十 戦艦「武蔵」の最後
        魚雷十数本、爆弾二十余個

「武蔵」に襲い掛かる敵機の闘志は全く「決死」の形容詞の通りで、アメリカ海軍の「不敗魂」を見せた。実に日本海軍の好き相手であつた。戦争中の情報部では、「米鬼」という醜い言葉を宣伝し、一寸でも米軍を褒めたりしたら、忽ち国賊呼ばわりをされて、発売禁止の弾圧を喰つたものだが、海上の将兵は、敵の立派なところは賞讃を惜しまなかつた。
 例えば、艦隊出陣の翌朝に、旗艦愛宕外二艦が撃沈された時のこと。「愛宕」の探信機が 「敵潜感度甚だ大なり」という信号を発すると同時に、四本の魚雷が、航跡も見せずに命中し、続いて「高雄」「摩耶」を撃つた手際を、後刻参謀達は「敵ながら天晴れだ。あれだけの腕前は、モウ今の日本には少ないゾ」と語り合つた事実がある。
 航空機の急降下雷爆撃に至つても同様であつた。勇敢であると同時に上手でもあつた。開戦間もなき十二月十日、日本の荒鷲がマレー沖で英国の不沈戦艦プリンス・オブ・ウェールズ号を撃沈した腕前と少しも変らなかつた。いな、それと同じことを実現しようとして、同じ勇敢さを以て襲い掛かるのであつた。交戦中は夢中で撃墜に立向うが、敵の飛び去つた後の甲板の上では士官達が「敵もどうして仲々やるワイ」と話し合つていた。その急降下雷爆機の群は、未曽有と思われる艦隊の猛烈なる対空砲火を冒して、弾雷の全量を撃ち尽すまでは戦場を去らなかつた。
 忽ち第三波が来襲した。午後一時二十五分、機数二十九である。そうしてこの第三波は「武蔵」を狙うこと愈々明らかに、その殆ど大半が襲い掛かつたといつても過当ではなかつた。多数の爆弾が甲板から撥ね返るのが見える。十数発の至近弾が前後左右に百尺の水柱を挙げて艦影を包み、たびたび「やられたか?」と人々を心配させた。水柱が崩れ落ちると、そこに「武蔵」の真黒い巨体が山のように聳え且つ動いていた。これだけでモウ十分に「不沈艦」の名に値することを思わせた。
 やがて幾本かの命中魚雷の中の三本が、殆ど同時に艦首を右舷から撃つた。そのために艦首の外鈑が大きくまくれて、瀧のような水を切り始めた。航進の不自由は避け得ない。直ちに様子を質すと「速力二十二ノット可能なり」という返事だ。そこで栗田長官は艦隊速力二十二ノットに低減して(その時までは二十五ノット。突破航進には足は速いほどいい)、飽くまで武蔵を連れて行こうと企図した。同時に――一時五十五分――大本営と比島の基地航空部隊とに対して左の緊急無電を発した。
 「第一遊撃部隊はシブヤン海に於て苦戦中。敵の空襲は更に激化を予想さる。基地航空部隊及び機動部隊は、現在ラモン湾方面にあるものと推定される敵空母艦隊に対して速かに積極的攻撃を加えられ度し」
 この要請の電報は語調冷静である。しかしその行間には、艦隊将兵の怒号が渦巻いていたと鑑定して間違いなかろう。その苦戦五時間に及ぶ間、比島の基地空軍からも、大本営からも、敵に関する情報は何一つ受けない。それは一体どうしたことか。更に忍び得ないのは、比島東岸のラモン湾或はレイテ附近にある敵の機動部隊に対して、我が基地空軍が未だに挺身攻撃を実施せず、敵空母の為すが儘に任せて、その艦上機の来襲を放任しておく一事を責めているのだ。艦隊から先行した三十二機の長距離水上偵察機はどうしたのか。それは、敵艦隊の情報を一々艦隊に通報すると同時に、基地空軍をして敵空母群を撃破するための道案内にする約束ではなかつたか。死活の瀬戸際に約束は二つとも果されていない。現状の如くんば、正しく全艦隊を敵に献上し、その雷爆の実験に供するに等しいではないか(ビキニは後の話であるが)――という憤懣であつた。責任のなすり合いではない。立腹は当然中の当然であろう。而して大空襲はなお連続して殺到するのである。
(註。後の公認戦史は、この水上偵察の失敗を、基地通信力の貧弱、敵の妨害、味方旗艦の変更等に帰しているが、偵察結果の速報に遺憾のあつた一事は明解に指摘している。後の祭ではあるが――)。
 さて戦艦武蔵の艦首鈑が魚雷三発を受けて外方に曲折したのは不運の極みであつた。他の魚雷や爆弾の十何発も「武蔵」を損ずることは出来ず、その四基の推進器は依然として健在であつたが、艦首鈑が曲つて水を切つては速力が出ない。丁度、水泳の選手が頭に板をしばり附けて泳ぐようなものだ。速力の出るわけはない。現に、二十二ノットの減速令で艦隊は進んだが、「武蔵」は遅れ気味で、輪型陣の列外後方を必死に追航する有様であつた。しかも、浸水傾斜の平衡注水で艦首が沈み勝となり、全艦隊が心配している所へ第四次空襲が来た。午後二時三十分、今度は五十機に殖えた。
「荒鷲」は曽て日本海軍航空機の勇ましい呼称であつたが、今やそれは既に米海軍の名に変つていた。その荒鷲の三十機以上が、後方に孤艦となつて徐航中の「武蔵」に襲いかかつた。見るも憎らしい急降下攻撃が、回転機能を失つた軍艦の上に、――無慈悲という言葉は当らないだろう――縦横無尽に加えられた。前甲板は波に洗われているようだ。しかし残る後半の高射砲は、黒煙の間に火を吐いて、一機でも多く撃ち落そうと戦う勇士の闘魂を天空に展げた。やがて大型雷爆機二機が火煎を曳きながら真ッ逆様に墜ちて、「武蔵」護衛の駆逐艦「清霜」の両側に大水柱を上げた。「清霜」はその震動によつて、三十六ノットの快速が一挙に二十ノットに減じてしまつた。快哉を叫ぶ間もなく、「武蔵」は矢継早やに魚雷を受け、速力は十二ノットに落ちて了つた。午後三時、栗田長官は、「清霜」「浜風」を随伴させて武蔵の退陣を命じた。孤影悄然として遠ざかり行く「武蔵」の姿に、艦隊の将兵は佇立して黙礼した。浮べる艦(ふね)ぞ頼みなる超大主力艦の末路は、やがて日本の末路を占う最凶の籤とも思われる感傷を、百戦の勇士達は如何に打消したか。嘆く間もなく五次空襲が来た。
 午後三時十分、今度は戦雷爆連合一〇〇機の大編隊である。疲れきつた艦隊の上に、入れ替り立ち替り新鋭が来襲して勇猛なる攻撃を反覆し、重傷者から順に片附けて行くという面構えである。だから「武蔵」はこの第五次攻撃から生命を繋ぎ止める術はなかつた。十数発の魚雷と爆弾とに浸水甚だしく、今は僅かに二軸運転で六ノットしか走れない。艦長は沿岸に擱座しようと決心したが、その操舵さえ、急げば艦を転覆させるまでに沈下していた。艦首は刻々沈み、左舷傾斜は益々ひどくなる。そこで思い切つて、四つの機関室の三つまで注水し、一軸運転で航行した。航行とは名のみであつて実は幼児が這うような速力である。乗員は全部右舷へ、また移動可能の重量物を悉く右舷に移して平衡保持の努力を続けた。六時五十分、艦首全く沈み、前部の二大砲塔は島のように水面に浮び、機械は悉く止まつてしまつた。
 艦長は主なる士官を集めて別れを告げ、連合艦隊司令長官への報告を副長に托し――その報告は、自分は大艦巨砲主義の主張者(猪口少将は砲術の権威者)であつたが、今やその過誤を現実に認めて、誠に国家国民に申訳がない、という悲壮なる詑状――、独り傾く艦橋に残つて巨艦と運命を共にした。
 午後七時三十五分、「武蔵」は艦首を水中に没したまま左方に横転沈没した。同時に、砲塔附近から一大火柱が天に冲して艦影は全く没した。大火柱は砲弾の転動触発による誘爆か? 恰かもその時に再反転中の艦隊(次項参照)に対して、夕闇の中から最後の合図を告げる如くであつた。
 (註。武蔵の乗組員二千二百名の中約半数は救助された)

    十一 栗田長官の進撃断念?
        敵は千載一遇の好機を逸す

「武蔵」を再起不能に陥らしめた敵の第五次空襲は、「大和」にも勿論命中弾を送つたが、「長門」は魚雷二発を蒙つて速力を二十ノットに減じ、快速軽巡「矢矧」も二十二ノット以上は出なくなつた。他の各艦にも各々被害があつて、栗田艦隊の速力は十八ノットに減速された。半世紀以前の決戦速力である。これでどうしてサン・ベルナルディノ海峡の険を越えようというのか。
 もしも第六次の空襲が来たら、艦隊は半減以下となり、第七波、第八波と押し寄せられたら、艦隊が全滅しないと誰が保証するであろうか。時に午後三時三十分。いままでの来襲頻度から考えれば、日没までには第八波まで来襲し得る計算だ。しかも艦隊は東進を続けて今やシブヤン海東端の狭水道に迫り、島影前路に散見されて運動不自由の海面に差しかかつている。
 相次ぐ空襲の間にも「一休み」の時間はなかつた。修理と応急戦備に血眼であるばかりでなく、今度は潜水艦に備えて進まなければならない。現に敵潜の潜望鏡を見つけて艦隊の回避運動を行つたこともあり、駆逐艦「秋霜」が猛進して爆雷を投下したこともある。魚雷の航跡らしいものが報告されたことも、二度や三度ではない。
 幽霊の正体見たり枯尾花――の冗談ではないが、出陣第一日に、早くも一万トン級巡洋艦、愛宕、摩耶、高雄の三隻を潜水艦に撃沈されてしまつた傷痕は(高雄は大破退陣)未だ生々しく痛んでいる。これは敵の潜水艦二隻(ダーター号、デース号)が演じた晴れ業であつた。シブヤン海に散在する島蔭に、遥かに多数の敵潜が待機していないという保証は何処にもない。否な待機するのが本筋だ(事実もしアメリカが潜水艦の一戦隊をこの戦場に送つていたら、栗田艦隊は更に大なる打撃を受けたであろう。即ちアメリカ作戦失敗の他の一つの例である)。
 全将兵の神経が張つて弓弦のように海面に引附けられるのは当然だ。時しも連合艦隊司令部からの注意電報に「敵はサン・ベルナルディノまでの海面に潜水艦を使用する公算大なり。一層厳重警戒を要すべし」とあつたが、「御注意誠に有難う。当方疾くに血眼になつてます」と答える所である。見渡せば海面は空襲激闘の直後のこととて、満目これ白波、潜望鏡や魚雷航跡を見分けるのは容易なことではない。その上に、警護用と敵潜攻撃用の大切な駆逐艦は最早や十一隻しか残つていない。
 出撃時に十五隻は既に甚だ不足であつたが、今までに「高雄」の曳航に二隻(朝霜、長波)、「武蔵」の護送に二隻(清霜、浜風)を割いて了つたから、現存勢力十一隻は心細い限りであつた。加うるに艦隊速力は十八ノットだ。遅速は敵の雷撃に益々好都合だ。ただ、猪勇のみが、艦隊の東進を続けさせるであろう。
 しかし栗田長官は冷静を失わなかつた。シブヤン水道が狭くなり、敵潜の攻撃率が多くなり、且つ、空襲の第六波も近いと信じられた三時五十五分、突如全艦隊の反転(引返し)を命令するに至つた。
 要は差当つてシブヤン海の広い海面まで退却しながら形勢を観望し、味方基地空軍が敵の機動部隊を攻撃する成果を待つて突撃を再興しようというのだ。予定通り進めば全艦隊の墓場を、故郷ならぬ比島内海の海底に築くこと殆ど間違いないという実戦判断である。そこで直ちに大本営(正確には日吉台にあった連合艦隊長官本部)に宛て、一時的退却の理由及び意図を次のように打電した。
 「六時三十分より十五時三十分までの間五回に亙る艦上機の攻撃を受け被害少なからず。敵は頻度及び機数を漸増しあり、このまま強行進撃すれば被害計り難く、目的地突入の成算期し難し。依つて一時敵の空襲圏外に避退し、友軍(基地航空隊及び機動部隊)の攻撃成果に策応して再挙するを可と認めたり」
 同時に基地航空部隊に対して重ねて積極的攻撃を要望し、旧戦場を逆航しつつ西方に向つた。基地空軍は果して掩護攻撃を即行するであろうか。艦隊が踵を回して進撃を試みる機会は再び来るであろうか。時計は正四時を指していた。
 艦隊の反転は栗田司令長官の作戦を批判する重要な課題として残つている。特に最後に戦場を退いた「反転」は賛否両論未だに対立し、世界海戦史上恐らくは永久の疑問として残るであろう。「反転」は合せて四回行われ、その何れの場合にも問題を投げている。それは、ジュットランド戦のジェリコー展開以上に、史家の批評と論争の好題目となつているのだ。
 前述の第一回引返しを、連合艦隊司令部は「怯懦未練」と見た。ところが米国の提督は「聡明」と評した。天と地の相違である。栗田長官の反転の理由は前節の通りだが、なおそれに加えて「レイテ湾同時突入――西村艦隊との協定――は空襲のために六時間も遅れた。自分は単独突入の外はない。その突入には出来るだけ強力な艦隊を以て成功を期する」という理由があつた。この賛否は簡単であり、一に読者の批判に任せるが、ここではその引返しが、期せずして敵の裏をかき、結果から見ると戦略的大成功に終つたという面白い話を書こう。
 午後三時三十五分、敵の空襲第五波が去つた後も、敵の一機は我が艦隊の上空を飛んで接触を保つこと従来の通りであつた。ところが午後四時二十分頃、その一機は東方に飛び去り、二度と姿を見せなくなつたと同時に、敵の空襲はピタリと止まつてしまつた。「敵の全軍西方に退却中」という電話連絡が敵機動部隊旗艦に伝えられ、その長官から「帰艦せよ」の命令を受けて接触を打切つたものである。
 これ図らずもアメリカが、栗田艦隊を一網打尽に討ち取る絶好の機会を自ら放棄する結果となるのである。戦いが勝つたからこそ表面の問題にならなかつたけれども、もしも敗戦に終つていたら(この一連のレイテ海戦に於て)、勇将ハルゼーは正しく軍法会議に附せられていたであろう。後述するように、それから(敵機去つて後)一時間を経て、栗田艦隊は勇敢にも再び頭を回らしてサン・ベルナルディノ海峡に突進したのであるから、この反転を見届けなかつたのは珍らしい大失敗であつたこと議論の余地がない。
 その頃まで、また戦争の全期を通じて、敵情偵察には殆ど常に日本を遠く蹴落して周章させた米軍が、このレイテ決戦の重大時期に、どうしてこんな遺漏の失態を演じたかは一瞥の価値があろう。
 第一は、これも後述する小沢中将の機動部隊、通称「囮艦隊」の効果が、漸くハルゼー艦隊の上に圧力を加え始めたことを語るものであつた。小沢治三郎中将の航空艦隊は、敵の機動部隊を北方に誘い出して、栗田艦隊に対する空襲を軽減するのを全任務とし、二十四日には比島ルソン島の北方百五十浬に達して(瀬戸内海から出撃)旺んに電波を発し、明らかに敵の注意を牽引することに成功した。即ちハルゼ一提督は、成るべく速かに小沢艦隊を撃滅しようと気が急いだ。会戦すれば実力は十対三くらいの差があつて米軍の勝利は問題がないが、栗田主力と合流されては厄介千万だ。早く片附けたいと心騒いでいる所へ、栗田艦隊退却の報に接したので、綿密なる考査の暇もあらばこそ、一挙に北方に転進したものである。
 第二は心の傲りと、常識との結合による。シブヤン海戦は米軍の一方的大勝利で、野球なら一〇対〇というところだ。日本は戦艦一隻、大巡四隻、駆逐艦四隻を戦列外に失つた。それよりも「武蔵」の撃沈は何という素晴しい大戦果であろう。それは緒戦にプリンス・オブ・ウェールズ号を沈めた大日本海空軍の歓喜に優るとも劣るものではない。いわば日本の自慢の主力艦を一挙にして半減したようなものだ。たとえ「武蔵」の沈没は見届けなくとも、艦首を水中に突込んで六ノットの低速で退陣中なのを見れば沈没も同様である。お祝いのカクテールは其の夜の艦内に払底したであろう。
 かく大戦果に酔うと同時に、彼等が判断したのは、栗田艦隊退却の当然性である。あれだけ叩かれてなお向つて来る馬鹿はあるまい。狂人同士の作戦でもあれは逃げる所だろう。アメリカ艦隊なら理の当然として退却するに決まつている。而して現にその退却を目撃したのだ。明らかにシブヤン海の波はしずまつた。そこでサン・ベルナルディノ海峡の固めを解いた。かくて千載一遇の好機を逸するのである。

    十二 再転進撃を決行
        「いいんだ、行くんだ」の一言で

 こちらは栗田艦隊。敵の情況については何一つ報告を受けないまま、御先真ッ暗で海峡突破の再進撃を開始した(再挙の事情は後述)。そうして海峡(サン・ベルナルディノ)の出口にこそレイテ湾に劣らぬ決戦場があることを覚悟していた。(1)海峡の両端には多数潜水艦が発射管を向けて待つているであろう。(2)戦艦群は既に射程を測定して砲口を揃えているであろう。(3)沖合には十何隻の空母が一千余機の雷爆機を艦上に動員して待機するであろう。
 これ戦術の常識である。果してこの大難関を突破する成算があるのか。既にして艦隊は三大戦場を予期していた。第一はシブヤン海、第二はサ・ンベル海峡、第三はレイテ湾である。而してこの第二の難関こそは、空・海・水中の三軍が、疲れ切つた我が栗田艦隊に立体包囲陣を布いて殲滅戦を指向するものと覚悟していたのだ。それ故に、栗田長官は、その沖合に想定されるハルゼー以下の敵機動部隊に対し、我が基地航空軍の積極的攻撃をうるさいほどに反覆要請し、その効果だにあらば、艦隊は敵の戦艦群を必ず砲撃で制圧し、敵潜に対しては駆逐艦の勇戦に期待して海峡を突破し、一目散に最後の決戦場(レイテ湾)に南下し得るものと胸勘定を決めていたのである。《注:「サ・ンベル海峡」は底本のまま。》
 果せるかな、二十四日の午後四時半までは、敵は予想通りの必殺陣を布いていたのだ。ところが前述の事情で一挙にその陣を解き、機動部隊は北に向い、潜水艦はレイテに帰り、翌二十五日払暁、栗田艦隊が海峡から顔を出すと戦場静粛、全軍むしろ驚きと無気味さを痛感する有様であつた。これ日本軍には確かに一つの天佑。アメリカは正に呑舟の大魚を逸したのであつた。而してその原因を尋ねると、接触の一機を更に一時間だけ飛ばしておけば万事OKであつたものを、我が退却を過早に断定して作戦を急変した所にあるのだ。それなら我が方の栗田艦隊はどうして逆進撃に成功したのか?
 この上の空襲(第六波以下)には到底耐え得ないと判断して西方へ退却すること一時間半、敵の接触機は去つて再び来らず、第六波の来襲も絶えて了つた。いままでの攻撃間隔から推算すると、敵は全勝と信じて空の追い討ちを中止したことほぼ明瞭と考えられた。その時、突如として、栗田長官は全艦隊の再反転進軍を下命した。幕僚もこれには聊か驚いて問い返した。「四時の電信(退却の意見具申)に対する大本営の返電は未だ来ておりません」と。
「いいンだ。行くんだ」
 沈黙寡言の提督(栗田中将)が答えたのは唯だこの一言のみであつたという。艦隊を生死の戦場に再反転させる場合の説明は一つもない。この「いいンだ。行くんだ」の一言に依つて、艦隊は二直角に向き直り、再び魔のシブヤン海を進撃することになつたのである。「捷一号作戦」の目標は既にハッキリとレイテ湾に決まつている。途中の犬死は避けるが、危険率が少なくなれば進撃するのは当然というのが、長官の不動の決心であつた。時は二十四日の午後五時十五分である。
 かくて艦隊が東進を開始してから二時間を経た午後七時十五分、問題の訓令電信が到着した。「天佑を確信し全軍突撃せよ」という有名なる訓電是れである。

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 年過ぎて、艦隊独自の再反転進軍が証明されるまでは、右の「叱咤激励」の訓電が、艦隊の敗北精神に活を入れて勇気を再興せしめたと解されていた。事実は全然逆だ。艦隊は「いいンだ。行くんだ」と、いとも簡単明瞭に突撃を再興していたのだ、二時間も前に、お先に失敬していたのだ。だから其の訓電が披露されると、
 「戦闘の実際は任せておきなさい。陸の上から海上の実戦を指揮するのは、神様でも無理ですワイ」
 「あの空襲を知らンから勝手なことが言えるンだ。天佑という字を全滅という字に書き換えたらどんなものだ――」
なぞと皮肉や冗談を飛ばしながら意気昂然と海峡に進軍した。ジェームス・フィールド少佐はその進軍を評して(著書「レイテの日本艦隊」の一節に於て)、
 「この場合、また戦争の他の場合にも、日本海軍が示した一大特質は、絶望的難関を乗越える勇気とその能力であつた」
と言つている。大いに意を強うする言葉である。時しも西村中将から入電があつた。「我が艦隊は二十五日午前四時を期してレイテ湾東岸中部に突入する」と。同時突入は最早や不可能である。この西村艦隊は孤軍如何なる運命を辿るであろうか。

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