七 新式旗艦「大鳳」沈む
サイパン沖敗戦の始末
我がアウトレンジ攻撃の失敗に引換えて、悲しむべき損害が日本の艦隊を見舞つた。旗艦大鳳が一本の魚雷を被り、それが基で数時間後に爆発沈没した事件である。これも不運に連なる悲劇の物語である。
十九日午前八時十分、大鳳は攻撃隊最後の飛行機を発進する時、敵潜水艦アルバコア号によつて一発の魚雷を射込まれた。「大鳳」は三二、〇〇〇トン、一ヵ月前に就役した最新鋭であり、「信濃」に先立つて「不沈空母」の第一号と言われたものだ。二発や三発の魚雷でびくともするものではなかつた。それが不運というか、不注意というか、エレベーターを損傷したのでそこを密閉した為に換気口を封じた結果となり、重油タンクの目に見えぬ破損個所から少量ずつ漏れたガスが累積し、それに電気のスパークが点火して大爆発を起し(午後二時三十二分、即ち被雷から六時間余りの後)、六時二十八分、薄暮漸く迫るサイパン西方五〇〇浬の海底に没したのである。
将兵の忘れ難い物語の一つは、八時十分、被雷の直前に飛び立つた一機が、上昇すると見るや俄かに降下して水面に突込んだ犠牲の壮挙であつた。艦橋の幕僚が、それを事故と思つて凝視する地点から、敵の魚雷が艦の中央目がけて走つて来たのである。急ぎ操舵したが間に合わず、一本が命中して前記の惨禍となるのだが、飛び立つや魚雷の航跡を発見し、敢然これに体当りを決行して潰そうとした赤誠の搭乗員は、その名を小松咲雄という兵曹長であつた。己れの赤心、咄嗟の機智、身を捨てて旗艦を救おうとした君の名を、永く忘れないために書いておく。
敵の潜水艦は見事な働きをした。小沢艦隊をサンベル海峡で発見したのは米潜フライング・フィッシ号(六・一五)、第一戦隊を発見したのはシーホールス号(同日夕刻)、両隊合同海上補給を発見したのはキャバラ号(六・一七・午後十時)であつた。そうして十九、二十の両日は戦場を遊弋して攻撃に就いた。潜水艦用兵の上乗であり、この点我が海軍の首脳を一段抜いていたようだ。「大鳳」を雷撃した潜水艦部隊の他の一艦は、午前十一時二十分に「翔鶴」を雷撃し、四発を命中させたようだ。艦は火災に覆われ、午後二時に沈没した。茲に当時の正式空母三隻の中の二隻が沈み、残るは「瑞鶴」一隻のみという深傷を負うに至つた。
小沢長官は重巡「羽黒」に移乗し、いかにも残念と、第三次攻撃を決意したが、残る艦上機は総計一〇〇機に満たず、且つ夜間攻撃の成否をも再考、攻撃を断念した。
一方に前掲の第二次攻撃隊は相当広い海域を索敵したが遂に敵を発見し得なかつたので、その中の第二戦隊所属機五十機は、午後三時十一分グァム島に向つたところ、敵戦闘機大群の待機している所に出会い、三十三機を撃墜され、残る十七機は着陸はしたが使用不能の状態となつた。この日、艦上飛行機の損害は実に二八〇機という致命的の打撃を蒙つた。
その夜連合艦隊司令部の命により小沢も引揚げを決心、二十日朝各艦船に燃料を補給、中城(なかぐすく)湾(沖縄)指して帰路に就いたが、午後五時十分、後方二〇〇浬に敵空母二、其の他十数隻の一群を発見した。小沢はこれに対し水上部隊(第二艦隊)の全力を以て夜戦を行い、せめてもの一戦果を期して、七時これを下命した。入れ代りに敵の空襲が機動艦隊の上に加えられ、瑞鶴、隼鷹、龍鳳、千代田の各艦は何れも直撃弾を蒙り、飛鷹はこれまた潜水艦の雷撃を受けて漂流中に撃沈されるという追討ちを食つてしまつた。
一方、栗田艦隊の大和、武蔵以下全軍は、索敵と爆撃の十機を先発させて東方に追撃すること二時間、午後九時を過ぎてもなお敵を見なかつたので、十八インチ巨砲の威力を試す機会もなしに空しく引き返した。その後、敵の追撃なく、機動艦隊は全身創痍、六月二十四日瀬戸内海桂島泊地に帰つたのである。
かくて敵の機動部隊を撃滅する最後の一戦は、反対に我が機動部隊の大敗に終り、ここに艦隊の洋上決戦は、少なくとも半歳の間は絶望となつた。正式空母三隻中の二隻を失い、第二級空母三隻中の一隻を失い、艦上機二八〇余りを喪失しては、機動部隊の再建は、不可能とは云わないまでも、甚だしく困難を加うるに至つた。この絶望感に近い統帥の混迷が、やがて「レイテ作戦」の強行ともなるのである。我が戦果は、アメリカの発表によれば、飛行機喪失九機、戦艦サウス・ダコダに直撃弾一個、重巡ミネアポリス、空母バンカーヒルに至近弾一個(小火災)というのだから、ここに比較表を掲げるのが恥かしいような惨敗である。
八 敗戦の跡を顧みて
艦隊「殴り込み」の思想芽生ゆ
斯くまでに敗れ去ろうとは何人も夢想しなかつたし、却つて一時は「祝盃」が――二年ぶりで――頭を掠めたほどの作戦であつたのが、腰が起たないほどに叩かれた経過と、その原因とは一応明らかになつた筈である。
作戦が巧緻に過ぎたとか、搭乗員の練度が低下していたとか、飛行機が足りなかつたとか、レーダーが無かつたとか、潜水艦が振わなかつたとか、其の他にも幾つかの原因を尋ねることは出来る。それらを掘り下げて検討すれば一応の興味はあろう。しかし、その大部分は、本論文の何処かに批判されていることだし、余りに傷を掻爬することは止めよう。而して又、それらは①日本の綜合戦力が既に傾いていた所から発生し、②天佑が既に日本を見捨てていた事実にも帰するであろう。
例えば、(イ)我れ一隻を失わずに敵を撃滅するという全勝計画(アウトレンジ戦法)も、兵力差が三対一の実情と、今後の補充難とから多少の無理を冒して立案されたろうし、(ロ)第二戦隊の老練なる搭乗員には旧式飛行機(九九式艦爆)で我慢させ、反対に第一戦隊の未熟者には新式(彗星)を交付した如きも、機材生産が間に合わなかつた為であろうし、(ハ)その第一戦隊の攻撃隊が一〇〇浬前方の第三戦隊及び水上部隊の上空を通過する断禁の航法を犯して同士討を演じたのも、訓練未熟者を投入せざるを得なかつた窮余の措置に発したであろうし、(ニ)レーダー無き故の敵艦未発見は言うまでもないし、(研究既に成るも製作遅れる)、曰く何々と尽くる所がない。ただ、潜水艦を此の一期の決戦に利用しなかつたかという疑問に対しては解説の必要がある。
実は潜水艦は全力を挙げて参戦したのだ。その数二十一隻である。即ち第六艦隊の可動兵力の全部なのだ。司令長官高木中将は司令部をサイパン島に進出し(呉が本據)、決死の覚悟で指揮をとつた。島の周辺を巡視して敵の空母や戦艦を撃沈する任務を命ぜられ、上空、水上、水中の三面から敵機動部隊の覆滅をねらつたわけである。
ところが、兵装既に旧式となつた日本の潜水艦は、さきに一言した如く、レーダーを備えず、聴音機も旧式であり、常に敵から一足先きに発見攻撃されるという根本的弱点を露呈した。加うるにアメリカの対潜攻撃法はレーダー附飛行機を主体とし、駆逐艦や海防艦等までいずれも優れた聴音機と探信機を備え、且つ特殊対潜砲(ヘッジホッグ・ガン)と高速爆雷投射機を装備して、日本の旧式攻撃方式とは比較にならない威力を示した。
だから潜水艦を局地戦に投入し、一定の型にはまつた作戦をやれば、手の筋を読まれて痛撃を受けるのは当然であつたろう。サイパン海域を広範囲に自由に作戦させないで、出動海域を制限(我が艦隊が追撃に移つた場合の同士討を警戒して)したことも潜水艦の戦果が挙がらなかつた一つの原因であつた。サイパン島に渡つて陣頭指揮をした長官高木中将は玉砕し、潜水艦は十三隻が帰らなかつた。そうして敵の艦艇を攻撃したが、影響を及ぼすような戦果はなかつた。
艦隊破れてサイパン島の運命は日々に危ない。仮りに防備が堅固でも、海上からの補給が断たれてしまつては、孤島の運命は自ら定まる。海軍としては、この内南洋の生命線を維持するために何うしたらいいのか。マリアナ敗戦に落胆して妙策は浮ぶべくもなかつたが、挙句の果ての一案は、
山城、扶桑の二戦艦を急遽サイパンに突入せしめ、その主砲を以て敵の上陸部隊を掃射し、以て我が守備軍に反撃の機会を与える。
というのであつた。これ主力艦を以てする「殴り込み作戦」の着想の発端である。しかしその当時に於ては、さすがに主力艦に死を強制し、その将兵に自殺を強いる戦法は、未だ豊田副武大将の容れる所とならなかつた。一方に、飛行機が爆弾を抱いて敵艦に突ッ込む特攻方式の提言も同様に許容されなかつた。その二つが具体化したのはレイテ作戦に於てであり、即ちその時には、既に「放擲」の思想に陥つていた証拠でもある。
それにしても、山城と扶桑の運命は、サイパン戦の窮余の作戦提言の時に既に定まつていたものの如く、最後に、サイパンがレイテ湾に変更されて実際化したのは悲惨の極みであつた(次章詳述)。
さて敗れたる機動艦隊は、再建を急がなければならなかつた。哀れではあつたが、僅かに残る一隻の「瑞鶴」に長官旗を翻えし、隼鷹、瑞鳳、龍鳳の改装空母と千代田、千歳の二流空母を従え、近々竣工の戦艦改装空母伊勢、日向を待つて一艦隊を編成し、栗田中将の水上部隊とは袂を別つてこれを南洋リンガ泊地に送つた。燃料が無いからであつた。そうして空母艦上機の整備と搭乗員の訓練に志したが、押寄せる運命の退潮は、砂上に築く設計を足許から崩して行くのであつた。にも拘らず、小沢空母艦隊は屈せずに航空戦力の再建に没頭したが、半ば成つたその戦力を、根こそぎ台湾基地空戦に徴用され、最後にエンガノ沖海戦で全滅する結論となるのである。
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