四 一勝一敗一引分け
        ソロモン南方の諸海戦

 さてガ島の陸上から眼を転じて沖合を眺めなければならない。沖合には連日砲声と爆音が絶えなかつた中に、南太平洋海戦と、第三次ソロモン海戦が起つたことは、前にも触れておいた。
 これより先き大本営は頻りに海軍の奮起を促がし、海軍軍令部はまた艦隊の奮起を促がしていた。ミッドウェーで逸した敵をガ島沖で撃つと同時に、ガ島奪還の大目的に協力するという意味だ。多少の危険を覚悟してガ島近海に南下して索敵し決戦すべし、という「希望」が、連合艦隊からも伝達されていたのである(ラバウルの基地へ)。山本長官は、無理をさせない配慮から「命令」をしなかつた。参謀達の軍令部との連絡を伝えさせて、決行の機は一に南雲、草鹿の両将に任せておいた。両将はガ島陸上の攻撃や、大本営の空気や、連合艦隊の与論(?)等を酌量して、この辺で一番南進決戦の機を掴もうということになつた。
 第三艦隊の空母翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、隼鷹、戦艦比叡、霧島、重巡熊野、鈴谷、利根、筑摩、軽巡長良、駆逐艦一六隻から成る機動部隊は戦艦見ゆとの情報もないのに、とにかくも出撃した。危い哉、十月二十四日午後十一時過ぎ、敵の索敵機に発見され、午前零時三十分、忽ち攻撃を受けた。アメリカの索敵機は常に爆弾を携帯し、帰途に高度から落して行くのが定法だ。それが瑞鶴と翔鶴の中間に落ちて百尺の水柱をあげた。四時に来た索敵機の爆弾は空母瑞鳳の甲板を撃つた。当らなくて元々、当れば大儲けという手法だ。とにかく、敵を見ない先きに発見されたので直ちに圏外に退き、午前三時半、北方から二段索敵を実施した。ミッドウェー戦の苦験を活かしたのである。
 果然午前四時五十分、敵空母群が南東二五〇浬にあることを発見した。直ちに第一次攻撃隊六十七機が関少佐に率いられて進発した。午前六時、第二次攻撃隊の四十八機が、村田少佐の指揮下に飛び立つた。いずれも歴戦の勇士であるから、相当の戦果を挙げずには帰らない筈であつた。果せるかな、攻撃隊は敵空母三、戦艦一、重巡五、駆逐艦四に対して命中弾を与え、撃沈または大破の報告を齎らした。アメリカは海軍記念日であつたので、損害確数を発表しないで「或る程度」と言つた。その中で敵正式空母ホーネット(四月十八日、東京空襲の母艦)は炎上漂流していたので、日本が確認した。山本長官から同艦を「トラック島に曳航せよ」と電命が来たが大火で近寄れない。己むなく駆逐艦の魚雷で沈めてしまつたが、それでも東京空襲の仇を討つたという将兵の歓びは隠せなかつた。
 他方わが艦隊でも旗艦翔鶴が飛行甲板を大破され、僚艦瑞鶴も中破し、飛行機七十機をその熟練搭乗員と共に失つた損失は軽いものではなかつた。敵は前記の損害の外に八十機を失つているから、勝敗の割合を見れば、日本が七〇%の勝といえるであろう。
 これに反して第三次ソロモン海戦の方は、敵に七〇%の勝を譲つた形であつた。その頃我が海軍は、機動艦隊は瀬戸内海に帰つたので、専ら近藤中将の第二艦隊をしてガダルカナル戦闘に協力させていた。即ち相次ぐ「艦隊の殴り込み」をガ島ルンガ泊地に試み、艦砲を以て敵の護送艦隊と遭遇して一戦を交えたものである。十一月十二日には、戦艦比叡、霧島が水雷戦隊を率いてルンガ泊地に進入する途中で敵と出合い、激しい砲戦に敵艦四隻乃至六隻を撃沈したが、日本もここで戦艦比叡を喪失した。十一月十四日には、近藤長官自ら指揮をとり、戦艦一、重巡二、軽巡二、駆逐九を以て泊地に突入した。これは陸軍が第三十八師団をガ島兵力補充のために強行輸送するので、是非とも海軍の有力艦隊に護衛を頼むという要求から行われたのであつた。敵はこれを阻止するために新戦艦(アイダホ級十六インチ砲艦)二隻を基幹とする大部隊を以て出撃応戦し、夜戦数合の後、敵艦三隻の爆沈を確認したが、吾れもまた戦艦「霧島」を沈められてしまつた。一方に船団護送中の三川艦隊は執拗な空襲を受け、船団は十一隻中の七隻まで葬られ、艦隊も重巡「衣笠」を撃沈された。
 この一連の海戦を第三次ソロモン海戦と呼ぶのであるが、彼我の損害は、我が方に六、七割方重い負担を課したことになる。先方も機動艦隊は引揚げ、日本も内海に帰つたので、航空機は敵がガ島基地から発するものだけとなり、そうして空輸によつて増強に次ぐ増強が実現され、それに反して日本の基地空軍はブーゲンビルから稀に飛ぶ程度で(兵力三〇機。陸軍機は海上では駄目)、到底太刀打が出来ず、守る一方の作戦を余儀なくされて行つた。

    五 “円タク駆逐艦”で救援
        哀話を綴るガ島海戦

 十一月十八日の未明、我が水偵機の強行偵察によれば、ガダルカナル島南部には既に六つの飛行場が整備され、航空機の数も何百という勢力に強化されていることが明らかとなつた。推察よりも遥かに急テンポで空軍戦力が強化されていた。
 海軍では、陸兵強行輸送の目的で一つの新艦隊を編成する計画中であつたが、恐らく軍艦や商船の接近は自殺を意味する以外の何物でもない、という形勢である。その上に、ハルゼ一機動部隊は空母の数を加えて愈々充実し、今やソロモン群島の大半は敵の制空権下に入つてしまつた。その頃から、ガ島への輸送は悉く高速力の駆逐艦によるか、或は海底を潜水艦で運ぶ外に、方法が無くなつたのは悲惨の限りであつた。即ち巡洋艦以上の日本軍艦はソロモン群島から姿を消し、ひとり駆逐艦のみが夜陰全速力で使い走りをする有様となつたのだ。
 その駆逐艦群はブーゲンビル島のショートランド湾内に、昼間は円タクの駐車のように集まつて夜間は一斉に仕事に出た。その白昼に敵機は毎日爆撃に来る。これを「定期便」といつた。空襲が来ると、駆逐艦は大きい円を描いてグルグルと回り、爆弾が落ちて来ると艦首艦尾を左右に振つて巧みに避ける。毎日反覆するので回避が熟練し、達者な艦長の中には半ば興味を以て待つているのがあつた。当時の水戦司令官小柳氏の著書(太平洋海戦史論)の中には、右の駆逐艦の回避運動を「盆踊り」と呼んだと書いてある。苦戦中のユーモラスな風景を連想して思わず吹き出すところだ。
 全然ユモーラスでないのは、其の駆逐艦が毎晩仕事に出かける時である。仕事というのは、ガ島の守備隊に糧食の強行差入れを行うことであつた。島には一万五千人近くの将兵が、この駆逐艦の運ぶ糧食だけで露命を繋いでいたのだ。栄養失調、マラリア、慢性下痢が何千名。全軍はジャングル内に潜つて敵機を避けている。戦争なぞは論外の生地獄に等しかつた。《注:「ユモーラス」は底本のまま。》
 糧食の運び方は、ドラム缶に食糧を詰め、一隻が約百個を麻縄で繋ぎ、それを両舷側に吊して海岸近くで投入する。草木も眠る時刻である。そこで陸兵何人かが泳いで来て綱の端をつかんで陸に渡す。すると多数が運動会の綱引競争の形で、しかも声を出さずにこれを引上げて、夜明け前にジャングル内に持ち込むという寸法である。ある時は潮流が激しくてドラム缶が流失し、水泳の決死隊が飛び込んだ話等、沢山の物語を残した。
 それよりも、この深夜業を、原則として十五分で完了するというお手並も話の種であつた。敵の空軍、魚雷艇、駆逐艦の警戒を突破して敢行する必死の冒険であり、過勤料計算では出来ない仕事。一に、一万何千の命を繋ぐ友愛精神と義務観念のみの仕業であつた。
 更にドラム缶百個を両舷に吊した駆逐艦の姿を想像したならば、終戦直後、両手肩背に食糧を積んでプラットフォームを走つた老婆よりも勇ましくなかつたであろう。この仕事を二十八回演つた艦長が「俺は一体何のために海軍に入つたのか判らなくなつてしまつた。でもこのドラム缶をしばる綱が命の綱と思えば我慢する外はない」と嘆じた。翌十八年二月一日から三回に亙つて、二十隻の駆逐艦が一万三千人をガ島から運び出して涙の感謝を受けた中で、その艦長は最も多く働いた一人であつた。
 なお特記しておくことは、最後の撤退輸送が三回に亙り、延べ六十隻の駆逐艦によつて敢行された際に、毎度敵空軍の猛烈なる爆撃を受けたのに拘らず、一隻も損害を蒙らなかつたという快記録である。大体駆逐艦は目標が小さく、その上に高速力なので爆撃する方は苦が手なのであるが、それにしても全艦が無事で一万三千を救い出したことは、二ヵ月半毎晩のように反復した食糧輪送に自ら航法と勘とを憶え込み、かくは神技に近い運搬を空襲下に遣り遂げたのである。連合艦隊司令部がこの輸送で駆逐艦の半数を失うだろうと覚悟していた事実に照合すれば、これを一種の海戦と呼んで、その全勝に祝盃を挙げて差支えないであろう。
 しかしながら、駆逐艦をかかる輸送に使役して喪失することが、今後の海戦に大きい影響を及ぼす危険については、夙に問題が起つていた。三ヵ月に近い食糧その他輸送に使つて失つた数は少なくない。そこで、魚雷も大砲も備えない「輸送専門」の駆逐艦を造ろうという議が起り、設計に着手しようとする時に、撤退の方針が決まつて中止になつたのも、海戦の苦戦を語る一つの挿話である。
 思うに本来の作戦を逸脱し、何のための海軍軍人かという懐疑心と、士気の沮喪とは、海戦略の上に暗影を投ぜずには措かないからである。その更に甚だしい悪影響は、潜水艦の上に悲しくも語られるのである。

    六 潜水艦も輸送に専心
        ガダルカナル悲劇の結論

 駆逐艦が円タク業に駆使されたり、「盆踊り」を演つていては、戦局の前途は素人の目にも暗憺そのものである。
 が、それと併行して、潜水艦部隊が、その現有兵力の大部分を挙げて、ガ島輸送専門に使われたのは大きい損失であつた。延べ三十八隻が「潜り輸送」に動員されて、六隻が撃沈された。潜水艦の沈む時は全員戦死だから正確には不明だが、当時の可動兵力の三〇%以上を失つたことは確実である(この期間のソロモン海域に於ける喪失総計は二十隻?)。沈められたというだけならば、戦艦二隻を初め多数の犠牲があつたのだから暫らく我慢をするとしても、我慢が出来なかつたのは、潜水艦の使い途を全然間違つて、例えば剃刀で薪を切るような誤りを犯したことであつた。
 潜水艦は魚雷を片づけてそこへ缶詰を積んだ。将兵は、ああ、今日も運搬か、と士気沮喪しながら乗込んで行つた。等しく御国の大事とは承知しながらも、魚雷一発、敵の空母を狙う軍人の使命と、缶詰を満載して潜る仕事とは、心の中で較べものにはならなかつた。いわんや敵の潜水艦が、眼前に於て前段の正式作戦を実施し、我が軍の連絡を果敢に攻撃遮断しているのを目撃しては、到底我慢が出来なかつたわけである。
 このことは前記の駆逐艦についても同様であり、大本営が海陸両軍の全力を傾けてガダルカナル戦を戦つているのだから、受持の仕事に不平を言うのは宜しくない。何人も不満を捨てて協力するのが当然であるが、潜水艦の場合には、目の前に正業が待つているのを放擲し、強いて副業に没頭させられたところに憾みがあつた。
 正業とは即ち、米本国とガダルカナル島の連絡を遮断することであつた。或は濠洲と「ガ島」の交通線を攻撃することであつた。アメリカがこの一島に三個師以上を駐兵し、数百機を常備してこれを維持するための補給は実に容易の業ではなかつたのだ。それは日本がブーゲンビルからガ島に補給するよりも、遥かに大量にして且つ遠距離という不利があり、これを不断に攻撃されたら由々しい事態に追い込まれるのであつた。而してかかる攻撃こそ、我が潜水艦が全力を注ぐべき誂え向きの作戦だつたのである。
 現にガ島西岸を遊弋中の三隻中の一隻が敵空母ワスプ号を雷撃轟沈させたこと前述の通りで、この種作戦の自由を与えれば、日本の潜水艦は相当の戦果を期待すべき素質を持つていたのだ。潜水艦の戦果が小量であつたのは、それを利用する作戦方針を誤つた所に大きい原因がある。《注:「この種作戦」は底本のまま。》
 ガダルカナル戦だけについて見ても、当時の可動潜水艦兵力三十余隻を挙げて、島の東方及び南方海上に遮断幕を張り、輸送船団のみを狙つて補給を攻撃したならば、大なる脅威を彼れに与えたこと疑いないであろう。その想定は、昭和二十年に入つて、我が潜水艦部隊(第六艦隊)が基地協力戦闘から解放され、洋上の船舶攻撃に転向するや俄かに撃沈戦果を増大した一事によつて明証されるのである。
 翻つてガ島戦の大局から眺め、陸上守備軍を病餓死させない緊急目的のためには、作戦の理想なぞは考えるいとまもなく、不合理不自然とは万々承知しながら、海軍力を食糧輸送に注ぎ込まねばならなかつたという弁解は成立するであろう。
 後述の機会もあるが、世界水準を二倍以上も抜いていた強力なる「酸素魚雷」を抱いたまま、同僚の駆逐艦も汗みどろで輸送に従事したのだ。ひとり潜水艦のみが不満を列べる権利はあるまい――。こうなれば全面的に「作戦の敗北」という一語を以て説明する外はない。かかる不自然なる作戦を余儀なくされたこと自体が局地的敗北なのである。
 局地敗戦も長く続けば全面の敗戦と化する。そこで昭和十七年の大晦日、厄払いの気持で作戦打切り論が全幕僚の間に漲り、一月四日の年始協定に於て撤退と決まつた。大本営はこれを「転進」と発表した。「戦略的退却」という兵語を用いて大学生に講義をした私(当時慶応義塾大学で国防論の講座を担当していた)は後で憲兵隊から注意を受けた。軍はこの戦闘では神経を針のようにしていた。「転進」という言葉はある。しかし、日本は北の方角にある。その北に向つて進むのは後ろ向きに進むことだ。こんな言葉は、地図を知る人は悉く納得しなかつたに相違ない。
 ガダルカナル撤退は十八年二月中旬を以て完了し、海軍も陸軍も、六ヵ月の悪戦苦闘から解放された。ところが「解放」は僅か一夜の夢でしかなかつた。敵は反攻の歩を休止せず、一層の戦意を以て群島を飛石伝いに北進し、そこで日本の血を吸い取る有名な「ソロモン消耗戦」――むしろ「ソロモン吸血戦」を現出するのである。

    七 驚くべき航空消耗戦
        ソロモンで進みすぎた罪

 ソロモン消耗戦とは昭和十七年八月の敵のガ島上陸から、十九年二月のラバウル放棄までの、一ヵ年半に亙る戦闘をいう。これを二期に分ち、ガ島撤退までの六ヵ月を第一期、それからラバウルの空軍引揚げまでの一ヵ年を第二期とすれば、出血消耗の大きい部分は、むしろ第二期の航空戦にあつた。
 ガ島戦闘の六ヵ月間に失つた飛行機は八九三機、搭乗員二、三六二名であつたが、第二期には飛行機の損耗実に六、二〇三機、搭乗員四、八二四名という大犠牲である。その航空機損失合計七、〇九六機ということは、開戦時に海軍が誇り持つた総数二、一七二機の三倍以上に当るのだから痛手の程を察するに足りるであろう。工場は深夜作業を続けて飛行機の生産に集中したが、到底損失を補うことは出来なかつた。また仮りに大半補い得たとしても、乗る人がなければ無力だ。その意味でも、七千余人の搭乗員を失つたのは償い難い大損であつた。真珠湾戦を戦い、更に印度洋、ミッドウェーで生き抜いた百戦錬磨の勇士は、殆どこの期間に群島上空の華と散つたのである。参考のため、一年半の機種別損失数を掲げておこう。
  種別     喪失数   搭乗員戦死数
 戦闘機    三、二六四   一、五八一
 艦爆、艦攻  一、一一九   一、二九二
 陸爆、陸攻  一、〇八七   三、一一五
 水偵、水戦    五五七     五六八
 飛行艇       二三     三八五
 その他      九五六     二四五
 合計     七、〇九六   七、一八六
 日本の航空戦力を枯渇させる目的を以て、アメリカがソロモン戦を企図したものではない。偶然の結果が、アメリカをして一石二鳥の戦果を得せしめることになつたのだ。アメリカの戦略目標は、単純に失地回復と日本本土反攻のための北進であつた。そうしてその飛石作戦の定石を、欧洲の戦場で行つた通りに実施したに過ぎない。即ち目的地点に先ず空襲を反復する。それから艦砲射撃を指向し、敵の抵抗力を相当に砕いてから上陸する。占領と同時に飛行場を急設する。そこから制空圏を拡げて次の島を占領するという順序だ。判り切つているのだが、何分にも航空兵力が強大であり、海兵隊も強勇であり、力で押しまくる。終戦時の米海軍の飛行機実動数は実に四〇、八九三機というのだからケタが違う。空母も改装を加えて一時は六十隻に上つたのだから、日本の海軍は空の上から圧倒されたわけである。日本もソロモンで随分戦つた。が、一〇〇対三〇が戦い、第一日に双方が等しく三〇機を失えば、翌日の戦いは七〇対零になるという小学生算術の明確さを以て空中戦を挑んで来たのだ。
 日本は生産する傍らから使うという貧乏人の消費を続け、遂に間に合わないで、空母の艦上機を二回に亙つて転用した。高利賃に借りる以上の大出血であつた。母艦発着の可能なる搭乗員を、徒らにジャングルの中に失つたことは、泣いても泣ききれない損耗であつた。アメリカは、進攻と日本の空中出血とを併せ得て一挙両得の勝を挙げた。やがて我が軍部は敵の「物量」には敵わないと弁明した。「物量」で敵わないことは、戦争の前から中学生が知つていた。
 これを要するに我が軍は実力不相応に進み過ぎたのだ。これを戦略用語で「攻勢終末点を超越する」と言う。思い起す、昭和十七年五月、筆者は中部日本新聞紙上に、数回に亙つて「攻勢終末点」と題する論文を書いたことがある。遠回しに南方進撃を戒しめたものである。名古屋駅でその新聞を買つた大阪の或る有力な実業家が、「自分の心配が理論的に証明されているので同感を禁じ得ない。前後を読みたいから月極読者になりたい」と申込んで来た。私はその実業家のレジスタンスを知つて直ぐに他の二、三の切り抜きを送つたことを想起する。間もなく陸軍の知人から、この種の議論は余りハッキリ書くとうるさいから適当に、と忠告して来た(たしか谷萩大佐――後に中将――であつたと思う)。
 攻勢終末点は、進攻軍が或る線を超えると戦勢が減衰し、その反対に退却軍が勢いを得て攻守その所を代える線の、一歩手前に存在する。思うに侵入作戦が成功して攻進を続けると、後方補給線の距離は段々と延び、弾薬糧食の供給も困難になると共に、機械の燃料補給も困難を増す。加うるに、地勢に慣れず、敵地なら住民の非協力も災いし、その上に軍は不知不識の裡に疲労して、自然と戦力を減ずる。而してその反対の有利が防禦軍に恵まれて来る。そこで逆襲を受けて、今まで華々しく進撃した攻勢軍が、退却の敗勢に陥る危険が潜むのである。
 故に如何に優勢なる攻撃軍でも、或る地点で一旦停止し、休養後陣容と後方線を整備して第二次攻勢を計画する必要がある。その理想的停止線を「攻勢終末点」と定義するのである。

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