第七章 レイテ海戦
一 所謂「艦隊の殴り込み」
「捷一号作戦」の背景を眺めて
レイテ海戦は、我が連合艦隊が戦つた最後の、しかも決定的の海戦であつた。この一戦によつて、日本の海軍は、その海軍としての機能を喪失したのである。実力のある一流の「連合艦隊」が、今後永久とはいわないが、恐らく何十年の将来、再び日本国民の資産として出現覚束なきを思えば、この一戦の史実は、貴重なる一つの生活体の最後を綴る記念すべき物語として詳しく誌るされてよかろう。その意味に於て、本書の題名があり、また真珠湾以下の各海戦に較べて遥かに精密なる実戦記を草しようと思うのである。
幸いにして(或は不幸にして)、この海戦は連合艦隊の最後に相応しいだけの多くの話題を残し、現に戦後十年にして尚お英米の海戦史家の間に論争を断たないほどである。昭和十九年十月二十二日の艦隊出撃から戦場完全離脱まで前後六日に亙り、四つの艦隊が、四つの異なれる海面に於て海戦を演出し、或は全滅、或は半減の大敗を招いた裏面に、幾多の興味深い作戦を展開し、後世の史家に研究の題材を供給した点に於て、恐らくはジュットランド大海戦(一九一六年五月、英独主力艦隊の海戦)をも凌駕するであろう。
そもそもそれは「大艦隊の殴り込み」という一語の下に、有史未曽有の作戦であることを告白するものである。海軍当事者は誰も「殴り込み」と通称した。既にして清水次郎長時代の構想であり、しかも彼らの一族よりも乱暴でさえあつた。本当の呼称は「捷一号作戦」と言われ、日本が全面的守勢作戦に追い込まれた十九年の秋に、大勢挽回の千に一つの望みをかけた作戦として策定されたものである。
当時アメリカ軍の進攻地域を四方面に想定し、その各地域毎に反撃の工夫を決めたのが一括して「捷号作戦」と呼ばれ、区分して第一号が比島周辺、第二号が台湾九州、第三号が本土、第四号が北海道となつていた。昭和十九年十月十七日、マックアーサー元帥の進攻軍は早くもレイテ湾口のスルアン島に上陸を開始した。比島奪還の作戦は二十年春を待たずして始まつたのである。「飛石作戦」の世界的チャンピオンは、後年の作戦に於ては一石や二石を飛び越して急迫する方式を案出した。来攻を予期して守りを固めた日本海軍の防禦基点を一つ飛び越して急進したのだ。「次は当然にトラック島」と思つて守つていると、それを飛び越してサイパン島に殺到した。「次は台湾」と信じていると、それを尻目に沖縄に上陸した。同じように、「次はラバウル島」と確信して鋭意防衛に専心していたのを、一挙に飛んで直ちに比島に迫つたのである。
「捷一号作戦」の発令は十月十七日の夜であつた。偵察機能が優れていたら、十月十日頃米軍のホーランジャ集結を探知して艦隊行動を起すところだ。恰もジュットランド大海戦(英独主力会戦)に於て、英国海軍省はドイツ艦隊の出発準備集結を電波で探知し、即時これをスコットランド基地の司令長官に電話連絡し、海上遭遇地点を想定して進撃方位と速力とを指導した如く――。が、かかる満点は望めない。次点としては、米軍の大船団が基地を出航した十月十四日に、「捷第一号作戦」の発令が欲しかつた。ところが発令は、マックアーサーの船団六十余隻がレイテ島上陸を開始した後である。日本艦隊がシンガポールの対岸リンガ泊地を出撃してレイテ湾口に殺到する時は、マックアーサーの全師団は疾くに上陸を完了し、或は日本陸軍の予備陣地を粉砕しているであろう。
二 落ちて行く「平家」の如く
空襲と燃料難に追われて南方へ
戦い既に三ヵ年、日本の耳と目とは、其の肉体と同じく老衰の状を呈していた。国衰えて艦隊独り健やかなる道理はない。多くの場合、敵の行動を察知する幾日も前に、日本の行動は敵に知られていた。敗北の多くの原因が耳目(無線や電探や諜報技術)の優劣から起つた。ミッドウェー海戦の痛敗も、山本長官の戦死も、日本の暗号電信が解読されて敵の待伏せに会つた結果である。敵の行動を知らないで突進するのでは、名将も奇策もあつたものではない。
この耳目の喪失が、サイパン敗戦後の連合艦隊の上に来た。いかなる耳鼻眼科の名医も、手の附けようのない症状が襲つて来た。耳は漸く応急手当をしたが(後述の電探装置)、目の方は緑内障に手術の方法がない如き惨状に陥つた。
昭和十九年六月十九日、栗田艦隊は航空戦の敗形を整理して戦場を離脱すると、間もなく戦艦大和の上空に敵の一機が現われて離れない。それは後方百浬の艦隊司令部に無線電話を以て我が行動を逐一報告しつつ飛んでいるのだ。戦闘中はなまの英語で話している。大和や武蔵には英語達者の二世が専任参謀室でその会話を聞いている。
「唯今、戦艦大和、武蔵以下二十余隻南下中、地点、テニアン西方Ⅹマイル」
「左方五マイルの地点で空母一隻炎上中」
「他に沈没艦の将兵を駆逐艦二隻が収容中」
「主力後方十マイルを高雄型重巡三隻南下中」
と英語で報告している。上空から全貌を下瞰するのだから、日本の司令長官よりも的確に戦形を把握している。癪にさわるのは暫らくおき、何とも残念で堪らないのは、その敵機を追払う飛行機が艦隊に無いことである。
耳を患い眼を失つた艦隊は、同時に最大の武器をも失いつつあつた。決戦武器すなわち航空機を失うことである。開戦の冒頭、真珠湾に於て、また、マレー沖海戦に於て、我が海軍が「赫々たる大戦果」をあげたその決戦武器を、敵は無限に保有する反対に、日本は間もなく底を払おうとしている。生産が足りず、人を練る時間もない。およそ、戦艦が航空機群と戦闘するほど惨めなことはない。盲人がツエを振り回して強漢のピストルに立向うようなものだ。高射砲は敵の何機かを射落すであろうが、その間に敵の爆弾と魚雷とは大艦を海底に沈める。だから、その敵機群を追払う直衛戦闘機がなくては、戦艦は太刀討が出来ないのだ。
B29の東京空襲でも、広島原爆撃でも、日本がこれを追払う戦闘機を備えていたら、敵は自由に狙つて爆撃は出来ないのだ。陸軍の戦闘機が無能力となつたから、敵は煙草を喫いながら爆撃が出来たのだ。戦闘機を持たない艦隊は、丁度、B29にやられた日本の各都市と大して違わない。昭和十九年十二月頃から都市は自由爆撃に曝されることになつたが、連合艦隊はその十ヵ月前から同様の状態に追い込まれていたのである。
その空襲を海上で食うのも酷いが、港湾碇泊中に食うのは絶体絶命である。名状すべからざる混乱はここで描くまでもない。魚雷が突進して来ても回避運動の術がなく、それを眺めながら沈められて了うという情けない有様だ。それを免かれる唯一の途は応急的には海上に逃げ出すこと、根本的には港湾基地を遠方に移すことである。
昭和十九年二月十七、十八日の両日、連合艦隊はその出港の留守に根據地トラック島を空襲され虎の子の航空機三二五機を失つた。昭和十六年十二月九日、日本海空軍が真珠湾で演出した戦法が、二ヵ年余りで米軍の手に帰つたのだ――この急降下雷爆戦法は昭和初年、米将ミッチェル麾下の米空軍が創案し、日本はそれを学び取つたものである――。
連合艦隊は闇に乗じて南下し、パラオに新基地を構えた。落ちて行く平家の第一日であつた。トラックは山本元帥が長官であつた時からの根據地で、海上作戦指導の中枢であつたから、司令長官古賀大将は、なるべくその近傍を選んだ。京都から福原に移つたわけだ。ところが米の索敵機は間もなくこれを発見し、三月三十日と三十一日にわたつて延べ一千二百機の大空襲を敢行、艦船約八万トン、航空機二百数十を撃破した。その前日、この空襲を予期した古賀長官は、新根據地を比島のダバオに移転するため一足先きに水上飛行艇で飛んだその途中で戦死し、艦隊は栗田中将これを率いてダバオに向つた。連合艦隊の落ちのびる第二の細道であつた。ところがそこも結局は連合艦隊の安住する所ではなかつた。そこで米空軍の来襲圏外に基地を求めようとすれば、南西遥かに下つてシンガポールの周海ということになる。かくてスマトラ、ボルネオの海に軍艦旗を翻すことになつたのである。
三 戦意は「源氏」の如く
レーダー装備に勇み立つ
敵のサイパン上陸を知るや、小沢、栗田の両艦隊が急遽南方から馳せ参じたことは前述の通り。そうして決戦利あらず、退いて広島湾に敗退の錨をおろした。されど長く祖国の山川に憩うことは許されなかつた。南方からの石油の途が既に遮断され、長く滞留すれば艦隊は動けなくなるからである。魚が水に住むように、連合艦隊は油のある処に住まわねばならない。日本に帰り住むこと僅かに一週間、十九年六月下旬、全艦隊は山陽道の山々に沈む夕日を見送りながら日本に別れを告げたのである。平家は再び都に帰るだろうか。その感傷を胸奥に催した金モールの将校も何人かはあつたであろう。
されど同じく都落ちとはいつても、平家の公達と艦隊の将兵とは、根本的に違う一つの決定的要素を持つていた。不屈の闘魂すなわち是れである。連合艦隊は前述のように、トラックからパラオヘ、それからダバオヘ、またブルネーへと落ちのび、一旦本国の近海に参戦した後、またも最南端のスラバヤへと落ちて行くのだが、世界的不思議さは、この境地にあつて将兵の間に敗戦気分が発生しなかつたことである。
却つて反対に復仇の闘志が燃え上つていた。彼等は、スプルーアンス、ハルゼー、ミッチャー、キンケードの名を――米軍機動部隊司令官の名を――浅野の浪士が吉良上野の名を呼ぶのと同じ怨恨骨を刻むの鉄心を以て呼び続けた。親の仇敵どころではない。縦横無尽に荒れ回つて日本の海防死守線を八方に食い破つた機動部隊の提督の名は、皿を運ぶ三等水兵の夢にも通う怨みの代名詞であつた。
彼等と刺違えて流す血ほど世に尊いものはないと思い込んだ三万将兵の闘志は、過ぐる十六年十二月、百万トンの大艦隊が軍艦マーチも晴々と呉軍港を出撃した当時と少しも変る所はなかつた。
この一事は極めて重大である。読者は是非とも記憶して戴きたい。全艦隊に漲つていたこの復仇の闘志と、海戦史上恐らくは最大級の論争点である「レイテ沖の艦隊反転」との間には、断ち難い因縁の綱があり、この糸の目を解かずには、レイテ大海戦の疑問は解けないと信ずるからだ(後に詳述する)。
その怨みの因果は、筆者が後に聊か世に問わんとする世界海戦史上の一大課題であるが、この一節はなお暫らく闘志の現われを描くであろう。普通なら、空襲に追い落されて根據地を見捨てること既に四回、今また母国にも留まれないで南洋の果てまで落ちのびようとする艦隊に、デフィーテズム(敗北心理)の生じないのは不可解に近いのだ。それは単なる虚勢であつたろうか。
いな、それは誇張のない実相であつた。今まで未塔載の軍艦に漏れなくレーダーが取附けられた。米軍に遅れること実に二ヵ年の遅さである。もしも、これが同時に出来ていたら、太平洋の海戦(大小十五回)は様相を一変していたろうと思われるほどの重要武器である。それが、サイパン海戦後、呉軍港に集結中、主要軍艦の全部に装備されたのである。
これより先き大本営はレーダーを欠く艦隊の無力化を憂い、「電波本部」を創設し、技術材料の優先特配を行つて漸くレーダー製作に成功した。陸軍と海軍が資材の奪い合いで、星と錨の大喧嘩を続けた悲しい歴史の中で、この軍艦用レーダーのみは陸軍の全面譲歩の特例であつたろう。
将兵の歓びは言語に絶した。日本人の「黒い目」が、アメリカ軍の「碧い目」を制するという得意の「夜戦」――日本軍伝統の戦法――が、一夜にして封じられてしまつたのは敵の電探射撃の発明による。一にレーダーの威力による。それは実に、昭和十七年十月十一日の夜である。五藤存知少将の率いる第六戦隊(重巡三隻を基幹とする)が、ガダルカナルの夜襲に掛かろうとする瞬間、突然真ッ暗闇の中から敵艦隊の一斉射撃を受け(敵影見えず)、五藤司令官戦死し、重巡古鷹は沈み、青葉は大破し、わずかに衣笠の決死の突入によつて戦場から引揚げた驚愕の一戦(サボ島沖海戦)がそれだ。アメリカが、夜戦のお株までも奪い去る戦勢一転の枢機は正にその一端を誇示したのである。
憤つた日本海軍は、その翌々日(十三日)夜半、敵が一安心をしている陣頭に優勢なる奇襲を敢行した。すなわち戦艦金剛、榛名以下をガ島に突入させ、初めて三式三十六センチの焼夷弾を一時間半にわたつて敵陣に叩き込んだ。敵の飛行場は一面火の海と化し、飛行機も兵舎も弾糧も殆ど焼尽す大戦果を挙げた(もしこれに即接して陸軍の総攻撃が行われていたら、ガダルカナル島はその時に奪還することが出来たろう。後に詳述の機会がある)。
ところが敵は必死の補給再建を続け、レーダー網を倍加し、レーダー砲を動員して防備を固め、それから後は、数次にわたる夜戦突入の我が艦隊を洋上遠く捕捉して焼夷攻撃を許さず、八ヵ月にわたる攻防戦の後、遂に日本の敗退を余儀なくさせたのであつた。
すなわち大得意の夜戦が完封されたのは、敵にレーダーがあつて吾れにその装備が無かつたためであつた。今やその待望のレーダーが、巡洋艦以上の軍艦に装備されたのだ。将兵の歓びが言語に絶した情景は、涙なしには見られない感激の絵であつた。万歳の叫びは呉軍港の水を揺がした。「これで大丈夫。ミッチャー、ハルゼー御座んなれ」と勇み立つた艦隊は、鞭声粛々、夜、母国の基地を立つた。既に読者の理解されるように、この連合艦隊の弱点は一隻の空母をも伴わない点であつたが、しかも天佑なお吾れにあり、途中敵潜にも敵機にも見舞われずに無事に南方の目的地に着いた。
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