二十五 九死一生を限度とす
栗田の作戦履歴を見る
栗田長官が率いていなかつたら恐らく艦隊はレイテ湾内に全滅していたであろう。栗田は九死一生論の建前からレイテ突入を固執しなかつた。そこに、何か、性格の流れというようなものが動いているのではなかろうか。それは栗田の過去の戦闘履歴の中にも漠然と観取されるから――神がかりの説ではない――その二、三の例を茲で回願するのも徒爾ではあるまい。 、
昭和十七年十月、ガダルカナルの戦勢は漸く急を告げ、海陸両軍協同してこの戦略要衝の奪還に努めつつあつた。この時、連合艦隊司令長官山本大将は、海軍も全力を尽す意味に於て艦隊のガ島突入を発案した。それは有力なる戦隊を以てルンガ湾内に夜間「殴り込み」をかけ、敵の飛行基地を艦砲射撃で潰して了おうというのであつた。そうしてその射撃用砲弾として三式焼夷弾が採択された。その砲弾(十四インチ砲弾)は空中で炸裂して六百個の焼夷弾となり、地上に分散落下して万物を焼き尽すという恐るべき弾丸であつた。当時連合艦隊はトラックにいたが、そこで数回に亙つて実験を行い、効力十分と確信を得てそれを的確に飛行場に撃ち込むことに決まつたのだ。的確に打つためには、軍艦が照準予定線上を一直線に厳密に航行し、敵の妨害があつても変針してはならない。ただ直線上を往復して(泊地正面十数浬)、飛行基地の全面に洩れなく焼夷弾の雨を降らせるのである。弾数一千発、即ち焼夷弾六十万発。B29なぞは足許にも及ばない。
しかしながら夜間敵の港湾内に潜入し、十数浬の正面を一直線に往復して約一時間半の射撃(千発を打つため)を実施するのは冒険以上のものである。先ず無事には帰れない戦いであり、或は全滅を覚悟する方が常識であつた。その命令を受けたのが、当時の第三戦隊司令官栗田少将であり、その率いる戦艦は金剛と榛名であり、金剛の艦長が小柳少将であつた(レイテ湾殴り込みの使命を帯びた二人がルンガ湾殴り込みにも同行した奇縁は面白い)。
その時栗田は山本に対して一つの條件を提起した。それは全員に陸戦用の武器――機関銃、小銃、鉄冑、手榴弾等々――を与えよ、というのであつた。理由は、
「本作戦は全滅の危険が十割に近い。湾内で爆弾や魚雷を被ること必至であろう。全員が溺死する戦闘は自分には引受けられない。そこで致命傷を受けたら、艦を沿岸に乗りつけ、全員が陸戦隊となつて戦う。戦つた後に運があれば我が陸軍部隊と合流する可能性もある。この生還率を示して初めて部下を死の戦場に導くことが出来る」
というのであつた。長官山本大将は手を打つて賛同し、当時陸軍の兵器不足を補うために融通しておいた海軍の陸戦用具を至急回収して栗田艦隊に提供した。
(註。読者中には最近封切られたアメリカ映画「太平洋作戦」を見られた人があろう。あの飛行基地の炎上は即ちこの決死攻撃の驚くべき成果――米軍には忘れられぬ苦戦――を示すもので、前後を通じ、ガ島戦中の最も輝かしい勝利を記録したのであつた)
前記の挿話は、栗田の「一割生還率」の持論を雄弁に説明すると同時に、レイテ湾頭の艦隊反転が、勇気を欠いた結果では絶対にない、という証明にもなるだろう。目的地の寸前から引返した幾つかの理由の中、その一つを当人の性格に帰すべきであると考える私は、この序でに他の実戦挿話を語ろう。
ガ島落ちて戦場がブーゲンビルに移つた当時(十八年十一月)栗田は陸軍の逆上陸を支援する目的で、重巡艦隊を率いてラバウル進出を命じられた。栗田は古賀長官に対し「駆逐艦程度で十分ではないか」と意見を述べると、古賀長官は「その通りだが、実は重巡が何もしないで長くトラックに遊んでいるという批評もある。この際その証明の積りで行つて呉れ」と答えた。栗田は諾したが「その代り、戦闘機の護衛は十分に頼みます」と念を押してラバウルに進航した。入港の其朝、燃料補給中に大空襲に見舞われ、重巡艦隊は大損害を受けつつ港外に脱出した。空には味方の一機の掩護もない。約束の戦闘機はどうしたのか。重巡艦隊がこんな作戦で損傷しては馬鹿の骨頂ではないか。「俺は直ぐ帰らしてもらうヨ」と至急信で司令部に電請し、全艦隊を率いて翌日トラックに帰つてしまつた。古賀は微笑を以て迎えた。
この直截的行動と、このレジスタンスとは、そのままこれをレイテ湾頭に移して符節を合するではないか。一年半の後、同じような條件の下で栗田の性格が一変する筈もないからである。
まだある。それは愛宕艦長中岡信喜大佐の戦死である。前記正午の爆撃で、旗艦「愛宕」は最も多く狙われた。中岡艦長は艦橋の最上層で指揮をとつていると、爆弾の大きい破片が横から飛んで来て艦長の胴を半分斬つてしまつた。彼れは担架に乗せられて梯子を降るとき、第二艦橋で指揮していた栗田司令官を顧み、
「長官ご機嫌よう」
と挨拶をして行つた。血は迸つて致命傷は一目明瞭だつたが、彼れは微笑を以て別れを告げて行つた。医務室に横たえられるや、軍医長に向つて「万歳を言つてもいいか」と尋ねた。軍医長は「未だ未だ」と励ました。一分ほどしてまた「モウ万歳いいだろう」と促がし、自らそれを唱えながら笑顔のまま瞑目した。この一事は栗田の心底に何ものかを焼き附けた。
剛気磊落な頼もしい部下を無益に戦死させたことは、重巡の出撃と戦闘機破約とに対するレジスタンスを一倍強めたに相違ないが、それよりも、「長官ご機嫌よう」といつた一言が、耳底深く残つて消えないという栗田長官に、今また一万二千余名の部下を、前述の情況の下でレイテ湾の死の戦場に連れて行く決心がつくであろうか。
西村中将に対する場合も亦同じ。顧みるにその前夜九時四十五分、栗田長官が西村司令官に対し「二十五日午前十時、サマール島南端の東方十浬の地点に於て本隊に合同する如く行動せよ」と命令した意味は何であつたか。西村中将はブルネー出撃に際して既に決する所あり、またスリガオ海峡に臨んで突入時刻を通告したのに対し、その突入時刻から六時間の後に反対側の海上で再会を指令しているのは一見可笑しい話である。
それは栗田が、「一割生還論」の慰めの言葉を西村に送つていわゆる激励の辞としたものであろうか。いや左様ではあるまい。それは、部下の司令官に対し、長官として「生還して来い」と指令している言葉としか思えない。大本営の命令は命令だが、何も好んで死ぬことはない、徒死する勿れ、という意味を兵学校の同窓生に伝えていたのであろう。西村は「突入」の辞を文字通りに解釈して湾内深く進入する決心でいる。栗田は、レイテ湾頭を横ぎつて湾内に艦砲を撃ち込んで通過することを、立派な突入と解している。既に幾回も実施したガダルカナル突入戦は悉くその通りであつた。湾内にあぐらをかいて砲弾を打ち尽すのは作戦の常道ではない。だから栗田の命令は「レイテ湾を砲撃して速かに東に抜けて来い」という意味に解して差支えあるまい。栗田自身も亦、その発伝の時期には、レイテ湾突入を目的として、枚を啣んでサン・ベル海峡を突破しようとしている時だ。そうして午前十時に西村と会し、合同してレイテ湾を砲撃した上、ミンダナオ海を通つてブルネ一に帰ろうと考えていたのだろう。要するに、西村が突入時刻を通告した文面と、平素の行動から見て「死」を目的とするものと察し、敢てそれを諌止した電命であつたろう。
栗田は海戦の定石を正直に踏む人である。如何なる場合でも人命はこれを尊ぶ思想を、自然に教えられている如くである。そういう型の提督が、あの敵中包囲孤立の情況の下で、一方の血路を拓いた後、また再び孤立無援の死の戦場に戻れるであろうか。
聞く所によれば、軍人は苦戦悪闘している時は案外に死を恐れない。ところが戦闘が去つて無事の世界になると、今度は逆比例的に死を恐れるものであるという。そうした心理は軍人ばかりではなくて、人間に共通のものらしい。昭和十九年末から二十年頃の日本人は、国難の前には死を恐れず、終戦時敵が上陸して来たら死んでも構わぬといつた婦人の団体さえ少なくなかつたほどだ。
平和に復して人命の尊きを知る今日から顧みると、同一国の国民が、かくまでに考察を一変するのは不思議なほどである。御国のための犠牲といえば命を鴻毛の軽きに比したが、今ではそんな御国が何処にあるのかと不思議がるような世相である。現に日本では殺人犯の生命まで大切にする強盗の天国が実現――これは譬えが過ぎたか。
さてレイテ湾での自殺を中止して、活路を敵艦隊との決戦に求めた栗田長官は、如上の軍人心理に支配されて遂に再び死の戦場を振返らなかつたのであろうか。しかし、軍人が死に面しては死を恐れず、生に面するや俄かにこれに執着するというのは、前者が悪戦苦闘に興奮の余り、一種の精神異常症に陥るからだと、心理学者は定義する。
ところが栗田の場合はこれにも該当しない。彼は常に冷静を失わないことを以て海軍部内で不感性のゴシップを作つていた程だからである。そうすると「大反転」を演出した理由は、前述の情況判断と、一割生還主義と、部下思いと、レジスタンスと、それらの集成の結果であろうか。私は長々と自分の判断を書いた。が、レイテ決戦の正しい歴史を書き残す目的と、推察論とは両立しない点がある。結局、御本人の栗田長官に会つてこれを確かめる外はない。
二十六 栗田長官自身に聞く
「疲労の極、判断を誤つた」という
栗田長官は聞きしに優る寡黙の提督であつた。特にレイテ湾の問題については語らないことに決めて既に十年を送つた。悪夢を忘れようと努めていたらしい。敗軍の将、兵を語らずという態度であつた。が、旧知の関係もあり、極めて簡潔に要点を聞くことが出来た。
「レイテ湾の近くまで迫つて引返して了つたのはどういうわけか」
「その時はそれが最善と信じたが、今考えると僕が悪かつたと思う。なにしろ命令なんだから。その命令を守らなかつたのは軍人として悪かつたという外はない」
簡単明瞭である。軍律犯すべからずという定規にあててしまえば、話はそれで終りである。これだけで引き退がるわけにも行かない。
「それなら、その最善と信じた判断を、今日から顧みてどう思うか」
「その判断も今から思えば健全でなかつたと思う。その時はベストと信じたが、考えてみると、非常に疲れている頭で判断したのだから、疲れた判断ということになろう」
「そんなに疲れていたのか」
「その時は疲労は感じていなかつた。しかし三日三晩殆ど眠らないで神経を使つた後だから、身体の方も頭脳の方も駄目になつていたのだろう」
二十三日に旗艦愛宕が雷撃されて沈んだことは読者の知られる通りだ。その日は終日対潜警戒、翌二十四日がシブヤン海の空襲、その夜がサン・ベル海峡突破、二十五日が空母艦隊との会戦だから、心身共に疲れ、わずかに精神の緊張によつて身を保つていたわけだ。
「情報を手にして幕僚会議を開いて反転退却した真相は?」
「その時は退却という考えはない。幕僚とは全然相談しなかつた。自分一個の責任でやつた。情報の正否を確かめる暇もなかつたが、要するに敵の機動部隊が直ぐ近所にいると信じたのが間違いだつた」
「近所にいたことは正確ではなかつたのか。現に波状空襲を受けていたのだから」
「それを捕捉出来ると思つたのが、つまり判断の間違いなんだ。敵は百マイルくらいの遠方で戦うのだから、いくら追つても捕まるわけはないのだが、それを捕捉して潰してやろうと考えたのが間違いだつた。何しろ敵空母撃滅が先入観になつていたので、それに引摺られたわけだ」
そこで筆者は、レイテ湾に突入しなかつたために、一万何千の将兵が助かつたのだから、結果から見てよかつたではないか、と質したら、「それも一つの問題だネ」と答えただけだつた。大局からみて確かに一つの大きい問題である。
転じて敵機動部隊の捕捉が不可能と観念された午後四時半頃、栗田は再びレイテ湾に引返す決心はなかつたかを質した。彼れはハッキリと答えた。
「その時はレイテは最早や頭になかつたと思う。自分の記憶では、明日のシブヤン海の空襲のことや燃料の心配をしていたようだ」
続いて、一旦死地から引きあげて来て、再びその死地に引返すことは人間には出来ないというが、そんな心理を感じたかと、聞いて見た。答は、「引返そうかとは全然考えなかつたから判らない」というのである(註。この心理描写は一日分の原稿に値すると思つていたが簡単に逸してしまつた)。そうして附言して
「レイテ湾は動かずにあつた。機動艦隊は動いていて会敵は未知数であつた。命令もそうだが、未知数の方へ反転したのは拙かつたと言われれば弁解は出来ない」
と述べる。私は、作戦命令の本質に対する批判や、連合艦隊の本当の司令長官が前線で指揮しないで、神奈川県の日吉台から電報で命令していたことに対する感想を聞いたが、巨砲沈黙、ただ苦笑のみを残した。
終りに「ちようど野球の敗戦投手というのが僕です」と彼れは結んだ。そうして「貴方は記録が好きのようだが、僕の艦隊が空襲を受けた世界記録ですよ――大和は十九回受けた――」と附け加えて会見を終つた。
二十七 満身創痍、基地に帰る
「大和」水を飲むこと五千トン
この時に至つては(二十五日午後四時~六時)、栗田長官は、決戦を断念し、如何に敵機動部隊の空襲を避けてサン・ベル海峡を突破するかに専念していた。今までは追つたが、これからは追われる身だ。戦場攻守の情勢は一変した。そこで艦隊は一旦東方に追撃する姿勢をとつて航進し、薄暮迫るに及んで、六時三十分、一挙に海峡を目ざして進んだ。そうして九時三十分にそれを乗り切つた。さて栗田のレイテ突入放棄の報告(午後四時受信)を手にした日吉台の司令部は、幕僚が顔を見合せて暫く言葉もなかつたが、今更名案の出る筈もない。そこで四時四十七分発で「今夜乗ずべき好機あらば夜戦を行うべし。見込みなければ指揮官所定により補給地に向え」と命令した。艦隊は七時二十五分にこれを受信したが、昼間に触接のない夜戦は不可能だから、そのままサン・ベル海峡へと急いだ。よく読んでみると、司令部の命令も形式的に出した一つの申訳のように見える。
その夜栗田中将は比島の基地航空部隊(大西、福留両中将)に対し、
「敵は来援機動部隊の艦上機を以て二十六日吾れに報復攻撃を加えるものと信ず。その敵はレガスピ半島(註。サンベル海峡の北面)の東方または北方にあるべし。これ貴隊が敵に対して先制攻撃を加え、制空権を奪還すべき無二の好機会を迎うものと思惟す」
と、要請及び勧告を電報して、一路、二十四日に通つたシブヤン海を西航した。
果せるかな午前八時三十四分(二十六日)、敵の艦上機三十機が来襲し、巡洋艦「能代」は魚雷を被つて航行不能に陥り、戦艦「大和」も爆弾二発を喰つた。十時四十分、第二次の空襲が来た。今度は当時の最大B24の三十機で専ら旗艦「大和」を狙つた。二人兄弟の「武蔵」も沈んだのだから今度はお前の番だとばかり襲い掛つて来た。揚錨機室に浸水し、またその外鈑に大穴を開けた(そのため「大和」は碇泊が出来ず、ブルネ一湾に帰つてもただ漂泊するだけであつた)。
B24の五百キロ爆弾は大きい威力があり、他の一発は一番砲塔左前方の水線部に大穴を門けた。暫らくして第三波六十機が来襲した。その爆弾で「能代」は完全に沈められたが、「大和」も更に三発被弾し、浸水量が三、〇〇〇トンに達した。そこで後部に二、〇〇〇トンを注水して水平を保つたから、合計実に五、〇〇〇トンの水を呑んだわけだ。五千トンといえば巡洋艦一隻分だ。それだけ水を呑んで約一千浬を航行帰還した「大和」は、やはり「不沈戦艦」であつた。
「大和」は幾つかの至近弾のために巨体が大地震に遭つた古家のように揺られたが、その水柱は概算丸ビルの二倍の高さに上騰し、その落下する海水で艦檣の長官以下は両三回洗われ、煙硝の臭いが服にしみて帰港の後まで残つたという。それは戦艦「長門」の場合にも同様で(命中四、至近弾九)、共に後の戦さ物語の一つになつた。
漸くシブヤン海を脱出した栗田艦隊は各艦いずれも重油の尾を曳いて走つていた。三昼夜の戦闘で損傷し、リベットが緩み、少量の油が漏れるのだ。陸軍なら血をたらしながら陣営に辿り着くのと同じた。しかも道なお遠し。今度は敵の潜水艦が待ち伏せているのだ。出陣の門出に重巡三隻をやられているのだから、疲れ切つた艦隊は尚更ら危い。そこでパラワン水道を抜けて(午後六時)新南群島を回り、敵潜も出入し得ない通称「デンジャース・グラウンド」――危険島堆――の中を縫い、南支那海を迂回して、二十八日午後九時三十分、漸くブルネー湾の基地に帰つたのである。
顧みるに六日前、決戦必勝の旭日旗を湾頭の朝風に翻して威容海を圧した艦隊は、戦艦七隻、重巡洋艦十一隻、軽巡洋艦二隻、駆逐艦十五隻、合計三十五隻の大艦隊であつたが、今や残るもの、戦艦四、重巡二、軽巡一、駆逐艦八の合計十五隻となり、加うるに何れも大小の損害を蒙らない艦はなかつた。ひとり、全然傷を受けない幸運の一隻があつた。駆逐艦「雪風」であつた。
これまでに打ちひしがれた艦隊は、モウ二度と戦場に赴く勇気も消え去るのが常識だ。ところが日本は不思議な海軍を誇り持つていた。甲板上の立話に「近く雲龍と天城の艤装が済む。それに葛城も程なく出来るそうだ。この三隻の空母と一緒なら敗けるものか」と若い将兵は勇気凛々であつた。大局を見る幕僚幹部は、口にこそ出さなかつたが、帝国海軍が其の日を以て終焉に近づいたことを痛感した。何分にもひどい損害であつた。国民はその惨敗の原因を聞き度いであろう。

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