慢が出来まい。グァム、ウェーキの場合は暫らく歯を食いしばつて我慢したが、百八十度線まで日本の進出を許したのでは国民が承知しまい、「艦隊は何をしているか」という与論の怒りに応えて、必ず進撃して来るに相違ない。即ちアメリカ艦隊に決戦を強要する手段として、ソロモンの不確実性とは比較にならないと主張するものである。
 しかし危険性は遥かに多い。占領しても果して維持が出来るか。瀬戸内海からミッドウェーへの距離は、真珠湾と同島間の距離よりも二倍半長い。つまり敵は二倍半の速さと容易さを以て同島に接近し得る。また、この孤島の守備隊に食糧弾薬を補給することは、不可能ではないが、甚だ困難である。加うるに飛行機や艦砲の奇襲に会つて守備軍が潰れ、果敢なく奪い返される可能性も少なしとしない。即ち余りに冒険的であるというのであつた。
 しかし山本長官は主張した――多少の危険を冒さずに早期決戦の大目的を遂げようとは虫が良すぎるではないか。またいやしくも占領が可能ならば先ずこれを断行し、敵が奪還作戦を試みる時こそ待望の決戦が生起するのだから大目的を達し得るのだ。守備軍の処置はその時にどうでも出来る。故に先ずミッドウェー島を占領し、その時に敵艦隊が来援すれば、一転これを撃滅する一石二鳥の大戦果を期する途もある――と、確固不動の気構えであつた。
 他の一方に第三案があつた。ミッドウェーも悪くはなかろうが、それは飽くまで陽動作戦であり、主作戦は飽くまで敵空母艦隊の撃滅にある。而してこれは真珠湾攻撃よりも遥かにむずかしい。敵空母も航空戦法も一流のものであり、しかもこれを殲滅して初めて大目的を達し得るのだ。だからミッドウェーを攻略すると見せて敵をこの方面に誘致し、全力を挙げてその艦隊を襲撃するのでなければならない。そのためには、日本の機動部隊は疲労している。真珠湾から帰つて直ぐに南方に転戦し、やつと帰国したばかりである。そこで歴戦の搭乗士官の一半を陸に移して教官とし、既に基礎訓練を経た搭乗兵に実戦的教育を施し、二、三ヵ月後にそれら新進の精兵を率いて出撃するのが最善であり(草鹿参謀長はこの意見を具申している)、或は少なくとも四、五十日の休養によつて武器と闘志とを新たにする必要があつたろう。ところがミッドウェー作戦は次のような計画細目と共に、占領実施期日まで既に早く決まつていたのであつた。

    三 連合艦隊の全力出撃
        如何せん、米は知つていた

 前述のように、早期決戦という戦略目的は軍令部が指示するが、その手段方法は、実戦部隊長官が責任をとる。勿論軍令部案は尊重されるが、艦隊長官が他の案を強く主張する場合には、その方に傾くのが條理である。真珠湾攻撃が山本長官の不動の決心で決まつたようにミッドウェー作戦もまた山本の主張によつて決定したものである。それは昭和十七年五月五日であり、「陸海軍中央協定」によつて次の作戦目的が発令された(大海令十八号)。
 「ミッドウェー島を攻略し、ハワイ方面よりする我が本土に対する機動作戦を封止し、併せて攻略時に出現することあるべき敵艦隊を撃滅す」
 また協定による海軍の作戦要領は、
 「海軍は連合艦隊の主力を以て攻略部隊を支援すると共に、上陸前、航空母艦部隊を以てミッドウェー島を空襲し、主として所在航空兵力を撃破す」
というのであつた。明らかに、島の占領を第一目標としたものである。勿論、山本大将の胸底にはミッドウェー島を囮にして敵の艦隊をその方面に誘致するのが最終目的ではあつたが、先ずその囮を手に入れることがミッドウェー作戦であるから、その作戦の関する限り、島の占領が主目的になつたのは己むを得ない道行であつたろう。だから(イ)敵機動部隊の撃滅と、(ロ)日本本土の哨戒線を幾百浬延伸して都市空襲の危険を防止することは、第二次の目的として心に描かれていたわけである。
 ミッドウェー攻略日は六月七日と決められていた(一ヵ月前に)。それが大問題であつたことは後に判明するが、とにかく、大きな困難なしに遂げられるという自信を以て、次の編成により、日本海軍の全力が、陸軍一個大隊(三、〇〇〇名)――一木支隊――と海軍陸戦隊二、八〇〇名とを十六隻の輸送船に載せて出撃したのである。(他に設営隊二、五〇〇名)山本五十六大将は旗艦「大和」にあつて全軍を指揮したが、艦隊の区分は次の通りであつた。
 第一、空母部隊(南雲忠一中将)
  空母=赤城、加賀、蒼龍、飛龍。
  戦艦=榛名、霧島。
  重巡=利根、筑摩。
  軽巡=長良。
  駆逐艦=十六隻。
 第二、主力部隊(山本五十六大将)
  戦艦=大和、陸奥、長門、伊勢、日向、扶桑、山城。
  雷装巡=北上、大井。  空母=鳳翔。
  軽巡=川内。  潜母=千代田、日進。
  駆逐艦=十二隻。
 第三、攻略部隊(近藤信竹中将)
  戦艦=金剛、比叡。  空母=瑞鳳。
  重巡=愛宕、鳥海、鈴谷、熊野、最上、三隈、妙高、羽黒。
  軽巡=那珂、神通。
  駆逐艦=二十八隻。
  空母=千歳、神川丸。
  輸送船=十六隻。
 第四、アリューシャン部隊(細萱成子郎中将)
  重巡=那智、高雄、摩耶。
  空母=龍驤、隼鷹。
  軽巡=木曽、阿武隈、多摩。
  駆逐艦=一三隻。
 即ち総計百余隻の大艦隊だ。その中、アッツ、キスカ攻略に向つたアリューシャン部隊の十七隻を除いた八十余隻の精鋭は、空母部隊五月二十七日、主力部隊二十九日に分れて広島湾を出撃した。
 驚くべし、連合艦隊主力が桂島泊地を出でて豊後水道沖に差しかかつたとき、一隻のアメリカ潜水艦がこれを見ていた。暫らく航進すると、また一隻を発見した。それどころか、三十日には攻略部隊の前方に潜んだ敵の潜水艦が、長文の緊急報告をミッドウェー島に宛てて発信したのを傍受した。更にウェーキ島までの航路で敵潜四隻を視認した、その他を合せると、十二隻乃至十六隻の潜水艦が目視探知の網を、日本本土からミッドウェー島まで繋いでリレー報告をしていたことが明らかである。
 しかし当時の連合艦隊は百戦悉く勝つという勢い当るべからず、途中で敵潜が現われても「何程のことやあらん」と、既定の航路を一直線に進んだのである。その場合の敵潜は、攻撃を絶対に中止して、情報のみを電報する使命を帯びたものであるが、これを勇躍突進する艦隊から見れば、攻撃せざるは能わざるが故なり、といつた単純なる観測に囚われていたかも知れない。静かに考えれば、敵潜がミッドウェー島を呼んで通信をしていることは、本作戦自体が既にアメリカに探知されていたことを語る以外の何物でもなかつた。事実ニミッツ大将(米太平洋艦隊司令長官)は約三週間も前に日本艦隊の作戦を探知し、ハルゼ一機動部隊を南方から呼び戻し、且つミッドウェーの戦備を増強して、其の日の来るのを爪を磨いて待つていたのである。

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