十六 惨敗を目的とした艦隊
        飛行機を持たない空母艦隊

 三方からレイテ湾を目指した艦隊が、或は全滅、或は敗走、或は重傷を負うて進んでいる時、それらと殆ど同時刻に、別個の海面で戦つて、これまた惨澹たる敗北を喫した小沢治三郎中将の戦闘を書く順序である。即ち第一機動艦隊の敗戦であつて、実はここで帝国海軍の航空兵力が名実共に滅び去るのである。小沢艦隊の使命は前にも一寸触れておいた通り、「敵の機動部隊を北方に誘致牽制して、栗田艦隊のレイテ湾突入を間接に掩護する」ことであつた。大本営の命令には「いかなる機会をものがさず敵艦隊を捕捉撃滅すべし」と附け加えてあつたが、これはお正月の「謹賀新年」のはがきであり、いな、それよりも空々しいお世辞であつた事情から書いて行こう。
 結論をいうならば、小沢艦隊は「敵艦隊に捕捉されて、撃滅されるべし」と命令する方が本筋であつたのだ。ハルゼー艦隊に会えば、千に一つの勝味もなかつたことを、海軍の凡ての人が熟知していた程のものである。戦争が済んだ後で、アメリカの提督達は、小沢艦隊がこんなにも無力のものだつたかと噴き出し、「一寸買被つたネ」、「少々欺されたナ」、と舌を出した物語があるほどの弱体だつたのである。
 つまりスリガオ海峡の西村艦隊と好取結の劣勢であり、そうして西村と同じような決死の作戦を課せられたものである。だから惨敗に終つたことを、読者は弱いと笑つては大間違いだ。それとは反対に、惨敗を目的とし、従つて惨敗によつて正しくその使命を全うしたという、レイテ作戦混迷物語の悲しい一こまに外ならないのである。
 本来は小沢艦隊こそ帝国海軍の主兵力だつたのである。既に海上兵力の新体制は世界的に変革され、「戦艦」はその席を「空母」に譲つていた。即ち海上決戦の主兵は航空母艦とその航空機であり、戦艦と巨砲は空母を護衛する第二次兵力に変つていたのである。そうして我が小沢艦隊も、その世界の新定石通りの編成を誇示していたのだ。昭和十九年六月上旬の実力(別表)を見よう。ところが、七月に栗田艦隊は離婚を強いられて南方リンガ泊地に去り、十月に志摩艦隊は南西方面艦隊に編入されたこと既述の如く、そこで小沢艦隊は、恰も主人と息子とを失つた老婦人の悲境に落ち、御自身もまた更に腕を挫折して病床に伏するという誠に惨めな境涯に陥つたのである。護衛の艦隊を二つとも剥ぎ取られたことは判るが、その上に「腕を挫折した」とは何ういうことか。それは十月十三日~十五日の台湾沖航空戦のために、麾下の航空兵力の大部分を「供出させられて」しまつたことである。つまり、自分の空母の艦上機を陸上に(台湾)捲き上げられてしまつたのである。

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 それは台湾沖海戦の第一日の戦果を誤信した大本営が、勝に乗じて一挙に米艦隊を撃滅する自信に駆られ、小沢の艦上兵力の中から、第三、第四の両航空戦隊の大部分を徴集してこれを台湾沖に注入したからである。前述の如く戦果は大虚報、そうして第三、第四の航空戦隊は大損害を蒙り、最早や再び小沢の懐ろには帰らかつた(米書はこれを豊田大将の賭博の失敗と諷している)。参考のため八月十日編制の小沢艦隊を一瞥しよう。《注:「帰らかつた」は底本のまま。》
 第一機動艦隊(小沢中将)
  第一航空戦隊(雲龍、天城:建造中)
   第六〇一航空隊:各機種計一三〇機
  第三航空戦隊(瑞鶴、瑞鳳、千代田、千歳)
   第六五三航空隊:各機種計一八二機
  第四航空戦隊(伊勢、日向、隼鷹、龍鳳)
   第六三四航空隊:各機種計一三〇機
 右の中、第一戦隊は編成中で十九年末にならなければ完成しない。頼るは第三、第四の戦隊であつたが、その兵力の大部分を台湾に移されてしまつては、我が第一機動艦隊が「病める老孤婦」に転落し、曽てハルゼー艦隊と五分に渡り合つた一年前に較べると、富豪が裏長屋に引越した姿となつた。小沢治三郎の智勇は既に定評があり、それ故にこの年の三月に主力艦隊の長官に任ぜられたわけだが、その指揮官が誰であろうと、この零落の艦隊を率いて、レイテの大決戦に積極的役割を果し得ようとは、どんな空世辞屋も口にすることは出来なかつた。
 さらばレイテ戦出撃の小沢艦隊の内容と、同長官の決心とを聞こう。前表の第一航空戦隊(天城、雲竜)は艤装中で間に合わない。残つたものをかき集めて編成した「第一機動艦隊」の兵力は次の通りであつた。
 第三航空戦隊(小沢中将)
  空母瑞鶴、瑞鳳、千代田、千歳
 第四航空戦隊(松田少将)
  戦艦伊勢、日向
 第三十一戦隊(江戸少将)
  軽巡五十鈴、大淀、多摩、駆逐艦杉、桐、槙、桑、霜月、秋月、初月、若月
 一応の艦隊には見える。前稿に裏長屋と評したが、一軒建で小さい門がついていたとでも言おうか。ところが家に入つてみると雑作は実にひどいものであつた。文字通り零落の見本であつた。前記四隻の航空母艦の上に飛行機らしいものが乗つていないではないか。箪笥をあけたら空ッぽというやつである。それは余りにも醜であり、且つ大本営命令に「敵を捕捉撃滅すべし」とある以上、兵器が空ッぽでは将兵一同に挨拶も出来ないというので、小沢中将は苦心惨澹して飛行機をかき集めた。
 即ち天城、雲竜のために準備中であつたもの(第六〇一航空隊)、及び前記「供出」の残り物を拾い集め、とにかくにも機動部隊主力の艦上兵力を調達した。貧乏長屋の主婦が、何かのお目出度に、とにかくもお膳の上を揃えたようなもの。
 しかし淋しさは次の通りであつた。
 空母名  戦闘機  戦爆機  爆撃機  攻撃機   計
 瑞鶴    二四   一六    八   一二   六〇
 瑞鳳     八    四    〇    四   一六
 千代田    八    四    〇    四   一六
 千歳     八    四    〇    四   一六
 計     四八   二八    八   二四  一〇八
 僅か四隻か? 全部で一〇八機か? では前表にある「伊勢」と「日向」はどうした? この三万トンの戦艦は、後甲板から十四インチ砲四門を撤去し、そこを飛行甲板に改造して航空機各々二十四機を積み込み、天晴れ「第四航空戦隊」の主力となり、砲空両戦二刀流の達人を名乗つていたのではないか。悲しむべし、主砲四門の撤去は二重の無駄になつた。そこに積み込む飛行機が無くなつて了つたのである(台湾へ供出)。大本営の説明に言う、「伊勢、日向は戦艦として使用せり」と。なるほどそれに相違はなかつたが――。軽空母は更にあと二隻あつた筈だ。「隼鷹」と「龍鳳」である。これまた、積む飛行機が無いため瀬戸内海に留守番を仰せ附かつたとは情けない。かくて小沢艦隊の紙上現有勢力八隻、三一二機は、現実には「四隻、一〇八機」に激減した。一〇八機とはアメリカ正規空母の一隻分ではないか。それを空母機動艦隊と銘打つて南海の決戦場に赴くというのは、如何なる心臓もこれに及ぶものはあるまい。ところが更に悪いことがある。航空機の戦力は、機と搭乗員とから成ること言うまでもないが、その搭乗員が大部分未熟の練習生であつたという大事件である。洋上二百浬の空に戦つた後に母艦に帰つて来ることさえ(母艦も移動している)、生易しい訓練では出来ないが、まして荒天に、或は母艦の急航中に、無事に甲板に着艦する技術に至つては、三月や半歳で仕上がるものではないのだ。年月をかけた猛訓練の後に、初めて甲板上の発着と、敵艦に対する雷爆命中が出来るのだ。その肝腎の航空兵が払底してしまつたのだ。
 曽て真珠湾に、マレー沖に、世界の耳目を驚かした勇敢にして巧妙なる海空軍の戦士達は、ミッドウェー海戦を境とし、その後相次ぐ空の消耗戦に戦死し、昭和十九年十月の現在に於ては生き残る者何人という悲境にあつた。その間補充訓練は懸命に続けられたが、その戦士達も、六月のマリアナ海戦(空母三隻喪失)と、前記台湾沖海戦とに於て大量に失われ、今や九〇%が未熟の練習生となつていたのだ。何んぞ飛行機その物の性能を問わんや。良機も猫に小判である。況んや悪機をやである。その頃、海空軍を志願した若人の燃え上がる愛国心に対しては、何人も頭を下げざるを得なかつたが、しかし、大和魂と航空戦の技術とは別であつた。
 見よ、十月二十四日正午の第一次会戦(後述する)に於て、小沢艦隊から発進した攻撃隊は全部で五十八機であつたが、航空母艦に帰つて来たのは僅かに三機に過ぎなかつた! しかもその三機は敵の所在を見附けないで帰つたものである。勇将小沢はこれで戦闘を続ける積りか。

    十七 武者振いする「いけにえ」
        飛立つた各種の三十機、眼伏せて送る小沢中将

 “A decoy,that was our first primary mission”――「囮、それが我が艦隊の全使命であつた」と、小沢中将は米国調査団の面前で述べている。戦後の作文ではない。出撃の前に、小沢は豊田長官に対し「本艦隊を敵機動部隊の攻撃に曝らすよう行動し、彼れを北方に誘導して栗田艦隊の被害を軽減する。本隊がそのために当然蒙るべき大損害は顧みない」という作戦方針を示して諒解を得たのである(十月十九日)。
 豊田の原案では(捷一号作戦)、小沢艦隊も一意南下し、栗田艦隊のレイテ突入に策応して北方から突入を実施する計画になつていたのだ。小沢は劣弱なる艦隊がレイテ湾に到達する見込みは九九に対する一の割合であると考え、同じく全滅を期するにしても「有効」に全滅すべきを主張し、かくて「囮となつて食われる」作戦を提議して容れられたのである。
 賢明なれども悲壮である。囮という言葉は正に悲惨の代名詞だ。アメリカの本にも“all sacrifice”と書いてあるが、全くのいけにえだ。敵艦隊を誘い出して自分を撃滅するまで撃たせようとするのである。勿論戦争だから会えば攻撃する。しかし撃つのは目的でなく、撃たれるのが目的である。撃つては逃げて敵に追わせ、レイテと反対の方向に追わせて自分が全滅する頃は、栗田艦隊がレイテ湾を制圧するだろうという希望を繋いでの自殺戦法であつた。
 しかしこの企図を将兵に打明けるわけには行かない。そこで作戦命令は、敵の機動部隊を比島の北方に誘い出して撃滅するにあつた。が、艦隊の航空兵力を眼前に見ている将兵が、果して撃滅の可能性を信じたかどうか、吾々には疑わしく思われるが、しかし前線将兵の胸中には決してそんな懐疑的の躊躇なぞはなかつた。依然として勝利の信念に導かれていた。まして小沢治三郎は全員の信頼を集めていた。出撃の信号が旗艦瑞鶴の檣上高く翻るや、将兵は戦意に身慄いして一斉に錨を挙げた。二十五日午後五時半、艦隊は豊後水道を後にした。《注:「二十五日」は底本のまま。》
 翌二十一日早朝に索敵飛行機を西南方に飛ばせた。ところがその中の三機は遂に帰艦しなかつた。訓練未熟と通信不備のためである。その日は平穏に南下し、二十二日も同様に索敵機を発進させたが、またもや三機が帰還しなかつた。平穏な海上でこの始末では、戦場に於ける飛行機の帰還能力は著るしく不安であることが小沢長官の脳裡を去来した。もしも戦闘が比島ルソン島の飛行圏内で戦われる場合には、艦上機が着艦不能のために海中に墜ちて徒死するよりも、むしろ比島のクラーク飛行場に着陸させて救う方が適当かも知れないという思い遣りの考え方が(戦力を他に残す利益もある)、段々と小沢の頭を支配して来た。
 二十四日午前十一時十五分、索敵機は敵の一艦隊が南西百六十浬の地点を北進しつつあるとの確報を伝えた。小沢長官は直ちに攻撃を指令したが、同時に重要なる他の指令を附け加えた。曰く、「攻撃機隊はもし天候の状況によつて各母艦に帰着すること困難なりと判断する場合には、ニコルス飛行場或は他の陸上基地に飛行すべし。着陸と同時に本艦に連絡すべし」というのであつた。即ち前記の構想を直ちに実行に移したのだ。陸に行つてしまえば、機動艦隊は武力を失つて、例えば軍艦から大砲を除き去るのと同然の無力に帰する。それでも敵艦を撃ち、敵艦を自分の方に吸収することが出来れば目的は達するという、小沢艦隊の戦略思想であつた。
 勇躍して飛び立つた攻撃隊(十一時四十五分)は、戦闘機三〇、戦爆機一九、雷撃機四、攻撃機五の合計五十八機であり、練度さえ高ければその満々たる闘志と相俟つて、甚大なる損害を憎い敵空母群に加え得るであろう。しかし小沢は見送つて眼を伏せた。その五十八機は実に七、八種類の異なれる年式の飛行機であつたからだ。曽て真珠湾に翼を列ねた日本海空軍の姿いまいずこに在りや。悉く型が違う寄せ集めの中古品の一団に、小沢はどれだけの期待をかけたであろう。が、魚雷は天下無比の強力魚雷だ。二五〇キロ爆弾も一流の破壊力を持つ。うまく命中すれば敵の空母は轟沈するであろう。

    十八 敵は囮へ襲いかかつた
        無念! 栗田本隊これを知らず

 最後の決戦に飛び立つた海空軍の中、瑞鳳、千代田、千歳から発進した第一陣は、戦場附近で敵のグラマン機と交戦した後、比島のクラーク飛行場に飛んだ(敵艦を発見しない)。第二陣の瑞鶴攻撃隊(戦闘機六、戦爆機一一、攻撃機一)が敵艦を攻撃し、空母と軽空母各一隻に火災を起さしめたのを認めて(戦果未確認) これもクラーク飛行場に着陸した。そうして三機だけが、敵を見ないで母艦に帰つて来た。
 悲しむべし、これ帝国海軍機動部隊の艦上機が、敵艦を攻撃した最後最終の一戦であろうとは。小沢中将はひそかに予期していたであろうが、今これを書いている筆者にも(恐らくは読者にも)殆ど信じられないような哀れ果敢ない攻撃が、海の荒鷲の「ザ・エンド」であつた。闘志九十五点、性能二十点、訓練度五点。この平均点では何処もパスしない。
 更に重要なことは、この敵機動部隊との会戦の報告が、苦戦中の栗田長官に達しないことであつた。その時分、栗田艦隊はシブヤン海に於て、敵の空襲第二波を受け、遠く小沢部隊の誘致作戦を期待しているのだが、この会戦の報告は到達しない。逆に栗田艦隊から苦戦中の報告を聞くのみであつた。旗艦瑞鶴の発信機の低能率によるのであつた。いずれにしても、小沢長官は敵を北方に誘致する作戦の不十分なことを認めた。そこで前衛司令松田千秋少将をして「伊勢」「日向」を率いて夜戦に前進せしむると共に、なお一意ルソン島の方向に急進した。
 小沢長官はその日の会敵を必至と見た。そこで、機数の上でも練度の上でも余りに劣勢なる艦上機を、徒らに敵の餌食にするよりは、基地に送つて幾分でも働かせることを海軍全体の利益と認め、午前六時十分、直衛戦闘機だけを残し、攻撃の余力の全部、即ち戦爆機五、攻撃機四、爆撃機一を比島のツゲガラオ基地に飛ばせてしまつた。十機は翼を上下にたたいて「左様なら」の合図も淋しく飛び去つた。ここにも小沢の真価を見る。
 果せるかな、八時十五分頃、百二十機が二隊に分れて小沢本隊(瑞鶴、瑞鳳、伊勢、大淀、駆逐艦桑、秋月、若月、初月)と松田支隊(日向、千代田、千歳、五十鈴、多摩、駆逐艦霜月、杉、桐、槙)の上に殺到した。艦隊は残れる戦闘機十三機を動員して迎撃したが、九時三十分までに全部が墜ちて了つた。それからはただ敵の雷爆に身を任せる一方である。そうして操舵Z運動で爆弾をよけながら敵を惹きつける囮の芸を演ずる最終段階である。
 恰かもその時、栗田艦隊は敵空母三集団の最南端にある(こう判断した)一集団と交戦中であり、大急ぎでこれを撃滅した上で他の集団に向うべく焦慮追撃中であつた。後述する如く、栗田は敵の三乃至四の空母群に包囲されつつあるものと判断し、レイテ湾を西方六十浬の近傍に眺めながら、先ずその包囲を斬り開く一戦を戦い、然る後にレイテに突入するという迷路に立つていたのだ。
 小沢中将は戦況を報告しない筈はない。戦闘開始と同時に栗田長官に対して歓びの電報を発した。「敵艦隊は北方に誘致され、目下全力をあげて我が機動部隊を攻撃中なり」と。即ち囮の成功しつつあることを急報したのだ。
 何たる不運ぞ、この電報もまた栗田長官の許へは達しないのである。だから栗田は依然孤立無援と観念して独自の判断から危局を打開しようと戦つていたのだ(次稿以下参照)。悪いことは重なるものだ。折角の小沢の犠牲的大成功が、作戦の危局に利用されなかつたとは。
 さて空襲は午後三時まで反覆された。敵は対空砲の有効圏外から悠々と爆撃した。命中率は貧弱であつたが、長い時間のことだから遂に瑞鶴以下の空母全部と、軽巡多摩、駆逐艦初月の七隻が沈められた。「瑞鶴」は真珠湾攻撃に参加した精鋭の唯一の残存艦であつた。その沈むとき(午後二時十五分)、長官小沢治三郎は頑として離艦しない。思い起す、英の不沈戦艦プリンス・オブ・ウェールズ号が緒戦に我が海空軍に沈められたとき、東洋艦隊司令長官トム・フィリップ提督は幕僚達の切なる退艦懇請に対し「ノー・サンキュウ」と答えて従容として波間に没して行つた崇高なる海将の姿を、小沢提督もまた再現する決心なのだ。
 そこで大前参謀等説得懇請の後、両腕を扼して駆逐艦若月に移乗させ、後に軽巡大淀に長官旗を翻して敗残艦隊の北進を続けた。ところが午後七時、小沢は全軍反転を命じた。伊勢、日向の十四インチ砲を以て夜間追撃戦を強行するというのだ。南進二時間半に及んだが、速力遥かに及ばず、夜半兵をまとめて奄美大島の基地に帰つた。かくてエンガノ沖にハルゼ一提督の主力を吸引した囮の犠牲作戦は、それ自体は「成功」の裡に幕を閉じたのである。

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