四 「大和」遂に沈む
        惜しかつた人と艦と

 その夜、種子島や屋久島を過ぎ、午前六時、沖永良部(おきのえらぶ)島を離れて九州南西海上に進出するや、隊形を大和中心の「輪型陣」に改め、五分時隔のジグザグ航法をとつて一路沖縄を目指して進む。輪型陣の航法は昭和四年、米国海軍が太平洋を進撃する場合の渡洋作戦の航法として案出したもので、原名をリング・フォーメーションという。それを私が「輪型陣」と邦訳して紹介したのが用語として今日に残つたのも何かの縁であろう。この戦記には幾度となく輪型陣が現われ、そうして此の最後の「菊水作戦」も、淋しいながら此の航法を執つた。前章栗田艦隊のシブヤン海に於ける輪型陣と較べると転た零落の今日を嘆ぜざるを得なかつた。
 暫らくの間、味方の掩護機十数機が空にあつていささか意を強くしたが、間もなく飛び帰つてしまつた。そこで艦隊もまた、大和、矢矧の艦上機を鹿児島の基地に返した。撃墜されることが必至の飛行機を、祖国防衛のために惜しんだのである。偵察機をまたないでも、後方一万メートルの海上を敵の潜水艦が浮上追跡し、空にはマーチン偵察機が、積乱雲の間に弧を描きながら同航しているのだ。今は何をか隠さんやである。我が行動は手にとる如く明らかであり、後方は潜水艦で遮断幕を張り、そうして前面には敵の機動部隊主力の搭載機数百機が魚雷と爆弾を墳装して待機している。進むも退くも敵、空中も海底もこれまた敵。
 もとより退くなぞとは何人も考えない。ただ願わくは明払暁沖縄に突入し、大和が誇り持つ十八インチ砲の巨弾を敵の陣営に叩き込むのみ。恐らくは十五万フィート・トンの大破壊力を有し、東京から大船の距離で、十六インチの鋼鉄を貫く世界的大威力を敵の橋頭堡に打ち込んだら、一発一大隊を吹き飛ばすであろう壮絶痛快なる光景を期待するのみ。戦艦大和はこの巨弾を一千発以上も積んでいるのだ。神よ、道を与え給えと祈つた。しかし、如何なる奇蹟も、沖縄への道を開くことは出来まい。果せるかな午後十二時三十分、左方二万メートルの雲間から二機、続いて五機、更に十機、二十機、三十機の編隊が艦隊前方を横切り、その直後に百機以上の大群が、三波四波と重なつて、見る見る我が輪型陣を包んでしまつた。艦隊は五千メートルの疎開隊形に変じ、速力三十ノットをもつて南下しつつ、一斉に応戦の火蓋を切つた。
「大和」に対する敵の爆撃と雷撃とは、勇敢を極めたと言つていい。アメリカの海空軍が「大和」に襲い掛つたのはこれが四回目である。第一回はシブヤン海(一〇・二四)、第二回はサマール沖(一〇・二五)、第三回はシブヤン海(一〇・二六)であつたが、十数個の直撃弾と多数の至近弾を与えても遂に撃沈の目的を果し得なかつた。「今度こそは」という意気込みで襲い掛かる百余機に対し、大和は唯だ単に受けるだけである。百五十門の高射砲と高射機銃とは、織り糸のような火箭を空に向つて連射し、相当数の敵機を撃墜したが、敵は新手を間断なく投入して雷爆撃を続ける。我が砲弾には限りがある。結局、鋼鉄の身体で何時間堪えるかの問題に帰着する。
 第一弾が甲板に落ちたのは、十二時四十分であり、魚雷の第一命中は十二時五十分頃であつた。それから直撃された爆弾の数は何十であつたか判らない。魚雷は十五発まで数えたというのだから、やはり天下無類の堅牢な軍艦であつたことが実証された。無類に堅牢でも、何時間と続けて撃たれては結局は沈まざるを得ない。三時間余り撃たれ通した後に漸く浮力尽きて最後が迫つた。
 伊藤長官は艦橋に集まつた幕僚の死の決心を叱咤し、若い人々が御国を見棄てて徒死するとは何事だ、即刻下艦せよ、と言つた。初めて聞く中将の叱咤の声に、一同は高い艦橋から檣廊を下りて行つた。その間に艦は大爆発を起して没し、多数は廊廓の中で沈んだ。艦橋で有賀艦長を縛つていた副長のみが水面に浮び上つた。縛つたというのは、身体をコードで羅針盤に捲き附けたことである。有賀大佐は副長に対し「俺は大和と同体の者だ。同体が離れてしまつては不可い。俺は水泳が達者だから、水に浮かんだら或は泳いてしまうかも知れん。ここにコードが一束ある。これで俺を十重二十重に羅針盤へ縛り附けて呉れ。最後の望みを聴いて呉れ。上官の命令でもあるゼ」と微笑しながら命令した。豪放にして快活なる有賀艦長の平素を知つていた副長は、その命令に従つた。《注:「泳いてしまう」は底本のまま。》
 有賀大佐は縛られながら、伊藤中将に向つて「閣下は掛け替えのない提督です。お願いだから無事に退艦して下さい。私が御覧の通りに身替りをしているではありませんか」と切言した。伊藤整一長官は、平常のような優しい微笑を湛えて頷いていた。が中将は、英提督トム・フィリップがマレー海戦で旗艦プリンス・オブ・ウェールズ号と運命を共にしたのと同じ道を選んだ。伊藤もフィリップも共に次の最高指揮官を約束された逸才。そうして共に軍令部次長から艦隊長官に転出し、共に不沈戦艦に坐乗して、共に空軍の雷爆に戦死した。共に惜しむ可し。
 さて有賀艦長は間違いなく「大和」と共に沈んだ。僚艦「武蔵」の猪ノ口艦長、同型大空母「信濃」の阿部艦長と同じ最後を遂げた。世界的三大巨艦が同じ運命に帰したのも何かの縁因であつたろう。昭和二十年四月七日午後三時、坊ノ岬の南方九十浬の地点に於て、世界に二度と出現することのないであろう不出世の巨艦は、永えに消えたのである。《注:「縁因」「不出世」は、ともに底本のまま。》
「大和」は、人間が曽て斯かる巨艦を建造したという記念として、例えば「国際連合」の保管にして残しておき度かつた。徒らに菊水作戦を呼号して九州の南方海底に葬つてしまつたのは惜しい限りであつた。戦果としては何もないのだ。沖縄本島の戦闘が、その日だけ幾分閑散であつたという程度のことは当然あり得たろう。後に司令部から「第二艦隊の犠牲的勇戦奮闘により、我が菊水特攻機の戦果大いに挙れり」という感状が到着した(その日海軍航空隊は沖縄で特攻攻撃を行つた)。第二艦隊の生存艦は全部で駆逐艦五隻だ。五人の艦長が顔を見合つて苦笑した。

    五 特攻の犠牲二、一九八名
        神風吹かざりし後の思い出

 昭和十九年十月二十一日。この日、絶対に生還の途がない神風特攻機(久納中尉、国原少尉等)二機が比島ミンダナオ島セブの基地を飛び立つた。これが「特攻」の嚆矢である。
 続いて二十三日に二機、二十四日に十機、二十五日に二十二機、二十六日に十九機と合計五十五の飛行機が、百十人の決死の搭乗員により、爆弾を抱いて敵の艦船に体当りを決行すべく発進された。レイテ作戦中の出来事である。その時は、不幸にして敵の機動部隊を発見することが難かしく、大部分は途中航続力が尽きて、空しく散華したのであつたが、後にマニラの戦闘、更に沖縄戦に至つては、相当程度の戦果を認められた。それよりも米軍に恐怖の念を与えた痛撃は隠れもない事実であつた。
 もとより戦局の大勢を支配することは遂に不可能であつたが、当時広く宣伝された所謂「七生報国」の愛国心に精神の糧を供する作用は甚大であり、おそらくはこれが「御国を思う若人」の霊を慰める第一の供養でもあつたろう。
 戦い済んだ後、アメリカの航空隊司令が、横須賀基地に駐屯する搭乗員達に向つて「君達は日本の神風特攻機を何う考えるか」を質してみた。すると、十人の中の七人が「敬意を払う」と答え、残る三名がその行為を否定した。アメリカには自殺戦術は、思想的に存在しないけれども、国が亡びようとする瀬戸際に臨み、戦争第一線の軍人が、一身を投げ出して国難に赴くという犠牲の精神にたいして、七割までの支持者が現われたのは意味深い事実だ。アメリカ人が、斯くまで評価する愛国心の尊さであれば、日本人にも少なくとも同率の支持者があつて宜しかろう。
 立教大学蹴球部の主将だつた植村真久君(少尉)は、神風特攻第三号機で散つた。学徒応召で出陣して、特攻を志願した人々は、何千人という数である。吾々は、失われた軍艦を弔うのと同じ心を以て、これらの尊い犠牲者を弔うべきであろう。神風特攻に出撃して突入戦死した人の数は実に二、一九八名に上り、飛行機数は一、一九二機に達する。
 戦果は、期待したほどに大きくはなかつたが、相当ではあつた。比島及び台湾戦に於て日本側が正確と信じたのは、空母撃沈四、大中破一四、戦艦以下艦艇撃沈九、大中破一二、総計三九となつているが、アメリカは一層正確に表示し、神風の命中を蒙つた正式空母は、イントレビッド、フランクリン、エセックス、レキシントンの四隻、第二級以下の空母はインデペンデンス、ベローウッド、セイント・ローの三隻であり、その他の軍艦で損傷したもの四十数隻に上り、撃沈五、大破二三、中小破一二と公表している。更に沖縄戦となつて特攻を反覆集中した戦果を、キング元帥報告は、次の通りに書いている。
 「沖縄に於ける敵の三月二十四日の第一回攻撃から抵抗の停止された六月二十一目までの間に、航空母艦、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、上陸用舟艇の各艦艇二百五十隻が日本の航空攻撃によつて損害を受けた。大部分は特攻攻撃によるものである。これにより駆逐艦以下の艦艇三十四隻が沈没した」
 即ち相当の戦果であるが、問題はこの異常なる例外攻撃法を「航空戦術の一つの型」として定石化した所にある。爆弾を落し、魚雷を投射して、機と人とは帰る常道を、機も人も同時に落してしまう所に、経済的且つ人道的批判が生れざるを得ない。愛国心、若人の犠牲心は尊んで余りあるけれども、その死を戦術の常法として確立した兵術思想は、世界戦史の冷厳なる批評の前に容認されるであろうか。
 が、その時はそんな事を考える遑はなかつた。今から思えば身の毛のよだつ「本土決戦」を、さも「当然の結論」として策定した軍当局であるから、特攻方式を更に一歩進め、昭和二十年七月には、三、五〇〇機に上る特攻機を九州各地に分散隠匿し、敵の上陸作戦を防止する手筈を整えたのも不可解ではない。三、五〇〇機は海軍機だけであり、その頃に陸軍も別に一、三〇〇機以上を提供して海軍の指揮下に入れたから、約五千の特攻機が体当りを行い、仮りに五機に一機の割で命中すれば敵艦艇一千隻に損害を与える計算であるから、九州へは易々と上陸進軍は許さぬという意気込みであつた。沖縄戦では九〇二機が特攻に出撃し、二〇〇機は命中したという推定から算定されたものである。
 しかし米艦艇の対空射撃力が日毎に上昇しつつあつた実情から考えると、十機に一機の命中も難かしかつたかも知れない。それよりも其の当時海軍の可動航空兵力の殆ど全部を一戦に投じ尽せば、敵の第二次、第三次上陸戦に対して何うするのか、という考察は、その頃は最早や思索力の外に消えていた。元寇を多々良の浜に防ぐ一戦に全機を決死投入しようと策したものである。

    六 昭和二十年は特攻の年
        外国にも人間魚雷あり

 この有様を遠く眺めて心を痛めていた一人の老提督があつた。時の首相鈴木貫太郎である。鈴木大将が、既に敗戦の近いのを達観し、前途ある青年を大量に自殺させるのは忍び得ないとする配慮から出たものか何うか、その点は確認し得ないが、沖縄戦闘中の一日、海軍軍令部の参謀を官邸に招いて懇談した結論に次の一節を強調した。
「生還の見込みが全然無い用兵は厳正な意味では作戦とは言い難い。日本海軍の用兵不文律は九死に一生を得ることを限度として来た。この点一考すべきである」と。日清戦争では威海衛突入の水雷艇長であり、日露戦争では最も勇敢な駆逐隊司令として名を残した人の、その言の重さを参謀は認めざるを得なかつた。しかしながら危機に追い立てられた統帥の府は、敗勢迫る毎に正攻法を遠ざかり、いよいよますます「特攻」の道を邁進したのである。一つは資源も生産力も尽き、搭乗員の技術も著るしく低劣となつては、非人道と知りつつも、最早やこの道を歩まざるを得なかつたのであろう。
 されば昭和二十年は「特攻」の年であつた。秋水戦闘機、烈風戦闘機は共にB29を捕捉撃墜するために設計され、試作も済んだ頃に終戦となつたが、「桜花」や「震洋」は沖縄戦で出現し、神風特攻機と一体になつて決死の作戦を実行し、その後同じ作戦用として多数を準備中であつた。
「桜花」は潔く散るという通念に出所を求めた「体当りグライダー」である。八百キロの大爆弾を積み、大型攻撃機に抱かれて目標附近に至り、そこで放たれて乗員の操縦によつて敵艦に命中するのだ。命中はむずかしいが、四月十六日の第三回菊水攻撃に出動して敵艦一隻を沈めたことが記録されている。飛行機よりも簡単に製作が出来るのが着想の基であつたが、抱いて行く大型機が揃わなければ問題にならない道理であつた。
「震洋」は簡単明瞭であつた。モーター・ボートの頭部に炸薬を装填してぶッつかるのだ。小学生でも考案しそうな単純なものであるが、大群を以て襲えば、敵前で機銃掃射を受けて沈む中には、一隻か二隻は砲火の間を切り抜けるものも出来ようという着想だ。モーター・ボートなら、衰えたりと雖も大量生産が出来るので、相当量を造つて洞窟の中に保有した。それでも「伏龍」よりは優ろう。「伏龍」は、人が爆雷を背負うて水中を潜行し、敵艦船の底に歩み寄つて爆破する方式であつた。伏龍隊が組織されて訓練中に終戦となつた。戦局が断末魔に迫るにつれ、人命を計算に入れない攻撃法が種々案出されたのも、あるいは時の勢いであつたろう。
 ところが、人間が爆雷を携行して敵の艦船を奇襲する思想は、ひとり日本にだけ発生したのではなく、(イ)英国は二人乗りの「豆潜水艦」を造つてノルウェー海岸の入江に隠れているドイツの小型戦艦を爆沈しようと計画し、(ロ)イタリア海軍は「人間魚雷」を以て英米の艦船を七回も攻撃した実績をもつているのだ。
 イタリアは一九四一年に人間魚雷を以てジブラルタル軍港に潜入し、英軍の油槽船デンビデール号他一隻と貨物船一隻を爆破し、また同年十二月十九日には、アレキザンドリア軍港に潜入して、英国戦艦ヴァーリアント号と、同クイン・エリザベス号の艦底を爆破し、一時的ながら二隻の主力艦を航行不能に陥れるという戦果をあげたのである。これは魚雷に二人が跨がり(潜水艦に運ばれて港外で発進)、碇泊中の敵艦の底に魚雷頭を留め金で繋ぎ、時限信管(二時半乃至三時間)によつて爆破する方法であつた。魚雷頭は分離され、二人の乗員は港外に潜り出るか、上陸して捕虜となるか、何れの道、人命は救われる約束の下に行われる準特攻戦術であつた。前記アレキザンドリア軍港の場合は、二人の士官が英艦の側を泳いでいる所を捕われたが、黙秘して爆発目的を達したのであつた。
 また一九四三年にジブラルタル軍港を襲つた特攻は、浮袋をつけた爆弾を背負つて港内に泳ぎ込み、それを敵の艦船底部に繋ぎ留めて、再び泳いで脱出したものだ(時限信管応用)。これは日本の「伏龍」と兄弟分であるが、それによつて米船オーチス号を撃沈し、他の二隻を大破した。これらの特攻出撃数は七回で、敵艦船の撃沈或は大中破十四隻、特攻隊員の戦死三、捕虜三という記録が残つている。
 その人間魚雷は、巡航距離が十六キロで、速力は僅か三ノット。操縦者は騎手のように魚雷に跨がつて行くのだから、聊か以て児戯に類するともいえるが、乗員の生還を期するのが前提である限り、斯うした設計になるのだ。これに比べると、日本が戦争末期に敢行した「回天」攻撃は段違いに物凄いものであり、戦争がも少し続いたら大問題になつたろうと思われるものであつた。それは死を前提とする精巧無比な人間魚雷だつたからである。

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