四 リンガ泊地の猛訓練
        敵の空母艦隊に挑む夜戦

 リンガ泊地(シンガポールの対岸)に於ける連合艦隊の猛訓練は、これまた言語に絶するものがあつた。赤道に近い真夏の太陽は、リンガ湾の海水を湯のように温めていた。周辺幾マイルの砂浜は焼けて人間の歩行を阻んだ。極めてまばらに椰子の木を散見する以外は満目これ炎熱の世界である。緒戦勝利の直後、シンガポール以下の各港に、艦隊が入港して戦勝の直後の休養と歓会を尽した境涯を想い返せば、それは文字通り天国と地獄の相違であつた。
 将兵はこれが帝国海軍最終の猛訓練と知るや知らずや、ハルゼー、ミツチャー、キンケードの米艦隊を撃滅する闘志は一刻も緩まず、その戦法を専ら「夜戦」に求めて、涼しい夜間の上陸を返納し、暫時の午睡に全生命の保持を托した。猛訓練も内地に於てならば休息の途もあり、またその方が能率も上るのだが、前述のように、内地にいては、南方からの石油が得られない。油槽船が途中海上で悉く沈められて補給の途がない実情では、赤道近く熱汗の訓練もまた己むを得ないのであつた。ところが、巳むを得ないというような渋ッ面は何処にもなかつた。南方を救うスコールが椰子の葉を洗うような清々しい気持で、一心不乱に戦技を繰返した。どう見ても、勝利を投げた艦隊の諦らめなぞは微塵もない。真剣という文字の意味が一〇〇パーセント迸しる殺気横溢の場面であつた。
 甲軍は戦艦大和を旗艦として夜半リンガ湾内に突入して来る。乙軍は武蔵を旗艦として待機する。相見るや星弾を放つて戦う砲撃は奥地に遠く響き渡つた。レイテ湾突入命令の下る二ヵ月も三ヵ月も前の話だから、その「捷一号作戦」に備えたものではない。ただ、今後は必ず起るであろうこの種の「殴り込み作戦」に即応するための猛訓練であつた。
 加うるに、栗田長官を初めとし、将兵の大半はガダルカナルの戦闘に於てこの作戦を実地に行つた連中である。そうして、レーダーの装備がないために苦戦悪闘して遂に同島を放棄した体験を持つ戦士達である。いまその決定的兵器であつたレーダーを賦与された艦隊が、従前の暗黒突入から電探突入へと前提を一変し、沢市ならぬ闘将の開眼が、奇襲の別天地を発見した歓びは譬えようもなく、また、そこに芽生えた自信の階梯は夜を重ねるごとに高まつた。
 しかし、それは余技といつては語弊があるが、要するに副次的の作戦でしかなかつた。連合艦隊の存在目的とするところは依然として洋上の決戦にあつた。それも、五十年鍛え抜いた主力艦隊併航戦のオーソドックス戦法は既に役に立たない。いまは、前記ハルゼー、ミッチャー、キンケード各提督の指揮する幾群かの機動艦隊を洋上に捕捉撃滅する新戦法でなければならなかつた。而してこの決戦こそ全軍を挙げて希求したところ、その訓練は本当に物凄いものがあつた。
 足の速い敵機動部隊を撃つための急速接敵法、遠距離砲戦、魚雷戦等を初め、あらゆる場合を想定しての捕捉運動が連日実演された(油は腐るほどある)。かつて海軍が美保ガ関に残した猛訓練の歴史――夜間全速力戦闘中の衝突事件――は南洋リンガ泊地を中心として一層の猛を加えて反覆された。そうして艦隊の狙いはこれも等しく夜戦であつた。
 何故にそれほど「夜戦」を好んだのか。いな、好んだのではない。夜戦は、それを戦つた人のみが知るほどの苦しい戦法であり、出来ることなら避けたいのが将兵十割の希望であろう。がこれを敢て選ぶのは、劣勢を補うに勇気と訓練とを以てする「桶狭間」の決心に基くのだ。もともと水雷戦隊の採る途であり、日本は海軍を創設して以来これを鍛え、これで立派な戦果を挙げて来た。今や、大和、武蔵の大戦艦を駆つて洋上の夜戦決戦に赴こうとする理由は何処にあつたか。一つは最近(六月下旬)、電探射撃の装置が取附けられて十八インチ巨砲の無照準発射も可能となつたことであるが、第二は敵の制空権下で戦う絶対的不利益を避けるためである。白昼敵機の雲霞の来襲に会い、その魚雷を避ける回避運動を反覆していたら、自分が大砲で敵艦を狙うことが出来ないのは明白である。すなわち夜間決戦の伝統に甦つたわけである。いまここで世界陸戦史上の最高峰と公認される弓張嶺の大夜襲(明治三七・八・二六遼陽東方防禦線の中心陣地を奪取した西中将の率ゆる仙台師団の夜襲。其の後第一次大戦にドイツ軍は二回にわたる大夜襲即ちルーデンドルフのリエージ夜襲と、皇太子軍のバル・ル・デュック夜襲に惨敗したので、師団夜襲の成功例は西中将のみが記録保持者である)を例にとるのは横道に入りすぎるから詳記しないが、日本軍の歴史に残る成功は「夜襲は参加全軍に真勇ある場合にのみ成功す」という理論に答えたもの。明治二十八年二月二日我が水雷戦隊が威海衛に突入して軍艦四隻を撃沈した特攻夜襲も世界史を飾つている。これらは民族の誇りである。その先祖の血を享けて、栗田艦隊は、「全員の真勇」――甚だしく難かしい――を信ずる一戦を、進んで最後の戦場に戦わんとするのである。(註。リンガ泊地を艦隊及び飛行機訓練に利用し始めたのは、燃料補給が愈々困難になつて来た十九年初頭からであつた)

    五 真ッ裸の艦隊
        已むを得ない神風特攻

 戦争の最中、百日にわたる猛訓練が出来たのは神助天佑のある証拠これからの一戦に、傾き沈まんとする帝国の戦勢を挽回しようと勇み立つた連合艦隊の上に、昭和十九年十月十八日、有名なる「捷一号作戦」の発動が下令されたのである。
 この作戦の要は、敵が比島に進攻する場合にこれを空と海の両面から撃滅する方策であつて、内容を要約すれば次の三点に帰する。すなわち、
(1)基地航空部隊は約七百浬の遠方に索敵し、これに漸減雷爆戦を加え、敵が近接するや、陸軍機と協同してこれを水際に撃滅す。
(2)艦隊はブルネー湾(ボルネオ北部)に集結待機し、情報次第出撃して、敵の護送艦隊と船団とを洋上に捕捉撃滅す。
(3)万一遅れて敵が上陸開始後なるときは艦隊は全軍港湾内に強行突入してこれを撃滅す。
(4)小沢中将の航空戦隊は瀬戸内海から出撃南下して敵機動部隊を北方に誘導し以て栗田隊を掩護す。
 第一の作戦は第五基地航空部隊(大西中将:比島)と、第六基地航空部隊(福留中将:台湾)の任務に属し、第二、第三の作戦は本文の水上部隊(栗田中将)に課せられた。ところが、第六航空軍は、十月十二日から五日間敵の台湾空襲に応戦し、楽隊入りで大戦果を発表したが、実は戦果甚だ軽少、逆に自軍の航空戦力は大消耗を蒙つて比島作戦への応援は甚だ心細い窮状に陥つた(この詳しい経過は後に小沢艦隊の敗戦の原因として詳述する)。それなら、比島にあつた第五空軍の実力はどうであつたか。
 猛勇大西中将(瀧治郎)着任すれば、兵力僅かに百五十機に過ぎない(前述トラックで三二五機、パラオで二〇三機を空襲撃破された損害の大きさが判ろう)。しかも機の性能は低く、搭乗員の練度はまた著るしく底下しているのに驚倒した。大西中将は山本元帥の懐刀といわれた海空軍の権威、この実情を見て到底「捷一号作戦」に応ずべくもないことを確認した。ここに於て大西司令官は遂に意を決し、涙を揮つて肉弾体当りの特攻作戦を許容するに至つたのである。「神風特攻隊」ここに生る(この種の特攻作戦は下から自発的に盛り上がるのを裁可するもので、上から命令するものではない)。白いマフラーを襟に巻いたうら若い青年将校が、お国のために死の戦場に飛び立つ姿の雄々しさを、全国民は血と涙を以て遠く見送つた(この犠牲心の十分の一くらいのものを、今日の日本は欲しいと老人は回想する)。
 その神風特攻が或る程度の戦果を収めるようになつたのは沖縄戦闘からであり、レイテ海戦の一翼として行われた特攻戦は、最初の経験であることと、情況が不利であつた関係から、実際の効果を挙げる迄に至らなかつた。茲で問題となるのは、この非常手段でも取らなければ、空から栗田艦隊を支援する道がなかつたということだ。ところが、その決死隊さえ効果を挙げなかつたのだから、艦隊は、空軍の掩護なしに、終始真ッ裸で戦わざるを得なかつたわけである。
 一方に、それよりも重大なことが発生していた。連合艦隊所有の索敵機の全部――三十二機――を基地空軍に転用してしまつた一事である。理由は勿論ある。当時の比島基地空軍の弱体は前述の通りであり、肝腎の索敵能力は誠に哀れなものであつた。作戦第一号にある「七〇〇浬索敵」などは全くの夢物語で、実際は二百浬も怪しい。これでは第一の前提が崩壊してしまう。ひとり、練度の高い艦隊の索敵機のみがただ一つの頼りであるというのだ。まだある。その索敵機を一〇〇%活用して情報を逐一艦隊に通報すれば、出撃の機を失することはなかろう。また艦隊交戦中なる場合には、それらを戦場の空に特派して、艦隊長官の要求に応じさせる筈であつた。艦隊の方でも、敵潜水艦の伏在海面を航行するので洋上収容が出来ないことと、敵の爆撃で破壊される危険を考え、基地空軍と共用の意味でサンホセ基地(ミンドロ島)に先行させた事情もある。即ち大西中将の要請だけで陸に移つたのではなく、必要の場合は栗田長官の指揮下に入る筈であつたが、それが空名に終つたのである。
 されど艦隊には反対論の嵐が捲き起つた。索敵機を持たない大艦隊の航進なぞは近代戦術で考えられることではない。盲目の按摩さん一人なら暫らく別だ。百人の按摩さんを銀座通りに引出して無事に歩かせるには目明きの案内者が要るだろう。その案内者を奪い去つて、盲目百人を繁華街に放り出すとしたら怪我の続出は必至だ。艦隊は案内人を失つた盲目同様ではないか。
「もう潜水艦に沈められても俺は知らんぞッ」と憤慨やる方なき艦隊将兵の上空を、三十二機は静かに飛翔して別れを告げた。去り行く索敵機の翼に、思いなしか別離の悲しみが光つた。果せるかな、大艦隊出陣の召朝、旗艦愛宕は真ッ先きに敵潜の魚雷を受けて二十分で沈没、続いて重巡摩耶は四分間で爆沈、同じく高雄は大破して基地に帰るという大惨事を起してしまつた。
 戦さの門出にこの大凶。それと索敵機全部の供出との間に関係がないとは誰が言い切れるであろう。「潜水艦にやられても俺は知らんぞッ」と怒つた参謀は、怒りを倍にしてパラワン島沖の海中を泳いだ。

    六 作戦の不満、全軍を掩う
        “八・四艦隊”以来の訓練棄つ

 さて作戦の(1)基地空軍の切羽つまつた情況は前述の通りだ。作戦の(2)はこれぞ主力艦隊の常道で何人も遅疑するものはない。(4)も亦必要なる掩護作戦で、うまく動けば栗田艦隊の決戦を益するところ多大なるものがあろう。ひとり艦隊の物情騒然、これを率いる長官を悩ましたのは、作戦(3)に対する全将兵の不満であつた。
(3)の要旨を再掲すれば「万一遅れて敵が上陸の開始後なるときは、艦隊は港湾内に強行突入して敵の船団を殲滅すべし」という一項である。蓋しガダルカナルの戦闘に於ては、夜間小部隊が突入する作戦を十数回も反覆したが、今度は主力艦隊の全軍が、白昼公然敵の港内に決死吶喊するというのだから、正に前代未聞の作戦である。艦隊の将兵に嘲笑先ず起り、次いで罵倒の私語が流れたのも決して偶然ではなかつたろう。
 作戦の(2)は連合艦隊の使命であり、その夜戦決戦のために百日の猛訓練を積んだのだ。勿論、夜間港湾突入の訓練も十分に鍛えたが、それは「敵港に突入奇襲し短時間に最大量の砲弾を打ち込んで神速に引揚げる」方式である。これを「機敏な殴り込み」と称すれば確かに作戦の一つに相違ない。大和、武蔵が十八インチ砲の一斉射撃を二、三回も行えば港内の敵陣は吹ッ飛ぶであろう。それを尻目に颯々と引揚げるこそ「殴り込み」の極意というべきだ。作戦命令(3)の如く、白昼深く侵入し、船舶や兵団を相手に長々と撃ち合うのは「殴り込み」ではなくて「坐り込み」だ。「坐り込み」は強請か、賃上げ闘争の外道だ。艦隊作戦の正道では断じてない。
 そもそも輸送船団との戦いなぞは、主力艦隊の作戦教科書には書いてなかつた。港湾突入また然りである。顧みれば一九一〇年、日本海軍が作戦の想定海面を太平洋に移し(それ以前にはロシアを想定敵国とした関係上、海戦の演習地点は東支那海から日本海方面にあり、そのロシア艦隊全滅後は自然と太平洋の東玄関に戻つた)、英国或は米国の艦隊が、万々一にも太平洋に進撃して来る場合を仮想して、主力艦隊の充実と訓練とを重ねて来たのである。
「八・八艦隊」の名称を記憶している人は、今日の国民の何割かは知らない。それに達する前提としての「八・四艦隊」の呼称も可なり有名であつた。世界は、英国の主力を「グランド・フリート」と呼び、ドイツのそれを「ハイ・シー・フリート」と呼んだのと同列に、日本の艦隊を「エート・フォーア・フリート」と通称して、世界三大艦隊の勢力比較表や年鑑写真の上に掲げていた。アメリカは、フランスと第四位を争う実情で、未だ世界の「ビッグ・スリー」には実力遥かに及ばなかつた。
 序でに書いておくが、その「八・四艦隊」とは、戦艦八、巡洋戦艦四、巡洋艦二四、駆逐艦八四、潜水艦六〇から成る堂々たる艦隊であつて、世界の軍事評論家は、これをウェル・バランスド・フリート(均衡のとれた艦隊)の標本として推賞していた。
 この艦隊を擁して日本海軍は西太平洋の作戦演習を続けたのである。一九二二年、ワシントン軍縮協定の生れるや、兵力比の不足を単艦優越と技術とを以て補う方針の下に、造艦上の創意と海上の猛訓練とが年ごとに積まれて行つた。戦略を「攻勢防禦」と「漸減作戦」におき、したがつて水雷戦隊の奇襲と、主力決戦の巨砲命中率の練磨に全精力を打ち込んだ。前にも触れたように、近海決戦のために艦内の居住性を極度に節約し、余裕を挙げて速力と砲力の増大に集中した。
 かかる訓練二十年の朝夕に、主力艦隊の将兵が鍛えられたものは、砲戦と艦隊運動を中心とする訓練であつて、敵の港湾内に突入するような演習は一度もやつたことがなく、またその作戦の名も聞いたことがない。敵の輸送船団を捜して襲撃することも、それは潜水艦や駆逐艦の作戦分野であつて、主力艦隊の与かり知る所ではなかつた。
 すなわち「捷一号作戦」の命令は、連合艦隊の将兵が曽て聞いたこともなく、習つたこともない作戦を、最後の決戦に於いて求めようとするものであつた。況んや、作戦命令の重点は、盲目滅法レイテ湾内に突入することであるという風説が伝わるに至つて、全軍の不満が怒涛の声をあげたのも決して無理ではなかつたろう。さらに又、赤道直下無人の泊地に百余日を送つた人々の神経の荒々しさも、不平の爆音を誘う一因でなかつたとは言えまい。

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