三十 レイテ戦完敗の跡
「不適当なりしや」の御下問
さてレイテ海戦の跡を顧みると、敗北は余りに惨めだ。栗田艦隊の前掲の損害に、更に小沢艦隊の損害を加えると、本作戦に於ける軍艦の喪失は、
戦艦三隻、航空母艦四隻、重巡洋艦九隻、駆逐艦十三隻、潜水艦五隻――合計三十四隻
に上り、敵に与えた損害は僅かに弱艦四隻に過ぎない。全然勝負になつていない。戦時稀に見る奇現象である。丁度西村部隊がレイテ湾頭で仇を討たれたのと同様、全面的に真珠湾の報復を受けたようなものだ。しかも真珠湾は奇襲によつて不用意を撃つたものだが、レイテは日本から攻勢に出かけて返り討ちに会つたものだ。準備をして攻めて行つてこの惨敗はどういう訳か。練習を積んで遠征した野球チームが、三十四点対四点とは、類例の曽てない珍試合である。一体、帝国海軍はこんなに弱い海軍であつたのか。
否な、筆者はそうは思わない。根因は、惨敗を蒙ることを目的としたような作戦そのものに帰するのだ。それならこれくらい負けても不思議はない。読者の既に知られる通り、この作戦命令は「艦隊の死場所」を指示したものである。大艦隊を、一千浬の敵地へ丸裸で航進させ、最後が港湾の中へ突入せよ、というのだから、初めから戦略の常識を破却して立案された自殺的作戦なのである。長官が馬鹿正直であつたら一艦一兵も帰還することはなかつたであろう。
昔なら恐懼に堪えず、と書くところだが、翌二十年四月、大元帥陛下が海軍幕僚に対して質疑下問された次の一問を見よう。曰く、
「レイテ海戦に於ける帝国海軍水上艦艇の使用法は不適当なりしや否や」
と明記されている。その不適当という一句に注意しなければならない。通常の用語は「適当なりしや」と言うところだ。それを特に「不適当」の疑問句を用いられた所に、深甚の意味が潜んでいるのを発見するのである。少なくとも「不適当」の言葉が繁く陛下の耳に達したことを語るものである。これは当時の侍従武官府の某氏の秘話であるが、レイテ海戦でどうして斯くまでに損害を受けたかを、陛下は後後まで深く御懸念になつておられたという。
これに対して海軍幕僚が如何なる奉答をしたかは知らないが、それには冷汗一斗を流して作文を書いたことであろう。国家国民の軍艦を、戦争なるが故に自殺させるという法はなかろう。一戦艦を沈めるのは二千人の将兵を殺すことだ。無謀な作戦でない限り、それは最高指導者の権限内に成立する。それに値する戦果なしに必死無生還の作戦を命令するのは、何かの迷いに非ざれば即ち自暴自棄以外の何物でもなかろう。
宜なる哉、元陸軍大佐種村氏の著「大本営機密日誌」の中、偶々レイテ作戦決定の項を見ると、給油船のことで問題になつたが、陸軍の幕僚は誰れもこの作戦を無茶な自棄的なものとして否定した。しかし海軍側が力説するので、巳むなく所管の当局に任せる外はなかつた、と書いている(要旨)。陸軍も随分無謀な作戦をやつたろう。その陸軍から無謀を嗤われた一事を以ても、レイテ作戦の乱暴さは明解されるであろう。命令した豊田大将に言わせると(米国戦略爆撃調査団の訊問に答えて)、
「南方からの油の供給が断たれ、艦隊は内地にいては燃料払底で動けなくなる。では南方に常駐するとなれば、内地から武器弾薬を送ることが出来ない。どの道立往生である。然らば最後の一戦を賭すべきであると考えた」
と説明するのである。これも一つの理窟であろう。「艦隊は何をしているンだ」という国民の隠れたる声に答える意味もあつたろう。敗勢の大局既に明らかに定まる、無敵艦隊の最後の一暴れを希う万一の期待もあつたろう。ただ、戦つた後に、再び翌日の戦闘を用意する港もなく、燃料を補給する途もなく、そうして全空を敵に掩われた絶体絶命の海面を戦場とした所に問題が残るのだ。
ところが意外なことは栗田が平気でそれを引受けたことだ。栗田は語る――
「陸上で若い参謀達が計画するものには、実戦者から見て随分乱暴だと思うのがある。ところが演つてみると案外実行が出来るものだという体験を僕は感じていた。レイテの場合も、甚だ無理だが一番やつてみようかと心の中で一決した」
これは豊田連合艦隊長官に対する最大の福音であろう。一番やつてみようと大冒険に乗り出し、「まあこの辺で」といつて引揚げて来た。そうして附言する――航空力があつたら相当にやれたのに、それが今でも残念だと。
三十一 神風特攻間に合わず
潜水艦戦隊も戦果乏し
栗田中将が如何にも惜しかつたという空軍の協力は、レイテ海戦の四日間には遂に一つも得られなかつた。惜しいというのは、それと協同出来れば敵機動部隊も一群や二群は撃滅が出来たし(敵の本土進攻に大打撃)、レイテ湾内を射掃することも出来たというのだ(彼は全然ホラを吹かない人だから、その可能性は高く買つていい)。もう一つ欲しかつたのは直衛機であつた。また一連の索敵機であつた。この二つについては度々陳べているから省略するが、直衛戦闘機なしに大艦隊を敵地に進める無謀については、比島基地航空隊長官の方が先刻御承知で心痛していたことも附言しておいてよかろう。即ち十月二十三日、大西瀧治郎中将は司令部に電請して、
「栗田艦隊を直掩せねばならないが戦闘機の整備が間に合わない。レイテ突入計画を二、三日延期して貰い度し」
というのだ。しかし、栗田は既に出撃して進航中であり、二、三日その辺を歩かせる燃料もないし、小沢も西村も作戦突進中なので、栗田は裸でシブヤン海に乗り入れを余儀なくされた次第であつた。それよりも、栗田の作戦海面は、基地空軍が活躍する絶好の場面だし、またその計画はレイテ作戦の大なる一項でもあつた。ところが全機種を集めて百機しかないし、練度も甚だ低い。そこで台湾から福留繁中将の第五基地航空部隊を移駐したが、海上攻撃の練度は甚だ覚束ない。そこで大西は遂に「特攻」の戦法を敢て採用するに至つたこと前述の通りだ。
特攻は十死零生の戦法。素より命令することは許されない。海軍の命令は九死一生を限界点とする。下から燃え上る炎であつても、出来るだけそれを消し止めるのが、日本の提督に教えられた伝統の道であつた。既にして其の年六月十九日、海軍はマリアナ海戦で痛敗を喫し、戦勢いよいよ容易ならぬ状態が、将兵の間にぼつぼつと話題に上るようになつた。そこで非常戦術――体当り――の決行が、一部将校の闘志の裡にひらめいて来た。
時を同じくして、その頃の飛行機搭乗員の訓練事故は目に見えて殖えていつた。着艦訓練中に事故死する若人が毎日四、五名という悲痛なる実情であつた。そこでこれを目撃する搭乗員の間に、「同じく着艦訓練で死ぬくらいなら、敵艦の甲板で着艦戦死する方が遥かに優しだ。爆弾を抱いてやれば一人で大艦を沈め得るではないか」という考え方が拡まつて行つた。遂に滔々たる流れをなすに至つた。ここに於て第三航空戦総司令官大林少将や、空母千代田の艦長城大佐は、これら若人を組織化する特攻部隊の編成を小沢長官に献策するまでになつた。
が、豊田大将は流石にこれを許さなかつた。衆先んじて将これに従うの時機を待つた。待ちきれなかったのは有馬少将であつた。台湾沖航空戦の最中(十月十四日)、司令の身を以て敵の空母に体当りを決行し、一艦を傷けて(多分重巡ヒューストン号)舷側に散華した。これが部下の特攻精神に強い刺戟を与えたことは言うまでもない。その燃え上る特攻の十割戦死の志望者に涙を以て諾を与えたのが大西中将であり、十月二十一日、第一神風特攻の「大和隊」の二機がセブの基地から発進、二十三日同じく二機が飛び立つたが、未帰還で消息を絶つている。二十四日と二十五日の両日に亙つて、敷島隊五機、山桜隊二機、大和隊七機、若桜隊四機、菊水隊二機、朝日隊二機の合計二十二機が、レイテ、タクロバン方面に敵空母を求めて必死の出撃を敢行したが、ただ一つ若桜隊の一機がレイテ湾内の敵艦に突入するとの無線以外には全然消息を絶つてしまつた。
直掩機が上空で見届けない限り、特攻機から戦果の報告は聞けない。直掩機は艦隊にも送れない払底で、それ自体が爆装して体当りをするような実情だから、戦果は一にアメリカ側から聞く外はないが、この時機に於ては、未だ驚天動地の戦術に関する報道は伝わらない。(註)大西中将は屈しない。二十六日から二十七日にかけて、大和隊の七機の外に、第二神風特攻の忠勇隊、義烈隊、純忠隊、誠忠隊おのおの三機編成で出撃したが、これも戦果を収めないで空しく散つた。かくて、レイテ作戦中に於ける基地部隊の血の特攻協力は、哀れ実を結ばずして果てたのである。特攻にも技術が必要だ。敵の発見、奇襲、砲火回避、命中、容易の業ではない。やがて空母エセックスを屠り、その他敵艦を損傷させて、日本の「戦術の一」となつたのは、レイテ戦以後のことに属する。
基地空軍の微弱にして、遂にレイテ戦中無為に終つた実情は判つた。それなら、潜水艦はこの一戦に活用出来なかつたのか。アメリカなら Where is submarine? という大きい活字が毎日新聞紙面に現われるところだ。
開戦時六十四隻を有し、戦争中に百二十六隻を増勢、合計実に百九十隻、二十五万四千トンを投入した日本の大潜水艦隊は、レイテ決戦を迎えるに当つて、そもそも如何なる実勢にあつたのか? 戦争三年の間、潜水艦の勝利に関する大本営報道部の発表はついぞ耳にしないで過ぎたが、君なお健在なりやの疑念は、心ある人々のひそかに抱いた不可解の謎であつたろう。潜水艦隊は確かに実在した。三輪義茂中将を長官とする第六艦隊がそれであつた。だが、その勢力は前記の隻数と対比すれぼ、秋風落莫、長官の下に大和田、石崎、魚住、工藤等の専門家(司令官、少将)が空しく減少して行く戦隊の上に額を集めて嘆息する有様であつた。残存隻数僅かに三十二隻(老朽二十隻除外)、その中の二隻は輸送専門、四隻は印度洋交通破壊に常在、十三隻は新造訓練中、即ちレイテ海戦に出撃の出来るものは僅か十三隻に過ぎなかつた。
本来なら「捷一号作戦」による全力集中戦であり、また潜水艦の活躍には絶好の舞台だつたのだから、たとえ十三隻なりとも、一足先きにレイテの戦場に待機させるべきであつた。それが小沢艦隊よりも遅れて出撃したのは、連合艦隊司令部が既に潜水艦に多くを期待しなかつた一証でもあるようだ。事故のため十一隻が出撃し、二十四日には、ラモン湾沖に三隻、サマール島沖に四隻、スリガオ島沖に四隻を配置する筈で、計画は良かつたが航海が遅れ、陣を布いたのは二十五日から二十六日の間であつた。それも栗田艦隊の戦闘中、或は敵機動部隊の作戦中、多くの艦船を発見したのであつたが、惜しむ可し、伊五六号が魚雷を数発打つた以外は遂に攻撃の報告が残つていない。潜水艦による敵側の報告は、護送空母が微傷を負うただけであるから殆ど零に近い(伊五六号は輸送艦一、空母一を攻撃した)。そうして我が潜水艦の未帰還は五隻に達したのだから、レイテ戦参加の他の艦隊に較べて「損害」ではヒケを取らなかつたわけだ。
敗因は遠く真珠湾攻撃の日に予想された。真珠湾作戦には二十七隻の精鋭潜水艦を以てハワイ海面を封鎖し、空襲で撃ち漏らした脱出敵艦を雷撃する計画であり、期待は却つてこの方にかけられていたのが、事実は完敗に終つた。潜水戦隊の報告に「警戒された港湾封鎖や軍艦攻撃は甚だ困難なるを体験せり。要するに潜水艦の作戦主目標は軍艦にあらずして商船にあるものの如し」と。海軍首脳部は唖然として暫らく口を開き、やがて「漸減作戦」の誤りの愚を反省自恥するの外はなかつた。しかも潜水艦に対する多年の因習的使用法を一変することが出来ず、自然と無理な作戦を強いて、徒らに兵力を損するような結果になつた。が、他の有力なる敗因は敵の対潜警戒法と攻撃法の進歩と、自分の兵装の旧式なのに帰すべきであつた。電探を持つ潜水艦と、それを持たないものの戦闘は、鉄砲と槍の勝負でしかなかつた。レイテ決戦に於ける名誉回復の絶好機にも却つて汚名を加えるような結果になつたのは、その罪全く人になくして機械の上にあつた。「潜ぐり屋」と呼ばれ、黙々と潜つて苦闘を重ねた将兵こそ気の毒の至りであつた。
現にドイツの専門家は日本の潜水艦を仔細に検査し、二、三の大欠点を発見してヒトラーに報告した。ヒトラーは手本として二隻のドイツ潜水艦を日本に寄贈し、一隻は呉軍港に到着したが、戦争後半を迎えて実用化されずに終つている。いずれにしても、当時の状態では潜水艦をこの種の作戦に使つても効果は挙がらないのが普通であり、結局、レイテ海戦は、各方面悉く無理の集積であつて、そうして無理は通らないという道理の証明に終つた。
註。二十四日午前九時三十八分、我が特攻機はハルゼー艦隊中の一群――エセックス、ラングレイ、レキシントン、プリンストンの四空母――を襲つてプリンストンを爆撃沈没させている。同時に其の救助に赴いた巡洋艦バーミンガムはプ号の最後の大爆発のために損傷し戦闘不能に陥つたことが戦後に初めて判つた。
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