七 長官、艦隊の不満諭す
愛宕艦上、出撃前夜の宴
全軍の不満はさることながら、既にしてこの種の戦闘も起り得るであろうという想起は、艦隊の幹部も十分考慮していた。だから予めこれに備える戦法を工夫して訓練を積んではいた。すなわち敵の輸送船団を発見した場合における砲火配分、船団と護送艦隊とを同時に攻撃する場合の要領、港湾突入の方式――一団突入か二団突入か、或は三隊の時隔突進か――突入攻撃後における神速離脱――広正面展開射撃後の部隊の収拾、等々、その他幾多の想定練技が積まれた。
辛かつたけれども、幸いにして完全なる百日の訓練期間は、戦争の最中には夢想もしなかつた恵みであつた。その間に将兵は、港湾突ッ込みの術を、小学校一年生から習い始めて、間もなく大学を卒業していた。しかしながら訓練の重点が「敵機動部隊の撃滅」に置かれていたことは、艦隊の伝統と、将兵の闘魂に照らしても明々白々であつた。
歴史を繙けば、海戦名将の代名詞ネルソンが、ナイルの海戦に於てフランス艦隊に全滅的の痛撃を与えたのは、全軍の港突入によつたのである。またこれに類する主力戦隊突入の史実は幾つもある。一方に、主力艦隊が敵の輸送船団を主目標として作戦した時代も相当長い期間にわたる。英蘭仏西の四大海軍国が欧洲海上の制覇を争つた時代には、名将トロンプ(和蘭)や、ドレーク(英)の雷名が、これらの作戦と不可分になつているが、二十世紀の海上にはその跡を絶つた。主力艦隊同士の決戦が、制海権得喪の本命となつた。歴史は繰返して来たか? 太平洋戦争の舞台には、船団護送を原因とする海上戦闘が頻々と発生し、また上陸戦の攻防に基因する港湾突入戦も幾度となく展開された。海戦の思想が新しく変つて来たことは争われない。
しかしながら「制海権」の原理は寸分も変つていない。船団が無事に上陸したとしても、後方の海上連絡を絶たれたら枯死するほかはない。それを枯死させない途は「敵の機動部隊を撃滅」するほかにない。我が水上主力艦隊の使命は明らかであつた。
連合艦隊の激しい不満は、この主作戦が事実上否定され、港湾突入が最後最大の目的として命令された所に爆発した。「捷一号作戦」が命令されたのは十九年十月十七日の夜半であり、艦隊がリンガ泊地を発つたのは十八日午前一時、ブルネー湾着は二十日正午、出撃は二十二日午前八時である。それから如何に急いでも、レイテ湾に到達するのは二十五日以前には不可能だ。ところが、マックアーサー軍は十七日の夕刻から上陸を開始しており(十八日夕刻には我が守備軍の第一線を抜いている)、二十二、三日頃は全軍全弾量の陸揚げを完了しているであろう。それなら湾内に繋がれるのは六〇隻の空船だ。マ元帥の動員可能船腹は約六〇〇隻。その一割の空船に穴を開けて何になるか。大和、武蔵とボロ船とが心中をしたという戦争記事は永久に天下の物笑いとなつて残るであろう――。
「吾々は命を惜しまない。されど帝国海軍の名を惜しむ。大海軍の最後の一戦が、空船と刺し違えるというのでは、東郷元帥も山本権兵衛も地下で泣ききれまい」
沢山の意見具申が長官の机上に積まれた。また参謀長を訪うて膝詰め談判をする者も多数に上つた。
事態はかなり重大である。そこで十月二十一日、栗田長官は戦隊司令官や参謀を旗艦「愛宕」に招いて、出撃前夜の宴を張つた席上、珍らしく強い口調で次のように訓示した。
「反対論も多いようだが、戦局は諸君が想像している所よりも実は遥かに非である。国破れて艦隊残るも恥さらしであろう。恐らく大本営は、本艦隊に『死場所』を与える積りであろうと僕は思う。戦勢はそこまで迫つているのだ。然らばレイテ湾突入はいささかも辞する所ではない。しかし、世の中には奇蹟もある。本隊が一撃よく敗勢挽回の軍功を挙げ得ないとは誰が言い切るか。諸君が忘れることの出来ない仇敵、ハルゼー、ミッチャー、キンケードの機動部隊を撃滅する機会も同時に来るのだ。願わくは自重奮戦せよ」
訓示終るや一同は大声万歳を三呼して長官の決意に応えた。盃を重ねて酔うほどに、隠し芸を申出た参謀があつて全員爆笑。暫時胸底の不満を吹きとばした。夜更けて席静まり、仰げば満天の星あり、中にも天狼星は清艶なる光を海面に落して出陣の将兵に永別を告げる如くであつた。
八 大艦隊の威容あり
一千浬の殴り込み
必ずしも四條畷に出陣するのではない。高級参謀の一半には、思いを湊川の楠公に馳せる者もあつたに相違ないが、将兵の大部分は、ハルゼー艦隊撃滅の最後の一戦を期待して闘志満々であつた。航空部隊を欠く不安は拭い得なかつたけれども、眼前に大艦隊の威容を見るときは、頽勢を一挙に回えす野心の燃え上がるのは少しも不思議ではなかつた。読者も亦、日本の無條件降伏の日の十ヵ月前までは、長く国民に親しまれた軍艦の多数が未だ健在であつた姿を顧みて感慨なきを得ないであろう。依つてその名を掲げると次の陣容である。《注:「回えす」は底本のまま。》
第二艦隊(司令長官栗田中将)
第一戦隊(戦艦大和、武蔵、長門)
第三戦隊(戦艦金剛、榛名)
第四戦隊(重巡愛宕、高雄、摩耶、鳥海)
第五戦隊(重巡妙高、羽黒)
第七戦隊(重巡熊野、鈴谷、利根、筑摩)
水雷戦隊(軽巡矢矧、能代、駆逐艦十五隻)
第五艦隊(司令長官志摩中将)
第二十一戦隊(重巡足柄、那智)
水雷戦隊(軽巡阿武隈、駆逐艦四隻)
西村部隊(司令官西村中将)
第二戦隊(戦艦山城、扶桑)
水雷戦隊(重巡最上、駆逐艦四隻)
機動部隊――第三艦隊(司令長官小沢中将)
第三航空戦隊(空母瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田)
第四航空戦隊(戦艦伊勢、日向)
水雷戦隊(軽巡五十鈴、大淀、多摩、駆逐艦八隻)
(註ノ一)第一艦隊の名称は、連合艦隊司令長官の陸上移転と同時に廃されていた。
(註ノ二)小沢中将の艦隊は内地から参戦したものでその戦闘は別項に述べる。
主力艦隊は六キロ間隔の二軍に分れ、十月二十二日午前八時ブルネ一湾を出撃、速力十八ノットのZ航法(対潜警戒航進)をもつて北上し、翌二十三日の払暁、パラワン島沖を北進中に前述の如き敵潜の雷撃を蒙り、旗艦愛宕外二隻を失うの不祥事を招いたのである。縁起を担ぐ者にとつては堪え難い打撃であり、また一般の士気にも幾分の影響は免かれなかつたであろう。少なくとも目的地に到る海上が頗る多難である一事だけは全員の胸に響いたであろう。
旗艦を戦艦大和に移した栗田艦隊は、陣容を再建して更に北進を続け、二十四日未明ミンドロ島の南方を東に回つてシブヤン海に入つた。シブヤン海はフィリピン群島を両分する瀬戸内海の如きもの(広さは二倍以上)、これを東方に突破して大洋に出で、南下してレイテ湾に殺到するのが水上艦隊主力の航路である。海面には勿論島嶼もあり、敵の潜水艦や空軍の待機する絶好の地点も少なくないが、しかも、レイテ突入にはこの険路を突破する外はなかつた。
ブルネ一湾の基地からレイテ湾に突入する航路は、要約すれば二つだ。(A)はボルネオ北端からスル海に出で、ミンダナオ海を横ぎり、スリガオ海峡を経てレイテに進入するもの。(B)はパラワン島の西を北上して、ミンドロ岬からシブヤン海に入り、サン・ベルナルディノ海峡を突破し、サマール島沖を南下してレイテに到るものである。(A)の方が距離も短かく且つ危険率も幾分少ないのでこれを劣勢の西村艦隊に譲り、栗田主力は敢て(B)路をとつて前掲の進撃を続けたものである。要は、東と南の両面から同時に突入する作戦で、それは二十一日に作戦打合せが済んでいた。
栗田主力のレイテ湾までの航程は直航して約一〇〇〇浬。警戒航法や途中の会戦を予想すれば、一、五〇〇浬を覚悟せねばなるまい。而してその前半程は潜水艦の待機海面であり、後半程は敵の空襲圏内に入る。「殴り込み」の道としては恐ろしく遠い里程であり、隣村に殴り込む昔物語とは似てもつかないが、その上に全航程が敵の奇襲待伏せの海面である。知らず、陸上の連合艦隊司令部は、艦隊の何割がレイテ湾に到達し得るものと計算したであろうか。もし日米その地位を換え、日本海軍が米の兵力を以て守り、米海軍が栗田艦隊を以て進攻したものと仮定すれば、我が海軍はその大部分を海底に葬つたであろう。これは単なる架空ではない。後に書くシブヤン海とサン・ベルナルディノ海峡附近の戦闘に於て読者はこれを諒承されるであろう。
九 主力艦を狙い襲う
空襲「大和」「武蔵」に集中
徹宵敵潜水艦の襲撃を警戒しながら航程第二日を終つた水上艦隊の主力は、戦艦大和を中心とする第一陣と、戦艦金剛を中心とする第二陣に分れ、その間隔十二キロ、いずれも輪型陣(周囲を駆逐艦で包む円陣――一七五頁図の通り)を張つてシブヤン海に入る。
天明くれば旗艦大和の電探は忽ち敵の艦上機を東方の空に捉えた。時に午前七時三十分、いよいよ最大の「苦が手」が襲つて来た。「敵の空襲近し、全員部署に就け」の命令響き渡つて殺気全軍を掩う。早い者は朝飯の途中、遅い方は握り飯を一口食べかけた時間である。飯を放り出して一斉に配備に就く。この些細のような一事が爾後の戦闘に大きい影響を及ぼすのは、腹が減つては戦さは出来ぬ譬えの真理を実証するものであつた。各艦の全砲口は空に向つて林立した。
直衛機を持たない艦隊が、敵の空襲と戦う途は一に自艦の高射砲しかない。ところが、高射砲は、敵機決死の急降下爆撃を阻止するには不十分である。何機かを射落している間に自分の方が沈められる体験は日米両軍ともイヤというほど味つている。しかし無に優る万々、というよりも、この外に防禦の方法がない。とすれば、せめてこの武器を最大に備えねばならない。
見よ、戦艦大和の艦上に備えられた高射機関銃は実に百五十門を数え、巡洋艦と雖も百門を装備し、一見針鼠の姿を現出して敵機の撃墜を期す。他の大砲も勿論仰角を九十度に開いて天を睨んだ。その全砲口が火を吐いたのは午前十時四十分である。これによつて艦隊の上空には砲弾幕が張られ、そこに飛び込んで来る敵機は必ず被弾する仕組である。これを集束砲火と言う。しかし、各艦が魚雷を回避するために運動をすることになれば、高射砲の角度が統一を失うから、集束は乱れて弾幕は疎散する結果となる。だから雷爆併用の空襲に対しては、集束砲火も段々威力を失わざるを得ない。
さて敵の空襲第一波は艦載雷爆連合の二十五機であつた。
空戦時余、敵機の幾つかを射落したが、我が重巡妙高(第五戦隊旗艦)は魚雷を受けて落伍し、ブルネ一基地に退陣を命じられた。敵が戦艦武蔵と大和とを最も狙つたのは当然だ。しかし強靭無比の甲板は、命中爆弾の殆ど全部を海中に撥ね返してビクともしなかつた。おのおの受けた一発の魚雷も航進を妨げることは出来なかつた。「不沈戦艦」は堂々と進んで行く。ただ二発目の魚雷の命中と大型爆弾の数発が殆ど同時に艦橋附近に落ち、「武蔵」の十八インチ砲の方位盤が旋回不能になつた。主因は魚雷の震動によるものと推定された。いずれにしても、これからレイテ港湾に、また敵の空母に、世界で初めての十八インチ砲巨弾を打込もうとするその燃ゆる野心は一時制圧された。されど山のような巨艦は二十七ノットで白波を蹴つている。
敵去つて隊形再建に入ると、早くも第二波が襲つて来た。重雷爆二十四機。時は丁度正午である。碌に朝飯を食べていない将兵は昼飯も完全に駄目である。而して今度は攻撃を戦艦武蔵に集中して来た。やや正確にいえば、敵機の攻撃配分は十二機を全軍に向け、残る十二機の雷撃を「武蔵」と「大和」に指向した。同艦は、上図のように第一図陣の中央と内側右端に占位し、左に近く羽黒、長門と併列し、必ずしも好んで脆弱面を曝らしたわけではない。要は、米軍がその最も恐れる二大戦艦を葬むることを作戦の至上命令として、各個撃破の方針をとり、先ず「武蔵」「大和」を狙つて来たものである。
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