四 敵の物量を討つ
        アウトレンジの戦法

 艦隊決戦にさえ勝てば、サイパンは一時失うもこれを奪還するのは茶飯事である。のみならず、日米戦争の大局に一道の光を投ずるであろう。小沢艦隊はギマラスに於て徹宵重油を積むこと一〇、八〇〇トン、その上に給油船七隻を伴つて北進し、途中、「渾作戦」出動中の武蔵、大和等を合同し、敵潜二回の接触を排して、六月十八日午後三時、サイパン島の西方五〇〇浬に達した。燃料不足のために作戦を制約されていた艦隊として、また、サイパンを戦場第三候補と決めていた海軍として、ともかくも一つの成功である。
 小沢は直ちに偵察機を広海域に発進したが、それはミッドウェーの南雲艦隊と異なり、三段索敵の慎重を期した。機数も水上偵察機一六、艦攻一三、艦爆一三という四十二機を放つたのである。その結果、アメリカ海軍は殆どその全力を集結していることが報告された。即ち、
 第一群 正式空母二、戦艦以下一五隻。
 第二群 正式空母三、軍艦二〇隻以上。
 第三群 正式空母二、軍艦一六隻。
 第四群 空母四、各種軍艦三〇隻以上。
 (註。第四群は基地空軍が南方に発見)
 これを綜合すると、大型正式空母七隻の外に、必ずこれに伴う軽空母が八隻以上、護衛空母も十隻以上あり、其の他の軍艦は八十隻に及ぶ厖大なる艦隊であることが判明した。事実は、正式空母七、軽空母八、護衛空母一四、戦艦一四、重巡一〇、軽巡一一、防空巡四、駆逐八六、合計百五十四隻の大兵力で、アメリカはその全力を一海域に集結し、茲に日米海軍の決戦を企図したものである。
 我が索敵機が発見したのはその第一線兵力であり、残り三分の一は更に一〇〇浬の後方海上に予備として控置され、両軍傷ついた後の第二次会戦に新手を投入して日本艦隊を撃滅しようと意図したものと思われる。その物量まことに恐るべく、戦争が三年の長期となれば、生産力の懸隔は当然にかくの如き兵力差を生むことが予想された通りである。三対一という兵量の相違だ。
 その物量を駆使して吾れを圧倒しようとする。そしてそれは正に「米国製ミッドウェ一作戦」と称すべきものであつた。要衝サイパンを占領し、そこに日本の艦隊を誘い出して撃滅しようとする作戦であり、我がミッドウェ一作戦のような油断がなければ、勝利の公算は数学的にアメリカの側にあろう。他の作戦にも見られたように、日本が米国に教えた戦術は幾つもある。アメリカはその学びとつた着想に機械力の磨きをかけて完璧なものに仕上げ、物量に依つて再保険を附し、機の熱するを待つて日本に迫るのであつた。
 サイパン作戦(マリアナ海戦)は、即ちミッドウェ一作戦を裏返したものであり、そうして「裏」の方が遥かに丈夫で破れない布地を織り出した。大小空母の数は、日本の九隻に対する十五隻、艦上機の数は日本の四三〇機(実動三八〇)に対して一、四九六機の多きを算した(護衛空母を加えると九対廿九となる)。日本には勝算があつたのか。例えば四十何貫の力士に対して二十貫の小力士が優勝を争う場合、叩き込むか、食い下がるか、何かの手が残されていたのか。

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 驚くべし、小沢中将は勝算を信じて静かなること林の如くであつた。願くは数少なき我が空母は一隻も損せずに、敵空母――特に正式空母――の大半を屠つて全勝を挙げようと意図した。胆斗の如く、戦意火の如く、しかも謀は密なるものがあつた。縦深配備によるアウトレンジの戦法是れである。
 思うに同一距離からの相討ちでは、彼我の損害同率なるを公式とする(他の條件相等しければ)。それでは全勝は愚か、漸減して最後に負けてしまう。唯だ一つの手は、敵の手の届かない所から吾れが斬るしかない。而してそれには吾が方が一足先に敵を発見することだ。この二條件が成立すれば「完勝」は夢ではない。
 幸いにも我が「五二型戦闘機」と、「彗星」、「天山」の爆撃及び雷撃機は戦闘距離を四〇〇浬に延伸することに成功した。而してアメリカの各飛行機はグラマン戦闘機の往復行程二二〇乃至二八〇浬を限度と推定された。そこで攻撃第一波を、第一航戦の距離三八〇浬から発進して先制の痛撃を与え、その敵の混乱後に二〇〇~二五〇浬の相討ち(攻撃第二波)を挑むという戦法であつた(一三九頁挿図参照)。

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    五 祝盃用意の出撃!
        攻撃音信未着の疑雲

 飛将大林少将(第三航空戦隊司令官)は、十八日午後三時半、敵空母三群の発見を聞くや即時攻撃を力説し、逸早く、空母千代田の艦上機に準備を下命し、数機は既に飛び立つた。ところが小沢長官は静かにこれを制し、十九日早朝を期して全力決戦を敢行する意図を明らかにした。けだし三時半以後の攻撃は、飛行機の帰着が夜間になり、艦に戻れずにグァム島に帰ることになつて、翌日の全力集中を阻害するからであつた。
 小沢のこの逸らない落ちついた態度は、大軍を統帥する提督の価値を示した。満を持して明日の総攻撃を練る。そうして構想成つたものが前述のアウトレンジ戦法であつた。気を負う幾百の戦士を暫し矯め、機を見て一気に闘志を爆発させることも、決戦に処する主将の智謀であつたろう。面白い副作用は、敵の空母部隊長官が日本飛行機群の来襲を十八日の夕刻に予想し(従来の例から考えると、三時半に索敵機が来たら、その二時間後には攻撃隊が現われる勘定である)邀撃の準備をして待つて、待ちぼけを食つたことであつた。
 そうして日本艦上機の来襲しないのは、三対一の兵力差に驚き、一旦戦場外に脱出し、後に各個撃破の機会を狙う積りかも知れない。いずれの途、避退する場所はグァム島の港湾以外にはなかろう。さらば明朝は、大編隊をグアム島に飛ばし、島の基地を空襲する旁々艦隊を捜索し、発見したら一撃を加えることにしようと、案外呑気にサイパン西方二〇〇浬の海上に待機した。
 いよいよ決戦の十九日が来た。日出は五時二十二分である。暗雲低く垂れ、時々スコールあり、攻撃日和としては不良だが、しかし諦らめる天候ではない。第一段索敵機(水偵十六機)が進発したのは午前三時三十分。第二段(艦攻十三、水偵一)は四時十五分、第三段(彗星十一、水偵二)は四時二十五分、翼を拡げて東方に向つた(進出三八〇浬)。
 六時三十四分、第一段機はサイパンの二六四度一六〇浬の地点に正式空母五、戦艦四、その他十余隻又の大群を発見した。第二段機も他の大なる一群を発見、第三段の十五番機はグァム島の西七〇浬に正式空母三、戦艦五、その他十数隻を発見、敵の全貌を略ぼ正確につかんだ。
 敵の第一群と我が前衛(第三航戦)との距離は約三〇〇、小沢本隊とは四〇〇浬。正に注文通りである。更に我れは敵を発見したのに、敵は我れを発見していないようだ。
 小沢中将の作戦はその計画の通りに進んでいる。そこで七時三十分、夜来満を持した攻撃隊の第一波が飛び立つた。戦闘機四八、爆撃機五四、雷撃機二七の合計一二九機である。全機の勇ましい発進を終るや、艦上の小沢長官、古村参謀長、大前先任参謀等は、久しぶりで「祝盃」の機会が来たことを信じ、木更津沖の連合艦隊司令部でも同様に祝盃を語り合つて一同微笑んだ。江幡大尉以下各攻撃隊長は、わざわざ長官を訪れ「今度こそは必ずミッドウェーの仇を討つて参ります」と確信を披瀝して飛び立つた。殆ど同時に、第二戦隊から戦闘機一六、爆撃機七、戦爆機二六。第三戦隊から戦闘機一四、爆撃八、戦爆四六機が進発した。條件満点。筆者も久しぶりで敗戦録の憂欝から解放されそうな戦況である。
 何回となく腕時計を返して時間を見る。午前十時~十時半~十一時。待てども待てども攻撃実施の報告が来ない。不可解千万である。本来なら、その頃には「我れ空母を雷撃せり」「我が爆弾空母に命中せり」「我れ戦艦に魚雷を命中せしむ」といつた電報が沢山到来しなければならない筈だ。十一時を過ぎても何の音沙汰もないので、幕僚は漸く焦慮が心痛と変つて来た。
 思えらく、或は攻撃距離三八〇浬は、未熟なる搭乗員には遠過ぎたか? 真珠湾の時は二三〇浬、ミッドゥェーでも二三〇浬。それも熟練の将兵によつて実施された。今度は其の時よりも練度の低い搭乗員に、三八〇浬の距離を飛ばせたのは無理であつたろうか?
 否な、機の性能は航続力を往年より五〇%も延長され、それが敵機に優る今日の特色である。これを活用しない戦法は宝の持ち腐れであり、また其の利用こそが少数兵力で必勝する唯一の途でもあるのだ。縦深配備によるアウトレンジの兵術は絶対に誤つていない。要は飛行距離の問題であるが、機の性能がそれに堪える限り、飛ぶことは未熟者でも出来る筈だ。
 或は天候の関係かと、空を仰いで嘆息する。それとも最近更に進歩したろうと思われるレーダー高射砲の集束射撃が、我が攻撃隊を完全に阻止したのか。これだけの有利なる條件に於て大戦果の報告に接しないとは何としても不可解である。

    六 密雲日本を閉す
        レーダーがあれば勝利?

 心配は心配だが、攻撃は攻撃である。小沢長官は午前十時、第二戦隊第二次攻撃隊(制空二〇、爆撃三六、戦爆二六)を発進させた。第一戦隊の第二次攻撃隊は、旗艦「大鳳」の奇禍によつて発進遅延し、十二時三十分に敵の空母第三群に向つて飛び立つた(戦爆一〇、雷撃四、爆撃四。その頃に少数の第一攻撃隊機が尾羽打ち枯らして帰つて来た。
 その報告に依れば、密雲深くして敵艦隊の発見至難であつた上に、その前方三〇浬と推定される辺に敵の戦闘機群が網を張つて待機しており、大部分はその餌食となつたものの如くである――というのである。
 果して然らば、必勝を期した両戦隊の第一次攻撃隊合計二四六機は何等の戦果を得ないで大部分が撃墜されてしまつたのか(その中の四九機は途中で敵空母第二群に目標を変更したが)。これは惨敗以上のものではないか。
 それにしても、敵が若し日本の攻撃を事前に探知し、艦隊の前方三〇浬に戦闘機の防禦網を張つて邀撃したとすれば、それは兵術思想に於て日本をアウトレンジしたものだ。その立派な作戦に対しては頭を下げる外はない。果して米軍はそんな巧妙な兵法――先ず待機邀撃し、しかる後に追撃――を実施したのか? 四十何貫の横綱力士は斯くまで巧みなる前捌きをも示したのか? 帰還した少数機の報告は不正確ではないのか?
 果せるかな、最近に至つてその報告が大部分誤りであつたことが判明した。アメリカの戦闘機群が日本の攻撃隊を大量に撃墜したのは事実であつた。しかし、その敵の戦闘機群は、予め防禦網を張つて待機していたのではなかつた。グァム島空襲から急遽呼び戻されて、その帰り途に日本の攻撃隊と衝突し、激烈なる空中戦闘を演じてその一半を打ち落したものである。
 アメリカ空軍のグァム島空襲及び日本艦隊索敵攻撃隊は、前夜の作戦計画に従い午前八時頃に発進してグァム島に向つた。グァム島と、米空母の南端の一群との距離は六〇浬に過ぎず、その北端の一群も一〇〇浬と距ててはいなかつた。その艦隊は、レーダーによつて日本攻撃隊の進撃を探知し、大周章で味方飛行隊をグァム方面から帰艦させた途中で悲惨なる戦闘が展開されたのであつた。
 尤も戦闘機を以てする途中邀撃は、アメリカがミッドウェーで日本の攻撃に対して指向した手であるから別に珍らしい手ではなく、或る程度の機数は前方で警戒待機したかも知れない。ただ、一つの計画として、戦闘機の大編隊が艦隊前方三〇浬に網を張り、先ず日本の攻撃隊を撃滅し、しかる後に逆襲に出るという作戦は、敵が其の日の中に我が艦隊を空襲して来なかつた一事に徹しても、確定した兵術構想ではなかつたようである。が、その作戦構想実在の有無は第二として、現実に、我が攻撃隊が敵に未達の上空で一大戦闘を強いられ、著るしく不利な体勢に面したことだけはハッキリとした事実であつた。更に米艦隊のレーダーが、我が攻撃飛行機隊を、一五〇浬の遠距離に発見したという驚くべき事実を知らねばならない。
 一五〇浬の彼方に発見したのだから、艦上機の邀撃発進も、グァム島上空からの転戦も自由自在である。更に情けない一つの秘話がある。米空母艦長の証言に、
 「敵飛行隊の一部は我が艦隊上空を旋回した。そこで今爆撃を受けるか、或は急降下雷撃を受けるかと、砲を準備して心配しながら待つた。ところが少数の爆弾を投下しただけで帰つてしまつた。深い積層雲のために吾々を発見し得なかつたのであろう。未だ日本の飛行機はレーダーを装備していなかつたに違いない云々」
というのである。これで敗戦の理由はハッキリ判つた。団々たる密雲。それは敵にとつて何たる幸運、吾れにとつて何たる不運であろう。吾れは明らかに敵の虚を衝いて先制攻撃の雷爆弾を敵の頭上に運びながら、攻撃を実施する目標を翼下に見落していたのだ。必勝の好機を雲に遮られて逸して了つたのだ。
 密雲は恨んでも尽きない邪魔であつたが、條件は守る方にも或る程度の障害であり、日本攻撃隊の利用如何によつては大きい利益にもなつた筈だ。密雲の聞から急降下して奇襲する機会を得るからだ。ところが、それが米軍の好運となり、日本軍の不運となつた二重の損得は――死活的相違は――一に日本機がレーダーの眼を持たなかつたからだ。即ち、日本は兵術の上で敵をアウトレンジしたが、惜しむ可し、機械力の上で完全にアウトレンジされて了つたのである。

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