第六章 マリアナ海戦

    一 第一機動艦隊への期待
        二人の司令長官の戦歿後に

 日米両海軍が洋上に艦隊決戦を交える機会は、日本が焦りを持つた時期よりも二ヵ年遅れて到来した。その間にソロモン消耗戦を強いられたので、今度は決戦期を昭和二十年春まで待ちたかつた。いわゆる「作戦間隔」を設けて陣容(航空戦力)を再建しようと欲した。ところがアメリカはそれを許さなかつた。彼れはサイパン攻略を一年以上も前から決めていた(昭和十八年十二月)。かくて決戦は、アメリカが選ぶ時機と場所とにおいて生起した。
 その二ヵ年の間に、幾つかの不幸が重なつた中に、連合艦隊司令長官を二人まで失つたことは、世界戦史に未曽有の惨事であつた。第一次長官山本五十六大将は、ソロモン消耗戦を苦闘している将兵を鼓舞する目的でブーゲンビル島に飛んだ。十八年四月十八日、宇垣参謀長以下二機に分乗、目的地に到着する十五分前、待伏せていた米軍戦闘機二十機に襲撃されて(我が護衛戦闘機は六機)たちまち撃墜されて戦死したのである。元帥の行動を基地に予報した暗号電報が米軍に解読された結果であり、全軍の士気に大きい影響を与えずにはおかなかつた。
 代つて古賀峯一大将が長官を継ぎ、守勢作戦の困難に処してよく海軍の士気を復興し、マーシャル群島の線に全軍を率いて二回までも出撃したが、敵の避退によつて機を得ない間に、敵の航空戦力を利用する基地漸進の作戦は月毎に歩を進めた。そこで古賀長官は、邀撃決戦線をマリアナ列島~西カロリン群島~比島~濠北の内線に後退し、地理的有利の條件を活用して最後の大決戦を企図し、自ら陣頭に立つて直接の指揮を執る決心を固めた。
 時しも三月二十七日(十九年)、海軍索敵機はニューギニア北端に敵の機動部隊西進中なるを報じ、一方に大本営情報は敵の大輸送船団が同海上を北進中であると報じた。そこで古賀長官は福留参謀長以下全幕僚と二機の大型飛行艇に分乗し、パラオ根拠地から新しい指揮地ダバオに飛ぶ途中、大低気圧に遭遇して墜落殉死したのである。山本長官の場合も二番機の宇垣参謀長は助かり(重傷は受けたが)、この場合も二番機の福留参謀長は助かり、第一番機の長官が二人とも戦死したのは、何ものかの不吉を暗示する如くであつた。
 古賀長官は、戦局の大勢から判断して艦隊決戦の時期は遠くないと信じ、新たに(1)機動艦隊を主力とする新編成を断行し、(2)これと協力する基地航空隊を、内南洋のテニアン島中心に大拡張し、(3)連合艦隊司令部をサイパン島に転進してこれを死守する方針を決定した(三月一日指示)。だからもし古賀長官が、大本営の誤報(大船団北進中との)に誤まられて南方に飛行、殉職をしなかつたら、サイパン島が嬰児の手をねじるように奪取されるような惨事は絶対に起らなかつたはずである。どうも、その頃から不運続きであり、戦争の神は日本を見捨てていたという回想の念を深くするのである。
 長官の戦死に乗じたわけでもないが、四月から敵の反攻は急ピッチで迫り、一日トラック再空襲、三日ホーランジヤ空襲、二十七日同地占領、五月一日トラック第三次空襲、二十七日要衝ビアク島上陸といつた勢いである。そうして敵の攻撃主方面が濠北または比島にあるか(ビアク上陸により)、或は内南洋サイパン方面にあるか(トラック空襲、あるいは中間のパラオにあるか、真意を捕捉し得ない所に敵の戦略が潜み、随つて我が用兵上の苦心が偲ばれた。
 が、日本はその何れにも備えねばならない。決戦は近づいているのだ。そこで五月二日、「あ」号作戦が決定内示された。「全兵力を挙げて敵の反攻主正面に備え、一挙に敵艦隊を覆滅してその反攻企図を挫折せしむ」と謳つたものである。要は日米海軍の全力衝突を予想し、海軍としてはこれを「最後の一戦」と信じ、また、当時の潜勢力を完全に動員して「必勝」を期したものである。ミッドウェー作戦とは全然異なる慎重さと準備とを以て臨み、これで万一敗れたら戦運無きものと諦めるまでの用意と決心が現われていた。
 最も重要なる準備の第一は、既に前長官古賀大将によつて創設された「第一機動艦隊」であり、その艦隊はボルネオの北方タウィタウィに集結して戦機の至るを待つていた。その特徴は空母を主力とし、戦艦を護衛の地位におき、飛行機を主戦兵器として洋上決戦を行う構想を具体化したもので、山本長官時代とは趣を一変した。新編制は次の通りであつた。
 第一機動艦隊(長官小沢治三郎中将)
 第三艦隊(小沢長官直率)
  第一航空戦隊:大鳳、瑞鶴、翔鶴。
  第二航空戦隊:隼鷹、飛鷹、龍鳳。
  第三航空戦隊:千歳、千代田、瑞鳳。
  第十水雷戦隊:矢矧、駆逐艦一五隻。
 第二艦隊(長官栗田健男中将)
  第一戦隊:大和、武蔵、長門。
  第三戦隊:金剛、榛名。
  第四戦隊:愛宕、高雄、摩耶、鳥海。
  第五戦隊:妙高、羽黒。
  第七戦隊:熊野、鈴谷、利根、筑摩。
  第二水雷戦隊:能代、駆逐艦一四隻。
「あ」号作戦は即ち海軍当時の総力を挙げて戦われようとするのである。而してこれが、水上部隊主力と空母部隊主力と一隊となつて同一戦場で戦う、最初にしてまた最後の一戦となるのである。

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    二 決戦用の基地空軍
        マリアナ出撃僅か二割

 敵の反攻いよいよ急にして一番勝負の海上決戦が遠からず起ることを予想し、一方に小沢機動艦隊を編成した外に、もう一つ重要なる作戦準備を急施した。それは大規模な基地航空部隊であつた。前にも触れておいたテニアン島(サイパンの南二〇浬)を本據とする基地空軍(名称は第一航空艦隊)であつて、それを大本営直轄とし、長官に空軍専門家の角田覚治中将を任命し、飛行機兵力実に一、六四四機。それをテニアン、グァム、サイパン、ロタ、硫黄島、ヤップ、パラオの各飛行場に配置したのである。すなわち敵の内南洋上陸作戦を陸上の基地から叩くと共に、小沢中将の機動艦隊(飛行機四四五)を有力に支援するのみか、場合によつては、空母の航空兵力よりも優勢なる決戦力を発揮する期待を掛けられたのであつた。
 もし注文通りに行つたら、マリアナ海戦は大勝し、サイパン上陸の米軍も撃滅し得た筈であつたが、不幸にして計画は幾多の理由によつて齟齬を来し、一、六四四機の兵力が僅か二〇%しか動かず、それも敵の奇襲に征圧されて殆ど無為に終るという惨状を呈したのであつた(局部的には多少の手柄を示したが)。主たる理由は、搭乗員に未熟者が多かつたというのだが、果して「搭乗員」だけに責任を負わせて済まし得るものであつたか。
 訓練の時と機会とを与えなければ、搭乗員は何時までも未熟のはずである。それは空母機の場合にも同様にいい得ることであつたが、要するに「未熟」のまま戦線に投入されたのが事実である。彼らは時も機会も与えられなかつたのである。罪は毛頭彼らの上になく、却つて彼らを使つた軍首脳の上にあつたろう。
 遡つて、ミッドウェー戦の不用意で歴戦の搭乗員多数を失い、ソロモンの消耗戦で更にその損害を累加した海軍は、素より補充と拡張とに精魂を傾けた。しかし、第一に「時」が待たなかつた。大本営は、前記の「基地航空部隊」を完成するのに約一ヵ年を予定した。迫り来る戦勢の下で悠々長談義の感じであつたが、当時栄養失調中の日本の実力では或はこの辺が実際の見通しであつたかも知れない。機と人とを揃えて戦力化するのは素より容易な業ではないからである。
 もともとこの着想は、十八年七月、ソロモン消耗戦の末期に発したが、思うように進捗せず、十九年に入つてから漸く曙光を見始めた。戦闘機は有名な零式戦闘機(ゼロ・ファイターと呼んで米軍に恐れられた)よりも一倍強力となり(五二型零戦、紫電、雷電等)、爆撃機には「彗星」、雷撃機には「天山」が、超米英の性能を誇つて生産に着手された。もし熟練の兵を以てこれらを駆使するを得れば、米軍恐るるに足らずと考えられた。要は生産向上と、乗員の訓練に懸つていた。ところが、連合艦隊が南方の石油地帯に常駐せざるを得なかつた如く、飛行機もまた南方に行かなければ訓練が出来なかつた。三月初め頃から空母は南方に送られた。しかるに敵の空襲や潜水艦の跳梁により、母艦は海上に出て訓練することが不可能になつてしまつた。五月に入つてからは一ヵ月以上も訓練を中止して、熟練の搭乗員が技倆を低下するという二重の損失を招いた。練習を一ヵ月休んだスポーツ選手とは較べものにならない。敵の一艦を沈めるか自分が先に墜死するかの問題である。
 それも時の余裕があれば、また工夫の道もあつたろう。然るに敵の進攻は以外に早く、少なくとも日本の期待よりも六ヵ月早く到来した。その早期到来に対応して、基地空軍は十九年二月中旬から、急遽テニアン以下の内南洋基地に進出させることとなつた。それも纏めて運ぶのではなく出来上り次第持ち出すという応急の進出を余儀なくされた。それは内南洋十二個の基地に分配されて総計一、六四四機の一大航空力を形成するはずであつたが、間もなく、戦況に促がされて比島南部から濠北方面に転出を命じられることになつた。後述する「戦場想定」の誤りに基因するのであるが、とにかく、ビアク島方面に飛び、またパラオに戻り、再びハルマヘラに転戦し、またもや急いでテニアン、サイパンに帰るという移動の連続の間に、多くの事故を起して機数を失つた。熟練搭乗員なら飛行転戦は本来得意の壇場なのであるが――。《注:「以外に」は底本のまま。》

    三 決戦場の予想を誤る
        留守中にサイパンを奪わる

 敵の「反攻主正面」は何れの地点なりや? 換言すれば主反攻に必伴する敵機動部隊を捉えて決戦を挑み得る戦場はどの方面か? 実はその確固たる判断は容易ではなかつたのだ。主導権は敵にあつたからだ。しかし邀撃作戦の準備には、出来得る限りそれを推断して誤たないことを要する。六月一日の判断は、ビアク島上陸、サイパン、テニアン、硫黄島の空襲、マーシャル群島のメジュロ基地における大艦隊の集結――偵察の名手、千早大尉が強行偵察で発見した――等の事実から見て「濠北か、サイパンか、パラオか」の何れか一つとは判つても、日本が主として備うべき重点海面は確定しない。そこで「あ」号作戦はやむなく主戦場を「中部太平洋方面より比島及び濠北方面にわたる海域において云々」と指示した。
 正直に翻訳すると「判りません」ということだ。別に解説すれば、三方面に対応し得るよう融通性のある準備をせよ、という命令だ。が、三方面平等の準備は不可能だ。第一、重点を指示しないことは、連合艦隊司令部の権威にも関するではないか。
 反攻主方面の判断推究は旗艦大淀(木更津沖)において真剣に反覆された。その結果、パラオ方面五〇%、濠北方面四〇%、サイパン一〇%という結論に達した。一〇%の絶対少数は、情報参謀、中島親孝中佐が一人で固執力説したことを指す。が、差当り重要な地点は敵が上陸したビアク島だ。ここに飛行場が出来たら、比島南部も、パラオも、B24の爆撃圏内に入つてしまう。戦場は二にして一だ。先ずビアク奪還に邁進すべし、然らばパラオも比島も救われるし、敵の機動部隊もこの争奪戦に出撃して来るであろう。
 即ち小沢空母部隊と栗田戦艦部隊とをボルネオの北端、タウィタウィに集結し(パラオ、ビアク両島に等距離)、さらに艦隊の一部と、基地空軍四八〇機をテニアン方面から招致して、ハルマヘラ(この島もパラオ、ビアクへ等距離)に前進せしめ、ビアク奪還戦を試みることになつた。「渾作戦」と呼ばれるもので、六月三日発動、十三日中止、その間二回の出撃共に失敗に帰した作戦である。アメリカは大きい舌を出して笑つていたであろう。
 かく日本海軍主力がビアク島に「渾作戦」を指向している最中、米軍の機動部隊主力は、お留守に失敬とばかり、六月十一日悠々とグアム島の東一七〇浬に現われ、サイパン、テニアン、グアム、ロタの四基地に同時空襲を加え、翌十二日、さらに猛烈なる空襲を加え、我が基地空軍に甚大なる打撃を与えた。統計不詳であるが、損害は五〇〇機を下らないと推定される。角田基地空軍の不振が、我が「戦場の誤断」と不可分の関係があると書いたのはこれである。ここに至つて、ただ一人中島中佐説のみが正鵠を射たのである。
 明くれば六月十三日、今度は猛烈なる艦砲射撃がサイパンに加えられるに至つて、同島上陸の意図は確実となつた。直ちに小沢艦隊に北進を電命すれども道正に三千浬。同時にテニアンの基地空軍に急動員を下せども、前二日の大空襲に撃たれて実動寥々の姿だ。今はただ、サイパンの守備軍が頑強なる抵抗を示して、小沢艦隊の参戦と、基地空軍の再転進とに十分の時間を与えることのみであつた。
 ところが我が生命線の北端サイパン(後にB29の基地)は七時間の艦砲射撃に第一防備線を射掃され、易々と上陸を許し、決死の抵抗も効なく、僅か二週間にして完全に占領されてしまつた。今はその薄弱なる抵抗の罪を陸海軍が塗り合つても致し方がない。「防備は参謀総長として東條が太鼓判を押す」といつた陸軍にも罪があれば、主戦場をパラオ、ビアクに予想して、敵艦隊の自由なる砲撃をサイパンに許した海軍も無罪ではない。しかし、何といつても陸軍が施したサイパン島の防禦工事は御粗末なものであつた。余程堅牢なものでも艦砲射撃を喰えば堪らないのだから、土堤や材木の防備は問題にならない。それを「敵がサイパンに来れば我が思う壷だ」と揚言した陸軍参謀があつたことを思えば、陸軍が米陸軍を依然として甘く見ていたことは争えない。今更、責任を細かく言うのは止めよう。
 いな、それよりも、サイパン攻略は、一九四三年一月、カサブランカ会議(米英連合参謀長会談)で示唆され、同年八月ケべック会談で決定、同年十月二十五日、米国統合参謀本部で攻略予定を翌年(一九四四年)七月と定め、B29爆撃機基地竣工を十月一日と予定した幾多の事実に対し、我が大本営が全然盲聾であつたことも、悲しむべき回顧の一つである。いずれにしても、米軍は一年半前に決めた攻略路線を略ぼスケジュールの通りに攻め上つて来たのだ。

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