十三 西村中将死地に赴く
        レイテ戦の最悲壮の一環

 問題の西村部隊の惨澹たる戦況を描く前に、また何故にこの艦隊が単独で死地に吶喊して行つたかを明らかにするためにも、レイテ海戦の本質内容を一応摘記しておかなければならない。
 一、戦闘海面の世界記録――東西六百浬、南北二千浬の広大なる海域で戦われた。
 一、戦闘時間の世界記録――十月二十二日乃至二十七日にわたり、実戦時間は三昼夜半に及ぶ。
 一、全財産の賭博――我が海軍の全力を挙げた起死回生の最終戦であつた。史上未曽有とす。
 一、最多元戦闘――ジュットランド、トラファルガル、対馬の三大海戦は一元海戦であつたが、レイテ戦は多元海戦であつた。(A)栗田艦隊、(B)西村部隊、(C)志摩艦隊、(D)小沢艦隊が、別々の海上で、時を同じくして戦つた。
 アメリカの戦史はこれらを個々に分類命名し、(A)をシブヤン海戦及びサマール沖海戦、(B)と(C)とをスリガオ海戦、(D)をエンガノ沖海戦と呼んでいるが、日本では一括して「レイテ海戦」と名附けている。正確にいえば(E)として神風特攻隊――基地空軍――の諸戦闘を加えるのが至当であるが、本文は水上艦隊を主人公とした関係上、前記四艦隊の描写に重点をおく積りである。そこで、栗田艦隊がサンベル海峡を航破している最中に、単独にレイテ湾頭に忍び寄つた西村部隊の奮戦を回顧する順序である。
 西村中将の艦隊は、戦艦扶桑、山城に重巡最上を配し、その下に中流駆逐艦満潮、朝雲、山雲、時雨の四隻を伴う劣勢なる一隊であつた。扶桑、山城は日本弩級戦艦の第一、第二号で艦齢既に三十年を過ぎ、人間なら七十歳に近い老体であつた。その十四インチ主砲は健在であつたが、速力は遅く、耐久力も防禦力も著るしく衰えていた。だから開戦以来、瀬戸内海にあつて専ら訓練用に使われていた。その老朽艦まで繰り出した所に「捷一号作戦」の本質があつたのだ。即ち、「海軍の全戦力を挙げて最後の決戦を試みる」という悲壮なる決意の下に動員されたものである。勿論、両艦は改装されて若返つたには相違ないが、七十歳の人がホルモンで五十歳に戻り得る筈もないようなものだ。
 もしもレイテ突入の作戦が、艦隊の神速なる機動性を必要とするものであつたならば、西村部隊は初めから落第に決まつていた。湾内に突入して「坐り込み」、十四インチ砲弾の全量を撃ち尽して沈むという自殺戦法の場合にだけ、両艦は一応の役に立つだろう。
 栗田長官が西村部隊を別動隊として、大和や武蔵の本隊と別個の突撃路を与えたのもそのためであり、また、西村中将が莞爾としてこれを諾したのもその理由による。本隊の邪魔にならずに、単独で死地に突入するという悲壮極まる無言の協定が、二人の提督の間に成立していたことを注意せねばならない。
 任官以来赤煉瓦(海軍省の綽名)を踏んだことがなく、海上勤務一点張りで中将まで進んだ西村は、武士の典型と謂われる海将であつた。この決戦の約一ヵ月前に前記二流三流の戦隊司令官に任ぜられても別に不平も言わず、そしてレイテ決戦への参加を命ぜられるや、恰かも武士が最良の死処を得た如く、欣然としてリンガ泊地に赴いたのである。西村部隊が到着したのは十月十日夜半、即ち出陣の十二日前であつた。
 これより先き中将は最愛の一人息子禎治君を比島の戦場で失つている。海軍兵学校を最優秀で卒業した評判の若き士官(当時大尉)を失つた心情は、乃木将軍同様、言外への未練は固く抑えても、心底に残る悲しみの一塊は、これを解き得ないのが真人間の道でもあろう。「よろしい、俺も立派に戦死して見せるヨ」と、独り禎治君の霊に囁いたことであろう。
 されば出陣前夜の宴で、西村中将は全部の司令や艦長に一人一人丁寧に盃を交歓して懇ろに別れを告げていた。溢れるような微笑に死の連想は露ほども宿さなかつたが、栗田長官と小柳参謀長とは、ひそかに彼れの尊い決意を見抜いていた。その置かれた立場と心情と、そうして与えられた部隊の実力とを見ないで、直ちに西村司令官のレイテ突入戦を批判する史家があれば(現に非常に多い)、それは甚だしく正鵠を失するばかりでなく、正直一途の提督に対して著るしく礼を失するであろう。
 さて別航路から決死行についた西村部隊は、十月二十四日午前八時、早くもミンダナオ海の西口に近附いた。そこで敵の索敵機に発見され、間もなくお馴染のグラマン攻撃機二十機の爆撃に曝された。しかしこの攻撃は、いわば接触攻撃であつて、高々度から爆弾を投じ、戦艦「扶桑」のカタパルト(射出機)と搭載機を焼いた程度に止まつた。その二時間後に、シブヤン海の栗田艦隊に襲い掛かつた空襲とは比較にならない甘いものであつた。ここに敵の作戦がハッキリと読める。即ち敵はミンダナオ海から進んで来る西村艦隊を直ちに弱敵と看破し、機動部隊の艦上機を挙げて栗田艦隊に集中し、西村の方は魚雷艇に任せておき、レイテに近附いた上で十分に料理し得るものと確信したのである。
 だから、西村支隊に対する空襲はこの時のただ一回のみであつて、従つて同部隊は終日平穏に東進を続け、夜半の位置は、レイテ湾から四時間行程の処まで迫つていた。即ち突入時刻が予定よりも三時間ばかり早くなる勘定となつた。これは栗田本隊と正反対の不都合である。栗田艦隊はシブヤン海の苦戦により、レイテ突入の予定時聞から既に六時間以上も遅れている(二十四日夕刻の計算で)。西村部隊の方は午後二時頃、魚雷艇と小戦闘を交えて転回運動を一回行つた以外は、何の支障もなしに進んだので早過ぎて困る。そこで一時は艦隊速力を十三ノットに落してみたが、この低速力では魚雷が危ないから長くは続けられない。
 その頃、栗田長官が発した三つの電信――苦戦中基地空軍の出撃を要求したもの。艦隊の一時退却を通告したもの。艦隊再反転を報じたもの――は果して西村司令官に届いたかどうか。西村部隊は駆逐艦時雨一隻を除き全員戦死してしまつたから、それらの電信を傍受して作戦を調整したかどうか全然明らかでない。
 そこで西村中将の性格を知る海将達に質すと、「西村は栗田の苦戦を幾分でも軽くするため、一刻も早くレイテ湾に突入して敵の注意を牽制する決心を固めたものと思う」旨を答えるのである。これは米海軍のフィールドの著書が、西村の行動を「専断による戦術的過失」と非難しているのとは天地の相違である。
 思うに軍艦のランデブー(本来海軍用語)は平時の訓練では難かしくないが、敵を眼前にしての邂逅は容易のことではない。友達同士が汽車の時間を約束してプラットフォームで会うような簡単なものとは違う。敵の空襲、敵潜の出現、或は軍艦の損傷や回避航進、等々の事故により、予定時間の合同なぞは本来が無理な注文なのである。「二十五日払暁を期してレイテ湾の東南両面から同時に突入すべし」という文句は、文章にすればこう書くというだけのものであつて、命令した当人でも――実戦を戦つた提督ならば――心底では期待していない筈だ。西村支隊が無障害で進撃し、栗田艦隊が終日大苦戦を重ねた歴史を一読すれば、ブルネー湾で打合せた時間の通りには行かない道理が一目明解する筈である。況んや栗田艦隊がその夜(二十四日夜半)乗り切ろうというサン・ベル海峡の潮流は七ノットから九ノットの速さで渦を巻き、鳴門海峡を筏で乗り切るような困難が待つている。まして暗夜無灯で大艦隊が渡るのである。九割九分まで予定の時間に間に合わない方が本当であろう。
 ここに至つて西村支隊は、レイテ湾頭の敵を一手に引受けても、なお猛然と一人で突ッ込む外はないではないか。既にして自殺戦法を具さに諒承する所あり、且つ日本海軍の最後の様を、神も照覧あれと心に期した西村が、寸毫もためらわずに湾内に突入したのは少しも異とするに足らない。

    十四 レイテ湾頭に消ゆ
        慎重に前進、後に突入

 形容詞でなしに、西村中将は死を決して進撃していたには相違ないけれども、誤解してはいけない。それは死を急いでいたのとは違う。徒らに死を求めるような猪突漢と考えるのは公平でない。西村は(1)先ずレイテ湾に確実に到達すること、(2)その上で不退転の戦闘を挑むことであり、「死」はその湾頭港口に於てこそ覚悟されていたが、そこへ到着するまでの用意に至つては、むしろ他の三つの艦隊よりも綿密周到であつたのだ。
 ブルネー湾を出陣するや、西村は北部ボルネオ海面に敵潜の危険ありと考えて西北に大迂回し、夕刻東に転針してスル海に入り、そこでモロタイ島の敵空軍の捜索圏外に出るために再び北転し、日没を待つて三度び東転して、二十四日未明にミンダナオ海の入口に到着した。
 そこで直ちに重巡「最上」に残してあつた索敵機をレイテ湾上に飛ばした。その偵察機は午前六時五十分、湾上に到着して次の報告を送つた。
 「湾の南部水面に戦艦四隻、巡洋艦二隻、上陸海岸の沖合に輸送約八十隻を認む。スリガオ海峡に駆逐艦四隻、魚雷艇若干あり。更にレイテ島の東南四十浬の地点に航空母艦十二隻と駆逐艦十隻を視認す」
 これ実に貴重なる情報である、というよりは、日本軍がレイテ湾内の敵情を偵知した唯一つの情報である。後にも前にも、肝腎の突入目的地の実情は、この報告によつてのみ知られたのである。それは午後二時十分に栗田艦隊に通報された。
「これが全戦闘期間中、敵情に関して栗田艦隊が接受したただ一つの情報であつた」と同隊参謀長小柳中将は述べている。
 レイテ湾内にあつた敵の艦隊は、実際には戦艦六、巡洋艦六、駆逐艦三十余隻であつたが、西村の偵察情報は、高々度からの偵察として略ぼ真実を捉えており、湾内に敵艦隊があること、港外二時間航程の地点に空母艦隊のあることを明らかにした点に於て誠に貴重なる発見といわねばならない。
 西村中将は、これによつて自分より三倍も優勢なる敵艦隊が湾内にあることを知つたが、いかにこれを排除するかの作戦について如何なる自信を持つていたかは、今は何人も知る者はない。西村は、ただ退かなかつた。

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 既にして西村中将は栗田長官に対し「本隊は二十五日午前四時を期してレイテ湾の東岸中央部に突入の予定なり」と報告している。それは二十四日の午後八時三十分であつた。そこで栗田長官は、自分の航進見込みを算定した後、午後九時四十五分、次の一電を西村司令官宛に発した。
 「栗田本体は二十五日午前十一時レイテ湾突入の予定。貴隊は予定通り突入し、午前九時、スルアン島(レイテ島の外側)の北東十浬の地点に於て本隊に合同すべし」。
 この電報は極めて重大である。そもそも栗田長官は西村中将のレイテ突入後の生還を本当に予期していたのか? この点については、本戦闘の結末を書く場合に、筆者は改めて詳しく論評を試みるであろう。
 さてこの電令を西村が適時に接受したかどうかは皆目不明であるが、いずれにしても彼れは「四時突入」の時間を変更しなかつた。今となつては時間を遅らす方法はないのだ。敵魚雷艇の攻撃は頻度を増して来た。そうして二十五日午前二時二十分、その集中攻撃により「山雲」「満潮」は雷撃されて沈没、「朝雲」は大破後退する打撃を受けてしまつた。されど西村少しも怯まず、残る四隻の単縦陣を以て進撃し、午前三時二十分、突撃用意の命令を一下した。
 西村中将、艦橋に立つて東を見れば天なお暗し。間もなくレーダーは敵の駆逐艦及び魚雷艇が多数肉薄して来るのを捉えた。
 二十五日午前三時二十三分発
 「敵らしき艦影見ゆ」
 同三時三十分発
 「スリガオ水道北口両側に敵駆逐艦と魚雷艇あり。わが駆逐艦被雷。山城被魚一、戦闘航進に支障なし」
 これ西村中将が栗田長官に宛てた戦況報告の最後の二通であつた。続いて二本目の魚雷が「山城」を撃つて航進の自由を奪つた。西村は直ちに指揮下の残艦に対し、
 「われ魚雷攻撃を受く。各艦はわれを顧みず前進し、敵を攻撃すべし」
と命令した。筆者はこの言葉を永く記憶したいと思う。提督の最後の言葉として如何にも相応わしいからである。即ち、この命令を下し終るや否や、「山城」は第二発目の魚雷を火薬庫附近に受け、誘爆を起して轟沈したものである。時に十月二十五日午前三時四十分、艦は勇将の魂を乗せてスリガオ海峡の底に消えたのである。
「扶桑」艦長、少将坂匡身、直ちに指揮をとつて更に前進し、前面の敵にレーダー射撃を続けたが、今度は敵の砲弾が左右から雨のように落下し、「最上」は炎上し、「扶桑」も多数の命中弾を受け、消火も到底望みない状態となつた。それでも濛々と立上る硝煙の中から最後まで十四インチ砲の発砲閃光を断たなかつた勇戦の一幕を、アメリカの戦記は書いている。
 しかし勝敗は既に早く決まつていた。「扶桑」は午前四時十分、燃えながら横転沈没した。「最上」は火達磨になつて南方に徐航した(後に僚艦の手で沈めた)。これは悉く砲弾によるのだが、読者はその砲弾が何処から飛んで来たと想像されるだろうか。驚くべし、それは湾口に砲口を揃えて待つていた六隻の戦艦(第七艦隊)から発砲されたものであり、そうして其中五隻の戦艦は、日本海軍が開戦劈頭に真珠湾で撃破した五隻に外ならなかつたのだ。
 曰く、メリーランド、ウェスト・ヴァージニア、ペンシルヴァニア、カリフォルニア、テネシーの五戦艦であり、中将ホルデンドルフの第七艦隊の主力となりすまし(ミシシッピーを加えて)、真珠湾の仇をレイテで討とうと待構えていたのだ。斬られお富の芝居は知らないが、沈めた筈の五戦艦が揃つて顔を出すとは、少なくとも国民には気が附こう筈もなかつた。考えてみれば真珠湾からモウ三年になる。引揚げ修理改装はアメリカの工業力では易々たる仕事でもあつた。
 さて西村部隊の幹部は全員戦死し、ただ一隻の駆逐艦「時雨」のみが蹌踉としてブルネーの基地に辿りついた(十月二十七日)。かくて西村部隊は、殆ど戦果もなしに空しく滅び去つたが、その責を負う者が誰であるかは敢て問うまでもなく、また西村中将はそれを問うような人でもなかつた。
 西村中将の死は一人の死ではない。全部隊の死である。西村を助けて共に潔く散つた剛勇快活の山城艦長、少将篠田勝清、同じく扶桑艦長坂少将等の決死の奮戦振りを伝える何物も残らないのは筆者の残念に堪えない所である。ただ一隻だけ残つた駆逐艦「時雨」の艦長西野中佐が、米国の戦略爆撃調査団に陳述した所によると、
 「西村祥治司令官はリンガ泊地に於ては艦隊の実地訓練には余り力を入れないで、専ら精神訓練の方面に傾倒した」
旨を述べている。死地に臨む武人の覚悟を教育していた中将の面目を語るものであるが、果してその艦隊の全員は図上演習に於ても「死」の外に途がない「切腹作戦」を百も承知で受諾し、一同莞爾として死に就いたことを想察するに難くない。筆者はこの機会に遺族を慰めようとしたが中将未亡人既になく、その長男禎治君の未亡人も姓を代え問う由もなく、ただこの紙上から英霊に告げるの外なきを悲しむ。

    十五 継子の艦隊出現す
        志摩艦隊突入の事情

 不思議にも、西村部隊全滅の戦場へ、他の一つの艦隊が突入して来た。唯だ一隻の残艦「時雨」は驚いて日本語で呼びかけた。君達は何国の軍艦かと。直ぐに日本語で「われは那智である」と返事が来た。重巡「那智」を旗艦とする志摩中将の艦隊が現われたのである。時間は午前四時三十分。だが一体どうして別個に突入したのか。西村中将との間に作戦協定はなかつたのか。英米の史家はこれを指揮不統一の大失態として嗤う。真相を検討すれば、実は嗤うどころか、同情と嘆きとを贈らねばならない事情があるのだ。
 突入の第二陣を引受けた志摩清英中将の艦隊は、重巡那智、同足柄、軽巡阿武隈、駆逐艦曙、霞、潮、不知火の七隻から成る。第二遊撃部隊の名は立派だが(栗田艦隊を第一遊撃部隊と呼んだのに対比して)、実は艦も隻数も中途半端であり、もともとこの種の作戦に使う艦隊ではなかつたのだ。その由来を知らなければ、この艦隊のレイテ湾突入も中途半端であつた理由も諒解することが出来ない。少しく煩雑の嫌いもあるが、一つには、当時の作戦混迷をも説明することになるから、暫らくその真相を回顧してみよう。
 この志摩清英中将の艦隊は、レイテ海戦当時に於ては、栗田長官にも属せず、小沢機動艦隊にも属せず、いわば戸籍不明の闖入者みたいなものであつた。勿論、日吉台の司令部からの指揮は受けるが、レイテ突入を実行する作戦上の指揮は誰からも受けていない。いわば艦隊のフリーランスである。編成図表の上では、南西方面艦隊の長官三川中将の麾下にあつたわけだが、それも五日前に辞令を貰つた許りであり、結局は成長した継子の性質を帯びた艦隊となつていた。
「継子扱いもイイ加減にしろ」と志摩清英が仮りに啖呵を切つたとしても(当人はもつと上品の人だが)、それは当然だと同情するくらい、この艦隊は無定見にいじり回された。もと東北防衛の主力であつたのが、十九年八月、サイパン敗戦後の艦隊再建に当つて第一機動部隊(小沢中将)に編入されたのはいい。そこで空母艦隊との協同作戦を訓練しながら内海にあつたのもいい。
 問題は十月中旬、ハルゼ一艦隊の台湾空襲以後にある。台湾沖海戦は、誤まれる搭乗戦士達の戦果報告を集計して「大勝利」の号外を出した。実戦者の報告を否定することは出来ないので集計するとつい大戦果になつてしまうのが普通だが、台湾戦の場合はそれが特にひどかつた。敵の空母、戦艦、巡洋艦の撃沈十二隻、大破炎上二十三隻というのだから正に潰滅的打撃であり、敵は当分来襲不可能と判断された。驚くべし、実際は巡洋艦二隻が損傷しただけで、敵は我が航空機一七四機を撃破して大勝利の喊声を挙げながら引揚げたのであつた。
 が、その大誤報に基いて、志摩中将の艦隊は瀬戸内海から呼び出され「残敵掃蕩と不時着搭乗員救助」のため、台湾の南方海面に急派されたのである。勝戦さの後始末は愉快だ。志摩中将即ち快速部隊を率いて南方に追撃すれば何事ぞ、遥か南方に、空母十隻を中心に、戦艦、重巡二十余隻から成る大艦隊が二群に分れて堂々と航進しているではないか。その時の将兵の驚きは誰に聞く必要もない。見附かつたら五分間で撃滅されること請合いである。那智、足柄は斯かる無益の大損を避けるため、その全速力三十二ノット半をもつて一気に奄美大島に航し去つたのである。
 その志摩艦隊の上に、十月十八日、編成替の命令が到着した。五日前に、大戦果を早合点して同艦隊の台湾南方進撃を命じた失態を紛らすためか(こう評した参謀があつた)、今度は急に、海上機動反撃の主力として「逆上陸」の使命を課せられた。即ち「南西方面艦隊」の麾下に編入され、直ちに台湾沖の馬公要港に入つて機会を待つことになつた。
 ところが三川司令長官からは逆上陸に関して何等の指令も来ない。来ない方が道理だ。逆上陸とは、言うまでもなく米軍に奪われた島を奪還するための上陸作戦であり、十月中旬の戦勢に於ては、新たに奪われるのを予防するのに大わらわであつて、上陸作戦は昔話でしかなかつた(レイテ島は別として)。
 三川中将の南西方面艦隊というのは大西中将の第五基地航空部隊、福留中将の第六基地航空部隊を麾下に包含していたから(前者を第一航空艦隊、後者を第二航空艦隊と別称した)、その意味では有力な艦隊であつたが、海上の正式の艦隊としては微弱な存在であつた。だから志摩艦隊こそ海上では第一の主力であり、命令如何と待つている所へ、十月二十一日正午、今度は一転して連合艦隊参謀長から次の通りの電報が到着した。無論、三川長官からのなまの転電である。曰く、
 「第二遊撃部隊(註。志摩艦隊)はスリガオ海峡南方よりレイテ湾に突入し、第一遊撃部隊と協同せしむるを可と認む」
 というのであるが、実を言えば、これは志摩が再三進言要請した結果を実現したのだ。即ち、志摩はレイテ作戦が海軍の全力を挙げる作戦であることを知り、然らば輸送任務の如き第二次的作戦を屑しとせず、是非ともレイテ決戦に参加させられ度き旨を再三要望した結果漸く認められたものである。故にその朝(二十一日)、同艦隊の一部、若葉、初春、初霜の三駆逐艦は、高雄マニラ間の軍需輸送に出航して駆逐艦の勢力は七分の三を失つていたが、今はそれを顧みる遑もない。二十一日午後四時、急遽馬公を出航して一路コロン湾(ミンドロ島の対岸)に向つた。その航海中に、初めて栗田艦隊と西村艦隊の作戦企図を通報された始末である。
 かかる大本営の作戦混迷から遅れ馳せにレイテ湾進入を命ぜられたもので、随つて栗田隊とも西村隊との作戦協定もなく、どの長官からも直接の指揮を仰ぐこともなく、ただ、志摩長官自身のイニシアチブに依り、西村部隊の踵に即接して海峡に進入し、及ばず乍ら協力仕らんという戦闘意識をもつて、二十四日午後十時、ミンダナオ海に進軍したのだ。
 指揮系統からいつても、また先任の順からいつても、志摩が西村の指揮を受ける條理はない。西村も亦、自分がスリガオ突破の主力である以上、飛び入りの志摩から命令される立場にはいない。両隊を同一戦場で同時に使う場合に、その両隊の上に統一指揮を下す長官を任命しなかつたのは、これも大本営作戦混迷の一例だが、ここでは評論の遑がない。かくて西村は単独で進み、志摩はそれから一時間ほど遅れて突撃することを勝手に決めて進撃したのである。
 間もなく(午後十時過ぎ)、栗田長官が西村中将に与えた命令――二十五日午前十時サマール島南東十浬の地点で合同せよという無線を傍受し、自分もこれに間に合うよう更に速力を速め、午前四時頃の突入を計画し、そこで丁度西村艦隊全滅の戦場に乗り込んだ次第である。

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 経過の説明は長かつたが、戦闘はいとも簡単である。何分リンガ泊地の猛訓練も経ない上に、艦隊そのものが小規模の軽快部隊で、撃つて直ぐ逃げるという型のものであつた。戦闘も正にその通りであつた。軽巡「阿武隈」は海峡入口で被雷落伍したが、「那智」と「足柄」とは三十ノットに近い速力で前進し、四時三十分、八浬の前方に敵艦隊を探知し、同時に右方に炎上中の「最上」を視認した。各艦は一斉に右旋回して魚雷攻撃を行い、約五分間で発射を終つて回頭する途端に、那智は最上に衝突して左舷側に大穴をあけてしまつた。「慌てるなッ、燃えている軍艦が見えないかッ」と最上の将兵は怒鳴つたが、一方は魚雷を撃ち終つて大急ぎで転回する、他方は消火で夢中だつたから衝突したわけだが、どうやら「那智」の方が分が悪いのが一般の認定だ。
 それはさておき、艦隊は発射五分にして煙幕を張つて南方に退陣したので(米記者は潰走と書いている)、早打ち早逃げでパンチは全然敵に届かなかつた――。そもそも命令が根本から機宜を失していた。後にこれを計画した参謀は、調査団に対して「これは捷一号作戦に於ける一つの附録(Appendix)に過ぎなかつた」と述べている。「附録」はひどい。「附録」といえども粗末に破つて棄てられては新聞編集者は腹を立てる。故に抗議を代筆する積りで丁寧に書いた。

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