八 攻勢終末点の超越
最高統帥部の責任に帰す
言うは易くして行うの最も難いものの一つは、攻勢終末点の発見であり、また、これを発見して直ちに実行に移すことだ。何処の国でもそうだが、勝に乗つた前線の武将は、逃げる敵を追つて停止しないものだ。大本営も亦、武将を制止することが困難で、ツイ行詰つて後に制する場合が多い。けだし「攻勢終末点」は凡眼には見えない。名統帥の心眼を以て発見する外はないからである。
近代戦の戦例は、第一次大戦緒戦に於ける「マルヌ会戦」でドイツ総軍が攻勢終末点を超越し、ジョッフル将軍の仏軍に反撃されて総退却を余儀なくされ、短期決戦の望みを失い、四ヵ年の長期戦に陥つて遂に敗北した史実である。当時世界最強を以て自他共に任じたドイツ総軍の右翼三軍は、二十二日間連続進軍し、その間十六戦闘を交えて九月五日マルヌ河に達したが、本来ならその数日前の八月末に、エーヌ河の北方に停止して戦力を回復すべきであつた――そこに攻勢終末点があつた、というのがドイツ公刊戦史の批判であつた。当時ドイツ大本営の眼は「攻勢終末点」を見失つたが、それでも九月に入つてそれに気が附き、六日「第一軍はマルヌ河とエーヌ河の中間に停止すべし」と命令した。ところが第一軍司令官クルック大将は、命令を無視し、退却中の仏第五軍と英軍とを追撃してマルヌ河を遥かに超えてしまつた。そうして、その力の伸びきつた所を仏軍に逆襲されて、いわゆる二百万大軍のマルヌ会戦を生起し、激闘五昼夜の後に退却を余儀なくされ、遂に唯だ一回の早期決戦の好機会を永久に失い去つたのであつた。
序でに二、三の例を第二次大戦に求めると、一九四〇年ムソリーニのイタリア軍が、エジプト国境を越えて、マルサ・マルートに進出したのは攻勢終末点を超越したもので、英将ウェーベルの反撃に遁走した。今度はウェーベルが追撃七百キロに及んで終末点を超え(ベンガジ附近)、逆に独将ロメル元帥に反撃されて敗退した。ところがロメル元帥がまた長駆進撃してトブルク周辺で攻勢終末点に乗り上げ、遂に雄図空しく引返したのであつた。また独ソ戦争に於ける「攻勢終末点超越」の失敗は、両軍とも再三これを経験して拙戦を演じたが、ここでは詳述の紙幅がない。
だから第一終末点を発見し、第二次攻勢を再興する準備の見識――その間を作戦間隔という――が名将の第一素質とされるのである。この「作戦間隔」はむずかしい。自分の都合だけで決めるわけにも行かない。準備中に敵の反攻があれば間隔は潰れてしまう。が、大体自分の実力を見定めて進撃し、作戦間隔を予定して大きい終末点を心に描くものだ。日露戦争では、得利寺から遼陽、沙河、奉天と各二ヵ月の間隔を置いて兵力を整備した。そうして奉天に攻勢終末点を予定し、それから先きは攻勢防禦を戦略としながら、専ら戦争そのものの終結に向つて動いた。
ところが太平洋戦争では、前々回にも述べたように、アメリカは日本の「作戦間隔」を許さなかつた。ガ島撤退で一息入れようとしたその間隔を与えないで攻勢を継続し且つ強化した。また、日本はソロモン戦の後半から、一ヵ年の作戦間隔を求めて航空力の回復を企図したが、その整備の未だ半分も出来ない間にマリアナ諸島(サイパン中心)に進撃して吾れの不準備を撃つた。彼れの作戦間隔は甚だ短かく、その終末点は遠かつた。
思うに攻勢終末点は、その国の兵力量、補給量及びその速度によつて一定しない。アメリカの如きは最も遠いところに終末点を有したのに反し、日本は本来これを短距離に想定するのが本筋であつた。南進は余儀ない所ではあつた。石油が無くては戦争が出来ないからだ。しかるにその石油を日本に運ぶ輸送力が(他の物資を含めて)、昭和十六年十二月の計算に於て既に不十分であり、不足の分は捕獲で補う肚で開戦した。だから緒戦に艦隊が印度洋その他で敵の船舶を沈める毎に、軍令部は「撃沈は不可、捕獲せよ」とやかましく命令を出している。こう考えると、日本は初めから「攻勢終末点」を無視した戦争を開始したとも言えるのである。が開始した以上は最善を尽す外はない。即ち戦闘区域について先ず早く攻勢終末点を見極め、油田地帯の確保と、その交通線の保障とを最大限の戦場として早く兵を集め、進軍を停止して再考すべきであつた。遠方に敵を追うことは、凡眼には安全に見えて、実は延び過ぎた間隙の危機が随所に発生するからだ。
ラバウルさえも既に攻勢終末点の疑問の線上にあつた。島と港湾の関係は陸上とは違うから多少の超越は己むを得ない。然らば即ち初めからソロモン群島は北端ラバウルを制するに止め、ガダルカナル島以北の諸島は戦場の外に達観するだけの「心眼」が必要であつた。が、かかる見識と真勇とを日本の大本営に求めるのは無理であつたろう。しかし前線の提督や将軍には権限外のことだから、やはりソロモン消耗戦の戦略敗北の責任は、これを最高統帥の不明に帰する外はあるまい。
九 艦隊決戦のない戦争
対日反攻戦と敵陣の分裂
以上で昭和十七年八月から十九年二月に至る日米戦争が、ガダルカナル島以下のソロモン群島に集結された戦況は一応明らかになつた。その間正に一ヵ年半。そうして太平洋がガラ空きとなり(註)、決戦場が遠い南の島々に移された如く見えた。そうして、艦隊主力の洋上決戦という海戦の定石は打たれずに終るのではないかと怪しまれた。
註。米軍がマーシャル群島のクェゼリン島に我が飛行場のあるのを知つたのは昭和十八年十二月であつた。
我が国に於ても、艦隊の行動は知らされなかつた如く、アメリカに於ても同様であり、両海軍の主力が何時かは決戦するであろうという想像以外には、何も知らずに過ぎて行つた。が、アメリカの対日反攻の一歩がツラギ及びガダルカナルに踏まれてからは、海戦の方式が、上陸戦と、それを支援する各種の戦闘に変化し、大艦隊が正面から堂々と相討つ方式は影を没してしまつた。
事実、アメリカの最高戦争指導も、昭和十八年に於ては、「東京を占領する道」を徐々に進めることに決定し、七月二日の統合参謀本部会議に於て「ウォッチタワー作戦」なるものが採択された。これによると
(イ)ツラギ島及び接触要点の占領。開始予定日八月一日。指揮責任ニミッツ提督。
(ロ)ソロモン群島の残余及びサモアの占領。指揮責任マックアーサー大将。
と定められ、同じ海域と群島の攻略作戦が海陸両軍に分属する奇観を呈していた。例えばツラギ、ガダルカナルは海軍、ブーゲンビル、ラバウルは陸軍という分担で、互いに激しい勢力争いを反覆しながら日本と戦つていたのだ。だから、ガ島及びソロモン戦では日本がその不和の虚を衝いて勝つべき機会は確かにあつたようだ。前述アンダーソン陸軍少将の述懐に「日本軍が第二次攻撃に当り、第三次攻撃分だけの兵力――一個師半――を投入していたらアメリカ軍は敗退していた」というのは事実なのである。日本では、中央に於ては陸海軍の対立反目が実在したが、戦地に於ては協力が発揮され、マレー作戦に於ける山下奉文と小沢治三郎の協調一致の如く、ガ島作戦に於ても出先の将兵は好く助け合つた。アメリカ軍は遠征の先きでも相譲らなかつた。著例の一つを挙げれば、ガ島に対する日本の反撃が意外に強烈であり、アメリカの守備が甚だ不安に陥つたので、九月四日ヌメアに於て海陸軍首脳の緊急対策会議が開かれ、太平洋艦隊長官ニミッツ、空軍参謀総長アーノルド、南太平洋艦隊司令官ゴムリー、極東陸軍参謀長サザーランド、海兵隊指揮官ターナー等が出席したのに反し、マックアーサー大将は出席を拒絶し、更にニミッツ提督から陸兵一万の増援を希望したのに対し、ニューギニア戦多端の故を以て蹴つてしまつた(マ大将の麾下には当時五万五千の兵があつた)。暫らくして、今度はマックアーサー将軍からニミッツ提督に対し、ソロモン北進の必要上、海兵一個師、空母二隻を含む艦隊、大型爆撃機一大隊の援助を申入れたのに対し、ニミッツは、ガ島戦多端の故を以て即座に拒絶した。
海陸両首脳の反目尖鋭化してガ島の戦況漸く非なるに鑑み、十月二十四日、ルーズベルト大統領は、合衆国陸海空軍総司令長官の名に於て統合参謀本部宛て緊急命令を発し「ガ島に増援を送るべし。即刻これを行うべし」と断じ、漸く両軍の一時的協調を取戻したのであつた。日本としては誠に惜しい機会を逸した。我が陸軍が米軍を見くびらず、強兵と戦う準備を以て反撃していたら、ガ島、ツラギを奪還し、併せてアメリカ海陸軍の対立抗争を発火爆発させ戦局に大きい光明を導いたこと疑いないであろう。
二人は争うべき宿命の軍人であつた。後に「東京進軍路線」のことで更に大いに争うのであるが、しかしながら、対日戦争に兵力を増強せねばならないという点では一致していた。これは両人の一致というよりも、連合諸国に対してアメリカの太平洋戦争の困難性を認識させようとする米国統合参謀本部の一致した意見であつた。
当時(一九四三年初頭)、連合諸国は「欧洲第一主義」を確認し、太平洋を第二戦線と称していたが、その兵力使用の割合は、欧洲に八五%、太平洋方面には一五%しか割当てていなかつた。アメリカはこれを不満とし、少なくとも三〇%を割当て、日本に対する圧力を倍加し、ドイツの降伏時には日本も著るしく衰弱して一挙に降伏させ得るような状態におくことを要望していた。
一九四三年一月十四日乃至二十五日の「カサブランカ会議」――米英仏首相及び各軍参謀長の会合――における米国の主張はこの点にあつた。席上ル大統領は「船舶の消耗によつて日本を屈伏させるのが最も経済的な戦法と思うから、潜水艦戦を第一に活用すべく、また支那を基地として爆撃を増大する必要がある」旨を提議して注目を惹いたが(註。一つの立派な着眼であつた)、マーシャル、キングの両首脳は、『太平洋に於て主導性を確保する兵力」を希望力説した。いずれにせよ艦隊決戦の構想は何処にもない。
十 東京進攻の二つの道
艦隊決戦遂に東方に起る
我が軍がガダルカナルを撤退した後も、日米艦隊決戦によつて海上権を制し、日本の補給路を切断すると共に、勝利を断念させる作戦構想は遂に聞かれなかつた。昭和十八年五月十二日からワシントンで開かれたルーズベルト・チャーチル会談(共に三軍参謀長帯同)に於ても、また、八月十九日から開かれたケベック会談に於ても、対日作戦は本土上陸戦のみを中心に繰り返され、結局、「東京への路」を次の二本建に決定した。
(A)マーシャル群島~トラック島~マリアナ群島~硫黄島~日本。
(B)ニューギニア~ミンダナオ~ルソン~台湾~沖縄~日本。
この二つの進撃路をめぐつて、ニミッツ提督(A担当)とマックアーサー将軍(B担当)の間に激しい抗争が再発するのであるが、いずれも機動艦隊を推進力として島伝いに攻め上る作戦思想は変らなかつた。同年十二月三日の「カイロ会談」に於ては前記の進攻二線方針を確認すると同時に、一九四四年(昭和十九年)中の対日作戦構想を次のように決定した。
一、作戦の主眼は日本に無条件降伏を強いるための攻撃基地を獲得することである。
一、機会あれば日本の艦隊を撃滅し、潜水艦と空軍とを以て日本を封鎖する。
一、比島経由の進攻戦は内南洋攻略戦と併行して推進される(前記AとB)。
一、日本本土に戦略爆撃を行うため、サイパン、グアム、テニアン諸島にB29用の基地を建設する。
ここで注意すべきは、合衆国艦隊長官キング提督が、アメリカ海軍の勢力が着々増強された結果として、昭和二十年春以前に、日本艦隊を撃破し得る確信を有する旨を公言したことだ。常にホラを吹いたことのない提督の確言は、三軍の各指揮官に強い印象を与えた。
昭和十八年十二月二十八日、アメリカの統合参謀本部は、ニミッツ、マックアーサーの両指揮官に対し、ABの各進攻作戦を至急開始するよう指令した。マックアーサー大将はもともとこの二線方式に不満であつた。東京への道は自分の方が大通りであり、他は裏通りであるべきだという信念を持つていたので、一月中旬、参謀長サザーランド少将を華府に特派して意見を具申させた。するとニミッツ提督も黙つていない。直ぐに参謀長シャーマン少将を華府に送つて反駁するという騒ぎが起つた(当時の兵力はマックアーサー大将が米陸軍四個師、濠洲軍六個師。ニミッツ提督が米陸軍二個師、海兵六個師)。
そこで華府本部では、ウィルソン(海)、エンピック(陸)、フェーアチャイルド(空)の三代表が裁定に起ち、(A)からトラックを除き、(B)からミンダナオを除き、可及的人命の犠牲を少なくして、目的を遂げるよう勧告し、結論としてサイパン島の重要性を強調した。しかし、マ大将とニ提督の反目は益々増大するばかりなので、ル大統領は七月二十七、八の両日、両指揮官をハワイのワイキキ王宮に招致し、三者会談によつて漸く仲直りをさせたのであつた(この会談によつて、ニミッツは空母部隊をマックアーサーに増援すること、マ大将は台湾を跳ね越えて進撃することが決定した)。
以上の記録は、日本がガ島戦からソロモン戦に至る一ヵ年半の間に至る米軍作戦決定の経緯であつて、その裏面には陸海の両指揮官が絶えず頑強に自説を主張して来た史実を見るのである。日本の方では、ソロモン戦が海空軍によつて戦われ、その飛行機喪失が七千という巨大なる数字を示し、国の全力を挙げて海軍機の補充生産に集中すべき所を、陸軍が「俺も半分取る」と言つて航空機材を祈半してしまつた。陸軍の方はソロモン戦で飛行機を消耗していないのだから、この際は全力を海軍に割当するのが当然であつた。
が、往年、陸相田中義一が、八八艦隊の建造を急いでいた海相加藤友三郎に同調し、陸軍の拡張費を割いて海軍の方に回したような「高所からの理解と協調」は、東條陸相の下では薬にしたくも得られなかつた。東條以下陸軍首脳に対する海軍の反感は沸騰点に近く、また嶋田海相の弱腰を責める声は省内の隅々にまで流れる有様であつた。アメリカでは中央が和して出先が争つた。日本では出先に協調があつたが、中央では反目を繰り返した。
かかる間に、米軍はニミッツ提督の予定通りの進攻が、ギルバート、マーシャルの諸島に指向され、同時にマックアーサー軍のニューギニア進攻が開始され、日本は「いずれが反攻主正面か」に迷うと共に、ソロモン戦を打切り、外郭防衛線を捨てて、内南洋~比島の内側防備線に退かざるを得なくなつたのである。この「やむなき後退」が防備を応急粗略なものにしたのであつて、初めからこの線に生命を托する計画であつたならば、もつと華々しい戦闘が見られたであろう。後述の海上決戦(マリアナ海戦)も形を異にして生起したであろう。
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