四 暗号は読まれていた
        慢心の我が軍、不注意の数々

 アメリカの暗号解読力――それで山本長官は空中で邀撃されて戦死した――鋭い情報網、想像以上の電波探知能力。科学が日米戦争の勝敗を決したといえる程の優れた技術によつて、ミッドウェー作戦計画は、二、三週間も前にアメリカに判つていた。大本営の次に、アメリカが知つていたといつても過言ではなかろう。
 それよりも驚くべきことは、真珠湾の奇襲さえも、アメリカは「半分」探知していたと言つて差支えないことであつた。即ちアメリカは、日米交渉の進むにつれ、日本艦隊の行動を殆ど正確に探知していたが、なかんずく各軍艦の無線呼出符号を偵知し、昭和十六年十二月一日に改訂されたばかりの符号まで知つていた。そうして海軍情報部から太平洋艦隊司令長官キンメル提督に与えた十二月二日附の緊急通報に曰く、
 「本日は空母に対する情報が一つもない。新符号は二百隻分列明したが、空母は一つも見当らない。最近空母の行動は低調なりと見るべきか」
とあるのだ。キンメル大将はこれを見て疑惑を感じたと、その日記に認めている。誠に心臓の破れそうな報告である。何にしろ平和時だ。それが奇襲のために単冠湾に密航したとは神様でも想像し得ないが、とにかく日本の空母がいないことに気が附いていた事実には驚愕せねばならない。もしこれが戦争中であつたとしたら、彼れは大至急各般の手段を講じて空母を捜し出したに違いない。だから、戦勝で少々弛んだ機密の網の目を潜り、彼れがミッドウェー作戦を事前に知つていたことは、少しも異とするに足りないだろう。そうしてこれは敗戦の実況記述の随所に現われて来るので、一応予備知識として書いておく次第である。
 さてこの戦闘に於て、山本大将の主力部隊は一砲も撃つていない。機動部隊の大敗を聞くや直ちに瀬戸内海に引上げてしまつた。近藤中将の攻略部隊もまた戦わずして引返した。ひとり大いに戦い、そうして大いに敗れたのは機動部隊のみであつた。それは恰かも、天が日本を罰するような運命の一戦でもあつたから、聊か戦闘の大要を正解して国民の記憶に止めておきたいと思う。
 五月二十七日、一足早く出撃した機動部隊(空母艦隊)は自信満々東進したが、六月二日から珍らしい濃霧に襲われた。それは曽て経験したことのない程のひどい霧であつた。隊形を一列にし、前艦の艦尾に浮標を曳航し、それが揚げる白波を見て続航する「霧中航行」さえ役に立たない酷さであつた。号笛や探照灯信号はもちろん通じない。霧は一両日で晴れるだろうとは思われたが、徐航待機したら六月七日の攻略日に間に合わない。そこで遂に断禁の無線を発してしまつたのだ。
 微勢力無線(長波)なら、艦隊間に通じても遠方の敵には感じないだろうと考えたその「だろう」は既に心の戒しめを緩めたものである。何んぞ知らん、その無線は四百浬も離れた後方にあつた戦艦「大和」が傍受した位だから、鋭い受信網を広げて待つていた敵には手に取るように判つてしまつた。敵は万全の姿勢を整えて待機するであろう(無線は三日午前十時半、ミッドウェー島への変針点に於て発信した)。
 何事ぞ翌日は霧拭うが如く晴れて旭日麗らかである。天下一流の航空母艦、そうして真珠湾の花形でもあつた巨艦、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の四隻は、予定通り右方に転針して疾航した。四日午後三時、敵の哨戒機の無線を近傍に感受し、四時四十分には「利根」の偵察機、午後十一時半には「赤城」の見張が敵機らしいものを発見して直ちに戦闘機を放つたが見附からず、誤認ということで葬つた。
 空襲実施はあと二、三時間に迫つている。それは攻略日である六月七日の二日前に陸上の抵抗を叩き潰す約束であるから、六月五日を期限とし、そうして効果は未明の攻撃に期待されるのである。その寸前に於ける我が機動部隊司令長官の情況判断は、一つの心得(ネガチブの教訓)としても、また批判の対象としても、国民が是非聞いておかねばならぬ点である。彼れの情況判断報告は七項目から成つていた。
その第一は、
 「敵は戦意乏しきも、我が攻略作戦進捗せば出動反撃の算あり」
と言つている。己が威勢を示すための筆の勢いかも知れないが、敵が戦意に乏しい、とは余りに見縊つた言葉である。反対に、敵は烈々たる戦意を抑えながら満を持し、日本軍を引き寄せて決定的打撃を与えようと待ち構えていたのである。ここに、この作戦を全敗に終らしめた一大原因としての慢心を指摘するのは過酷であろうか。情況判断の著るしく楽観的であつたことは判断報告第四(二、三略)に一層明らかである。曰く、
 「敵は我が企図を察知せず、少なくとも五日早朝までは我が方は敵に発見されおらずと認む」
と。これは頗る呑気な認識である。既に四日午後四時四十分と、十一時三十分との二回に亙つて敵機触接の疑いは十分であり、追跡して発見し得なかつた実状から判断すれば、逆に「発見されたるものの如し」と報告する方が心構えとして正しいではないか。事実敵はハッキリと機動部隊の企図を察知して反撃の体勢を整えていたのだ。
 情況報告の第五項は更に危険である。
 「敵の航空母艦はミッドウェー附近の海面には行動しあらずと推定す」
 これは我が空母艦隊の最大の敵に対する判断を、架空の推定に繋いだものであつて、もともと何の根拠もない想像であつた。何故ならその時まで、我が艦隊は、一回も敵空母の在否を確かめるための偵察飛行を行つていないからだ。それを実施したのは、ミッドウェー島攻撃の飛行機が進発した直後であり、その偵察も真剣を欠いた嫌いがあつて、いずれにしても、敵空母の来襲率を軽視していたことは争われない。そうしてそれが直接敗因の全部となつたのだ。
 而してこれらの敵情判断が、半歳前に真珠湾を奇襲した智将達と同一の人々によつて行われたことは、筆者が信じようとしても信じ得ない所である。航空用兵の第一人者を以て自他共に任じた草鹿少将(空母艦隊参謀長)の如きは、何をしていたのかと怪しみ問いたいほどの粗笨なる判断であつた。
 尤も大本営の当時の判断も大体に於て甘いものであり、例えばミッドウェーの守備軍を七五〇名と判断したのに、事実は五、〇〇〇名が守つていたこと、また、陸上空軍は約六〇機で増兵限度二二〇機と判断したのに、事実は二八五機の優勢を以て待機していたことが雄弁に物語る。七五〇名と推算したので大本営は二、八〇〇名の一木連隊を送つたが、事実五、〇〇〇名を相手に上陸戦を戦つたら或は撃滅されたかも知れない。
 情況判断の第六は、上陸作戦の後「もし敵機動部隊反撃し来らばこれを撃滅すること可能なり」といい、第七は「敵の基地空軍の来襲はこれを撃攘すること可能なり」と言つている。不幸にして結果は正反対に終つたが、当時としては、この立派な艦隊がこの程度の勝算を考えるは敢て不思議ではなかつたかも知れない。凡ては敵の「待ち伏せ」を知らなかつた盲目と慢心とに帰するのである。

    五 将帥に心の騎りあり
        索敵の油断、敵に先制さる

 さて六月五日午前一時三十分(日出は二時)、艦隊はミッドウェー島の北西二三〇浬に達し、四十五分空襲第一陣を発進した。戦闘機三六、水平爆撃機三六、降下爆撃機三六の合計一〇八機は、友永大尉の指揮の下に、一機乱れず、未だ曙の色を染めない断雲の彼方に銀翼を消した。いずれも真珠湾攻撃の勇士であり、「強襲」ではあるが、相当大なる戦果を期待してよかつたろう。
 ところが、出発後間もなく敵の大型飛行艇コンソリデーテッドPBYの数機は友永隊の上空を監視併進しミッドウェーの三〇浬に達した頃、巨大なる吊光弾を投下した。これは島内の全飛行機に飛昇を合図したもので、敵の戦闘機は直ちに出撃し来り、他は上空に避難したのである。
 だから島に達するまで、午前三時四十五分から四時十分までの二十五分間は猛烈なる空中戦闘が行われて我軍の進入空襲の時間を阻止された。しかしながら、アメリカも認めた如く、この空中戦闘に於ける我が零式戦闘機の性能と搭乗員の腕前とは、遠かに敵のグラマン戦闘機を凌駕し、吾れ僅か二機を失つて敵の四十機を撃墜してしまつた。真に驚嘆すべき荒鷲の神技であつた。
 かくも見事に突撃路を開いて、さて島上空に至れば敵機は地上に一機もなく、兵は防空壕内にあつて見えず、ただ砂地と飛行場とバラックの転在を認むるだけである。ノレンに腕押しという所である。それらを爆撃したが素より大戦果はあり得ない。よつて「第二次攻撃の要あり」と電報して帰途に就いた。十二分に準備待機した敵に対した戦況の淋しい全部である。これは腕の結果ではない。凡て作戦指導者の心の結果であつた。
「敵空母はこの近海に行動しあらずと推定した」大誤断は前述の通りだが、それでも、万一のこともあると思つて一応の索敵は実施した。本来は二応も三応も実施するのが、思慮深き提督の常であるが、一つは島の攻略協力に気を奪われていたのと、一つは油断があつて、肝腎の索敵が聊か形式に流れたことは争われない。索敵機は攻略隊発進と殆ど同時に、東北海画に五線、南西海面に二線を発した。即ち利根、筑摩の零式水上偵察機おのおの二機(進出距離三〇〇浬、側程左へ六〇浬)と榛名の九五式水偵一機(進出一五〇浬、側程左へ四〇浬)が東北へ、それから赤城、加賀の攻撃機各一機が南西に飛んだ。しかし肝腎の利根、筑摩の水偵機は故障の為に出発が三十分遅れた。これも重大なる不用意を責められねばならない。しかも筑摩の六番機は天候不良の理由で三時三十五分に引返している。何となく索敵に真剣を欠いた一連の現象を説明するものである。反対に、敵の索敵機(飛行艇三機)は午前二時三十分に我が空母群を発見して、味方の機動部隊に逐一我が行動を通報していた。明らかに米軍が先手をとつた。
 南雲長官は素人であつたが、草鹿や源田等の参謀は専門家であつた。だから一応の索敵と同時に、第二の攻撃は敵の空母に指向される可能性を考え、制空隊三六機の外、艦船爆撃隊三六機、雷撃隊三六機(魚雷を填装した攻撃機)を用意して、索敵機からの情報を待つていた。この構想は至当であつた。もしも、利根、筑摩の偵察機が時間通り(一時三十分)出発していたら、遅くとも午前五時には、これら勇強なる攻撃隊(板谷、江草、村田等練達の各少佐が指揮した)は敵艦に向つて飛び立つていた筈だ。三十分の遅延が千載の恨事を残すのである。
 いな、もし南雲長官が二段索敵を実施していたら、詳言すれば偵察機第一陣の発進後に、三十分乃至一時間の間をおいて第二陣を発進して見落しを拾つていたならば(慎重索敵の常道)、恐らく午前三時半頃には敵の第一陣(空母ヨークタウン、巡洋五、駆逐五の一隊)を発見していたであろう。「利根」の偵察機が初めてこれを発見したのはその帰り道であり、報告第一報に次いで敵空母確認第二報は五時二十五分の入電であつた。即ち、死活的の二時間を失つた。その二時間が空母四隻の全滅を招くのである。
 さて戦況に戻り、各母艦上に待機していた前記の攻撃隊一〇八機は敵機動部隊の出現がないので――出現していたのに偵察報告がなかつたので――待ち疲れの恰好であつた。そこへ前述の「第二次攻撃の要あり」という報告が、第一次ミッドウェー空襲部隊から到着した(午前四時十分)。ここに勝敗の第三の岐れ目があつた。南雲長官はサイパンで戦死して問う由もないが、誰が決定したのか、一転してこの要請に応ずることに決めた。実は幕僚の間に激論もあつたのだが、結局は「ミッドウェー攻略が第一目的」という作戦命令を尊重せざるを得なかつたものであろう。
 これは実に大変なことである。飛行機の武装を全部取換えねばならない。その時までは、戦闘機以外の七十二機には魚雷と軍艦用爆弾を装備していた。陸上攻撃となれば、その魚雷と大型爆弾とを取外して八〇番陸爆に変更しなければならない。地上の兵舎、軍隊、飛行機を攻めるのに上空から魚雷を落しても無益に決まつているからだ。四時半頃から大至急に「転装」が開始され、幸い手際よく運んで仕事が終つた頃、敵の基地空軍(ミッドウェー島の)が襲つて来た。味方戦闘機の活躍、空母自身の操舵転回、防空砲火の集中が功を奏し、漸くにして執拗なる敵の空襲を退け、やつと胸を撫でおろした午前五時、まことに重大なニュースが入つて来た。
 重大なるニュースとは敵の空母が行動中であることを報告した「利根」偵察機の五時三十分の情報である。その時、第一次攻撃隊が続々と帰艦して収容に繁忙を極め、一方には敵空母出現の火の附いた報告に促がされて、幕僚は神経の平衡を失わん許りである。「直ちに準備した攻撃機を発進すべし」と急ぐ説。「陸用爆弾では駄目だ。再び魚雷に転送すべし」と主張する声。轟々たる論議の末に、またまた、陸用爆弾を取外して魚雷と軍艦用爆弾とに転装することになり、各艦上は引越しの荷造り中に隣りから火事が出たような騒動である。一時間半前に、雷装を陸爆装に掛け換えた整備員が、よく不平を爆発させなかつたものだ。五時四十五分、南雲長官は山本長官に対し、
 「五時三十分敵の空母一、巡洋五、駐逐五をミッドウェーの一〇度二四〇浬に認む。これに向う」
と打電し、同時に艦隊に対し「収容終らば一旦北に向い、敵機動部隊を捕捉撃滅せんとす」と発令し、全力を挙げて攻撃を実施するに決した。赤城、加賀からは各々戦闘機三と攻撃機(雷爆)二七、蒼龍、飛龍からは戦闘機各々三と攻撃機(雷爆)一八、合計一〇二機の編成である。
 前述のように兵器転装の大仕事はどんなに急いでも二時間近くを要する。その最中、六時二十分、いよいよ敵空母の艦上機が襲いかかつて来た。大変なことになつた。しかしその時も前回同様の巧みなる防戦によつて難を免かれ、攻撃隊の発進準備は爆砲音の下に必死で進められ、七時三十五分、「赤城」艦上から第一機が飛び立つまでに進捗した。
 ところが天佑吾れに無し。その一瞬、断雲を破つて敵の急降下爆撃機が殆ど体当りも同然の猛烈さを以て突ッ込んで来たのである。大型爆弾は忽ち赤城、加賀、蒼龍の三艦を撃つて艦上に列んだ飛行機に点火し、その魚雷と爆弾の自爆を誘発して火焔は艦上艦内を嘗めて、消火の努力を子供の水鉄砲同然の無力に化せしめた。もし艦上の飛行機が発進後であつたなら斯かる大被害は免かれ得たのだ。あと五分あつたら全機発艦済となる筈だつたから、「五分の差」が我が空母を焼き尽したと言われるのである。が、実は幾多の油断不用意が重なつたためであつて、五分の遅れというのも要するにその集積の一片でしかない。
 三大空母が一瞬にして廃艦となつたが、「飛龍」は独り健在し、敗戦を回復すべく神鬼の大活躍を演じた。即ち七時五十八分、その戦闘機六と爆撃機一八を小林大尉の指揮下に発進し、敵空母ヨークタウン型に直撃弾三個を加えて大破せしめ(我が方十八機還らず)、更に十時三十分、友永大尉は戦闘機六と電撃機一〇を率いて決死の襲撃に赴き、空母エンタープライズ型に三発を命中させてこれを撃沈した(後にヨークタウンと判明)。指揮官以下八機は還らなかつた。
 かく阿修羅王の活躍に日本空軍の汚名の一半を雪いだ「飛龍」も、午後二時三分、敵艦上爆撃機十三機の編隊に襲われて遂に火災を起してしまつた。鎮火の見込みなきを知つて乗員は涙と共に離艦した。五日夜半、主力部隊の母艦「鳳翔」の索敵機は、燃えながら独り漂流する「飛龍」を発見した。長官は直ちに駆逐艦「谷風」を派して葬送を命じたが、「谷風」はその地点に最早や「飛龍」を見ることが出来なかつた――。
 かくて日本海軍の空母四隻は一日にして亡び去つた。米のサラトガ、レキシントンと列んで世界に知られ、国民にもその名を謳われた赤城、加賀、蒼龍、飛龍は、真珠湾の戦功を挙げてから七カ月にして早くも世を去つた。思いもよらぬ大敗戦であつて、我が戦力に影響する所至大であり、南雲長官や二、三の幕僚が自決の意を固めたのも必ずしも無理ではなかつたほどの損害であつた(切腹は大勢で思い止まらせた)。空母四隻の外に、飛行機喪失三二二機に上り、更に歴戦の優れた搭乗将兵多数を失つたことも空軍の大損失であつた。敵空母ヨークタウン、駆逐艦ハマンを撃沈し、飛行機一七二を撃墜した戦果も、我が損害の大なるに比すればささやかなる慰めに過ぎなかつた(日本は大空母の外に重巡三隈沈没、同最上大破す)。
 アメリカの新聞は、真珠湾の時と同じ大活字で戦勝を報じた。仇を討つた歓びの色が一面を染めた。日本の新聞は空母四隻の喪失を知らされない。大本営は「敵空母一隻撃沈、一隻大破、大巡一隻撃沈、飛行機二百以上撃破云々」だけを発表して大戦勝の嘘をつき、大敗北を国民に秘匿した。ここに至つては道徳の問題である。撃沈された空母四隻の乗組員は、艦長以下全部が各地にある海軍の学校その他の建物内に缶詰にされ、海上の勤務先が決定するや其の場から赴任を命ぜられ、斯くて敗報が民間に漏れることを防いだ。日露戦争中、東郷艦隊の主力艦六隻の中の二隻が旅順口港外で触雷沈没した時は、半歳ほど秘して後に発表された。ミッドウェーの空母喪失は遂に秘匿されたままで戦争を終つた。
 敗因は、戦勝に気が傲り、米国を甘く見た油断に発すること既述の通りだ。私の知る限り、海軍が陸軍並みに威張り、驕慢の言動を示したのは、前後を通じてこの半歳の期間に目立つていた。その故の敗戦もまたこの一戦だけのように思われる(他の敗戦は別の理由)。いわゆる魔がさしたと言えば、それは実に最大級の天魔であつた。

前頁  目次  次頁