第五章 ソロモン消耗戦
一 ガダルカナル奇襲上陸
米軍の対日反攻の第一歩
ガダルカナルと呼ぶ南洋の小さい島が、「大日本帝国」の命取りになろうとは、米軍がそこに上陸した時には、誰も思い当てるものはなかつた。全く夢想も及ばなかつた。
昭和十七年八月七日、アメリカの第一海兵師団がこの一島に上陸した。それは日本本土攻略の第一歩であつた。しかし戦争が半ばを過ぎるまでは、軍の智者は気が附かなかつた。彼れは深く計画する所あり、日本を征する道を、北方アリューシャン、東ミッドウェーの方面に求めないで、先ず南方から出発し、長期戦を戦略の基底として、徐ろに攻め上る作戦を決定した。ガダルカナルを出発点とし、ソロモン群島を飛石伝いに北進し、比島を奪回し、台湾、沖縄を制して九州に迫るという遠大な反攻作戦の路線――甚だ気の長い攻略計画の初動を、気の短い日本が察知しなかつたのは、怪しむに足りないであろう。
況んや軍は未だ戦勝の夢から醒めてはいない。ミッドウェー海戦で精鋭空母四隻を喪失したことは痛い極みであつたが、素より望みを捨てる段階ではなかつた。永野大将の「二年説」をとれば、ミッドウェー敗戦は、四小半期に起つた出来事だ。未だ先が長い。況して、艦齢半歳の最新鋭空母「瑞鶴」「翔鶴」が健在し、「隼鷹」「飛鷹」「瑞鳳」も立派に使えるし、「龍驤」も捨てたものではない。巨艦「大鳳」――三二、〇〇〇トン、常備五二機、補用若干機――も一年後には完成するし、戦艦二隻(伊勢、日向)の空母改装の議も決定し、六万八千トンの超大空母「信濃」も二年後には出来るであろう。少しも悲観するには及ばない。
一方に山本五十六大将の連合艦隊水上兵力は殆ど無疵で、アメリカの二倍に近い戦力を誇つている。太平洋の真ン中で相撃ちしたら、勝算吾れに在りといつて必ずしも自惚れではなかつたろう。要は工業力のハッキリした優劣が、このバランスを覆えさない前に、洋上決戦を焦望するのみであつた。
その頃、軍は疾風の南進に伴い、専ら政治経済の諸策に没頭していた。経済開発、民心掌握、占領政治等々が参謀の頭を支配していた。軍人から政治屋に転業中であつた。東京の大新聞社と地方の有力十社とが輪転機活字を運んで南方主要都市で新聞を発行するという騒ぎである。その騒ぎの最中に米軍がガダルカナル島に上陸して来たのである。我が軍は政治をやつていた。米軍は戦争をやつていた――。
ガダルカナル島はソロモン群島の南端にある要衝であり、その激烈を極めた半歳に亙る日米争奪戦のために一躍その名を天下に知られるようになつたが、本来は美しい南洋特有の深緑の島であり、ルンガ湾は波静かなる平和の泊地であつた。この島が大戦場と化するとは神も予想しなかつたろう。況んや日本の軍部は、偶々群島を占領した故を以て、形式的に守備隊をおいたに過ぎない。岡村少佐を隊長とした実力一個中隊の陸戦隊は、小口径の旧式な山砲二門、機関銃三門くらいを住民へのデモンストレーションとして配属されていたに過ぎない(隣島のツラギも同様)。
群島の先端にある要地だから、本気で守るなら兵力も必要だが、何よりも飛行場を建設し、戦闘機隊を進出させて制空権を持つておくのが定石である。その基地から毎日索敵を実施することは作戦の常道でもあつた。それをボツボツ始めかかつた最中に、米軍は逸早くこの島に取り附いてしまつたのだ。
大本営は素よりこれを大反攻戦の一端とは判断する由もなく、全く局地的上陸戦と考え、且つ彼等を撃攘することは朝飯前の仕事であると考えていた。海軍の方は比較的にこれを重大視した。というのは、そこに航空基地を許すことは、彼れの偉大なる空軍力から考えて我が制海権の上に重大影響を及ぼすこと必然と判断されたからである。更にミッドウェー戦に勝つて自信をつけた敵機動部隊が、基地空軍と相呼応して活動することになれば、南方海戦略の上に容易ならぬ変化を招来する恐れがあるからだ。これ山本長官が即刻第二、第三の両艦隊をラバウルに進出させ、テニアンの基地空軍をもそこに移動させた所以である。
二 連日海戦、実に百余回
繰り展ぐガ島争奪の死闘
事態容易ならずと見た我が海軍は、即刻第八艦隊(三川中将、重巡五、軽巡二、駆逐一)を急派して反撃させた。三川艦隊は、八月八日の夜半、ルンガ泊地にあつた米濠連合艦隊に夜討をかけた。全く虚を衝かれた敵艦隊は周章てて碌々応戦も出来ず僅か三十分の戦闘で、米国重巡三、濠洲巡洋艦一を撃沈、米濠軽巡各一隻を大破炎上させるという大勝利を挙げた。
面白いことは我が艦隊の進撃中に敵の索敵機に発見されたのであつたが、それが幸いに濠洲の飛行機であり、その飛行士は、これを第一に濠洲軍司令部に宛てて報告し、米軍の方へは連絡が遅れたので、ガ島のアメリカ艦隊は白河夜舟の最中を急襲されたのであつた。我が第八艦隊の突入も誠に神速であつたから斯かる戦果を挙げたもので、これを「第一次ソロモン海戦」と呼ばれるのであるが、残念なことには、大勝して引揚げる際に敵の輸送船団(約四十隻)を打ち漏らしたことに気が附き、引返して攻撃するか(作戦参謀の主張)、翌朝の敵空襲を警戒してそのまま離脱するか(長官の配慮)に迷つた揚句、遂に引揚げてしまつたことだ。
敵の護送艦隊は殆ど全滅して了つたのだから、引返して船団を撃破することは二時間以内の仕事であつたのに、それを捨て置いて帰つたのは小成に安んじた批判を免かれない。というよりは、我が艦隊の作戦思想には、目標は常に敵の軍艦であつて、船舶は二の次ぎと教えられて来たことが、この種の遺漏の根因をなしていたとも言えよう? 同時にミッドウェー敗戦の心傷が生々しく、航空機を持たない艦隊が、空襲されて容易に沈没する惨禍を、過度に警戒したことも事実であつた。《注:「言えよう?」は原文のまま。》
一方に、我が陸軍は、想定敵国としてのソ連は知つていた筈だが、アメリカのことは、全然というほど知らなかつた。アメリカの陸軍と戦闘を交えることなぞは夢にも考えたことはないし、また若し戦えば鎧袖一触と決めていた。とにかく米兵は弱い者と信じていた。だからガダルカナル島に上陸されたことを最初は少しも意に介しない、というよりも、容易に追い払うことが出来ると確信していた。だから、二ヵ月前ミッドウェー攻略に派遣されて中止になつた一木連隊の一部を以て、一日にして飛行場を奪還し、序でに全米軍を捕虜にするくらいの意気込みであつた。その奪還攻撃が八月二十一日に行われたところ、米軍の装備と闘志の前に潰滅の悲運に陥つた。
そこで一木支隊の残部に陸戦隊を加えたものを、艦隊掩護の下で二十五日に陸揚げすることにした。未だ、第一回戦を怪我敗けとしか思つていなかつたのだ。海軍は、敵の飛行場を叩くと共に、敵機動部隊との会戦を期し、近藤中将の第二艦隊と、南雲中将の第三艦隊とが出撃し、果せるかな敵の空母艦隊を発見して一戦を交えた。「第二次ソロモン海戦」といわれるのが是れで、我が軍は空母「龍驤」を失い、敵の空母一、戦艦一を大破させ、先ず互角の勝負で終つた。九月に入るや、敵の基地空軍は増強され、大きい飛行場が新設されて形勢は段々と楽観を許さなくなつた。
この形勢を繞つて、相当規模の海戦が幾つか戦われた。その間九月十五日、イ号潜水艦が敵空母ワスプを撃沈したのは戦績乏しい我が潜水艦作戦中の大きい手柄であつたし、また十月十三日、金剛、榛名による敵飛行場焼打ちの戦果は痛快の極みであつたが、その前々日、敵の新式レーダー射撃のために重巡「古鷹」沈没、「青葉」大破、五藤存知司令官戦死という敗戦も起つた。そうして、これらの海戦は陸上戦闘と別々に行われたものではなく、ガ島奪還に関する大本営の方針に基く陸海軍協同作戦の一環として行われたこと言うまでもない。
陸兵の輸送、その補給、その掩護。これに対する敵の反撃。そこで生起する遭遇戦という形状の下に戦われたのであるから、小さい海戦まで一つ一つ数えたら恐らく一〇〇回を算するであろう。本文が取扱う「一大海戦」の内容を備えたものよりも、中海戦、小海戦が無数に発生したのが実情だ。その中で、「南太平洋海戦」と呼ばれるもの、「第三次ソロモン海戦」と呼ばれるものが、両軍大部隊の交戦として戦史に誌るされているだけである。私は小さい海戦を一〇〇回と書いたが、補給任務の駆逐艦が敵の魚雷艇と交戦したものも一つの海戦として総計すれば、一五〇回と言つても決して誇張の数字ではない。
この島に於ける陸軍の半歳に亙る苦戦は名状すべからざるものがあつたが、海軍の苦戦も亦それに劣るものではなかつた。一五〇回といえば、文字通り毎日戦つたわけであるが、その戦闘が、三十年の海軍の訓練に於て殆ど学んだことのない方式で戦われたのだから、苦戦を一層苦しいものにしたのである。
例えば「鼠輸送」と通称された補給援護の方式の如きは、軍人の仕事としては気の毒の作戦であつたが(後述)、それが当面の余儀ない作戦方式となつた以上は致し方がなく、それが積り積つて戦争を敗勢に導いて行くのであつた。
三 太平洋の旅順口
要塞に代る空軍の堅陣
ガダルカナル島にバラックの兵舎が建つよりも、飛行場の出来る方が早かつた。ブルドーザーは日本が降伏して米占領軍が上陸して来た時に、初めて驚嘆の目で眺めたものだが、我が軍の一部は、開戦の直後に早くもこれを見て驚いた記録を持つていた。それは緒戦にウェーキ島を占領した陸戦隊によつて伝えられていた。
我が軍はウェーキ島を砲爆撃して沈黙させ、難なくこれを占領して敵の守備隊を捕虜とした。我が占領軍は直ぐに飛行場の修理を行うため、敵の隊長に米兵三〇〇名の労働を命じた。彼れは、目的が飛行場整備と聞くや三名で十分だと答え、大型自動車に機械の附いたものを動かして一日で直して了つた。日本の隊長は内心の恥しさを辛うじて抑えた。当方が三〇〇名という見込みのところを僅か三名で仕上げた。その機械がブルドーザーであつた。シャベル、ツルハシに較べて土木工事の速度百倍である。
模造の天才日本が、どうしてこの機械一台を運び来つて模造活用しなかつたかを怪しみ且つ惜しむ。占領一週間の後に、ガダルカナル島から飛行機が盛んに飛び立つのを見て、これを神業と驚いたのは、ウェーキ島の恥を忘れた迂闊の結果であつた。敵は得意の生産力で飛行機をガ島に注ぎ込み、連日空中戦を挑んで来たので、八月末には日本の基地航空機が一時は全部で五十機を割るという悲境にまで陥つた。驚いた海軍は慌てて航空機を補つて対抗し、ここに有名なる「ソロモン消耗戦」の端を発するのである。
ガダルカナルは、太平洋の「旅順口」――しかも遂に「落ちない旅順口」と化してしまつた。時と順を追うてこの戦記を書くことは他の人に譲る。本論は、それを繞る激しい航空戦と艦隊戦とを要約批判して、この戦闘の特殊性と「意外の重大性」とを読者に告げるだけに止める。
日露戦争中、国民の血を湧かした旅順口攻撃の悪戦苦闘史はここで繰り返す必要もないが、難攻不落四ヵ月、第三回の総攻撃には特に勅語を以て必勝を激励され、乃木大将が「若し成らずんば自ら白刃を提げて決死隊の先頭に起つ」旨を宣するほどの悲壮なる難戦が続いた。顧みるに旅順要塞は、日清戦争では山路将軍の精鋭が一日で抜いて了つたので、日露戦争の場合にも、一両日で攻略する予定であり、第一回総攻撃の時(明治三七・八・二四)は、新聞記者が陥落の号外を出すために陸軍省の構内に野営して待つたというほどの確信振りであつた。ところが力攻四ヵ月、将兵五万九千の犠牲を払つて翌年一月元旦に漸く入城を遂げたのであつた。
ガ島には要塞はなかつた。その代りに飛行場と空軍とがあつた。そうして八月二十一日、これを一日で抜けると信じた一木支隊の攻撃が惨敗に終つたのは、旅順を甘く見た陸軍の先輩と同じ過誤を繰り返したものだ。陸軍は準備を整え、今度こそは奪還間違いなしといつて第二回の総攻撃を行つた。川口少将の支隊四千人を以てする突撃であつたが、激闘一昼夜にして遂に潰滅的の打撃を受けてしまつた。旅順要塞第二次攻撃に同じ。
ここに於て大本営陸軍部は、漸く米陸軍を見直し、十月二十四日、丸山中将の下に、仙台の第二師団を基幹とする強兵一個師半と、重砲その他の武器を整えて第三回目の総攻撃を行つた。三度目の正直というたとえではないが、今度こそは必勝間違いなしと誓い、海軍も第二、第三の全艦隊を挙げて敵の海上協力を遮断撃砕する作戦を以て協力した。ところが、戦力を十分蓄積して待つた敵のために無慚に撃退されて惨敗を喫した。旅順口第三次総攻撃に同じ。
大本営憂色漸く濃く、この一島に日米陸軍の雌雄を決するの是非について協議が抬頭するようになつた。けだし前記仙台師団は、日露戦争に於て弓張嶺の師団夜襲に成功し、強兵の世界記録保持者ともいい得る名誉の軍兵であつた。その夜襲を一日で潰滅させる敵の装備と勇敢とは十二分に警戒せねばならないという結論になり、陸軍は夜戦を改め、重火器を以て正攻法による奪回作戦を指向することに決定し、十月末日、今村中将を軍司令官とする第八方面軍を編成し、第三十八、第五十九の両師団を派遣することになつた。この第四次攻撃には旅順の場合と同じように「勅語」が下つたかも知れない――。然るに敵の制空権下に於ける大軍の輸送は絶望となり、四度も敗けては大陸軍の面目いよいよ傷附くばかりでなく、本来が無理な作戦だという悔悟も生じて遂に撤退の方針を一決するに至つた(十八年一月四日)。旅順要塞は最後に抜いたが、ガダルカナルの一島は遂に抜けなかつた。
米国陸軍少将アンダーソンは「日本が二回目の攻撃の時に、第三回戦だけの兵力を投じていたら、アメリカ軍は敗退したであろう。第二回戦で日本の奪還意図を知り大至急増強して辛うじて防禦することが出来た」と述懐している。何事も後の祭であるが、それよりもこの一島を中心に流した日本の出血が、遂に止まらないことが重大であつた。
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