七 世界無類の日本の魚雷
人間魚雷「回天」の母体
終戦直後、わが外務と海陸軍代表がマニラに招致されて、進駐に関する打合せ会が開かれた。サザーランド参謀が開口一番に質したのは、「回天は未だ海上に残つているか」ということであつた。「回天」を積んだ潜水艦七隻が残つている旨を答えると、「それは大変、即刻降服を電達せよ」と促がした。
わが海軍代表は、六月以降「回天」が俄かに戦果を挙げていることは知つていたが、米軍にそれほどの脅威を与えていたかと、改めて認識して吃驚した。「回天」と、それを積んだ潜水艦は、例の原爆を搭載した重巡インディアナポリス号を初め、艦船二十七隻を短期間に続々と撃沈したのであるが、時あたかも、日本の大都市はB29の爆撃に遭つていた最中であり、市民は最早や「戦果」なぞに関心を持たない窮状にあつたので、殆ど注意も払わずにそのまま忘れ去つたのであつた。
昭和二十年五月六日午後八時の大本営臨時ニュースは、久しぶりで軍艦マーチを奏し戦果を発表した。要約すると「最近一カ月以内に、折田少佐、菅昌少佐の率ゆる潜水艦二隻は太平洋上に於て、敵の軽巡一、駆逐二、大型輸送船五を撃沈し、他の三隻を大破せり」というのだ。興味ある回顧は、之が「大本営発表の正直なニュース」の一つであつたことだ――真珠湾、マレー沖等の第一期海戦時と同様に。他は誇張の報道を三年間続け、初めと終りだけに「正直」を告げたその正しい報道であつた。そうして「回天」の戦績は、それから鰻上りに上つていつたのである。
「回天」を語ることは同時に「酸素魚雷」を語ることであり、それ故に記述の価値を一層高めるのである。何故なら、この「九三式魚雷」は戦後アメリカ海軍が「これだけは遥かに日本に及ばなかつた」と嘆賞した折紙附の優秀品であつて、「回天」もこの基がなければ生れなかつたのだ。要するに後者はその精神に於て尊く、前者はその創成と技術とに於て天下の最高に位したものである。
日本海軍が世界に誇つた多くのものが跡もなく消え去つた。或は自称の部分もあつたろうが、多くは量産の不足のために補充力を失つて潰えた。ひとり残つたのが九三式魚雷である。それは「高圧酸素を動力とする特殊の魚雷で、五十ノットの速力で二万二千メートル、三十六ノットなら四万メートルという大射程を有する驚異的の武器」なのである。
念のためにその性能を米英二大海軍国の代表的魚雷に比較してみると、
国名 直径(センチ) 速力(ノット) 射程(メートル) 爆薬(キロ)
日本 六一 三六 四〇、〇〇〇 五〇〇
米国 五三 三二 八、〇〇〇 三〇〇
英国 五三 三〇 一〇、〇〇〇 三二〇
の大差があり、正に二倍の威力を誇るものであつた。この嘘のような、比較を超越した優勢の根源は、酸素を動力とする点にあり、しかもそれ故に航跡が見えないという大利益をも伴つたのである(他の動力の魚雷は排気の水泡が海面に現われる)。
酸素動力の最初の着想は、フランス海軍であつたが、爆発の危険が多くて放棄され、次いでイギリス海軍が製作したが爆発頻出して同様に放棄された。それを日本が研究し、二、三の事故もあつたが、朝熊利英中将、岸本鹿子治少将等の不退転の研鑽が奏効し、遂に絶対安全の高圧酸素魚雷を発明し、九三式と名附け(皇紀二五九三年)これによつて対米主力艦決戦の勝算を信じ得るに至つた。朝熊、岸本の両氏が天皇陛下から特別の賞を授けられた(旭日中綬章と動二等瑞宝章)のは当然であつた。
思うに魚雷が、主砲も届かないほどの遠距離に達することは、艦隊決戦の上に革命的の威力を導入するもので、或は大砲を減じて魚雷発射管を増す方が有効だとの説も起り、現にわが巡洋艦の中には、武装の大部分を九三式魚雷に転換したものも現われたほどであり、また巡洋艦、駆逐艦には巨大な酸素製造機を備え附けてあつた。
もしも潜水艦による「漸減作戦」が有効であつたとしたら勿論、仮りにそれが無効に終る場合にさえ(事実は潜水艦の反覆攻撃は用兵の錯誤であることが後に判明した)、この九三式魚雷があれば、アメリカ艦隊を一〇対六の劣勢比率に於ても撃退し得たかも知れなかつた。それほどの威力は、戦後に於ても客観的に認証されたのである。
しかるに不幸にも、主戦兵器は一挙にして飛行機に変つてしまつた。飛行機が眼を持つ砲弾となり、目のある魚雷となり、従つて艦隊の決戦距離は、魚雷の射程二〇マイルから忽ち二〇〇マイル以上となり、それと併行して、いわゆる艦隊決戦(戦前の)なるものは完全に姿を消してしまつた。かくて折角の高性能魚雷は、宝の持ち腐れと化せざるを得なかつた。
八 人間魚雷「回天」の出撃
潜水艦使用法の問題
さしも日本海軍のホープとして輝いた九三式魚雷も、あわれ今は屍の如く、各鎮守府の兵器庫に累々と積まれてあつた。ここに、それを眺めて何事かを語らう二人の若い士官があつた。ソロモン消耗戦の敗勢に血を燃やしていた黒木中尉と仁科少尉であつた。二人の結論は、この利器を改装して、一人乗りの「人間魚雷」を造り、百発百中の戦果を挙げようというのである。それは真球湾の特殊潜航艇なぞとは比較にならない命中率と破壊力とを有するものであつた。
十九年初夏には試作も完了したが、十死零生の兵器はもとより許されなかつた。ところが十月下旬、神風特攻隊が志願許可されるに及んで、「人間魚雷」も亦同じ取扱いを受けるようになつた。前者は颯爽と飛び立つて散る。後者は初めから潜つて没する。華麗と地味と雲泥の文字通りだ。しかも、吾れ何んぞ後れんやとばかり、「人間魚雷」の志願者は続々と集まつた。
未だ自暴自棄の時代ではなかつた。「死」を全然恐れない時代でもなかつた。軍人社会と雖も、それは一つの恐ろしい現象であつた。志願が叶つて「有難う」と礼を言つて死に勇んだ時代は、今日では夢にも通わないけれども、初め「救国兵器」と通称し、次いで「〇六」と呼ばれ、後に「回天」と名附けられた頃には、「人間魚雷」の志願者は跡を断たなかつた。
徳山湾大津島の沖では、潜航訓練中の「回天」を、魚雷艇が白波を蹴つて追う白線の数條が連日眺められた。十九年十一月二十日、第一号が出撃して以来、沖縄戦を終えるまでに、訓練殉職七名、玉砕四十八名を算し、しかも確たる戦果を知らずに終つた。
何という悲しい犠牲であり、また痛ましい見込み違いであつたろう。が、原因は「回天」そのものに存するのではなくて、その使用法の過失にあつたのだ。連合艦隊司令部の潜水艦用兵が、専ら基地突入を中心とする局所作戦に限定され、広く洋上交通線を撃つ本来の効用を無視した所に基因するのだ。孫子の兵法に、「謀を攻め、交を攻め、人を攻め、城を攻む。城を攻むるは下の下なり」とある。その最劣等の作戦を潜水艦に強いて来たのだ。何時も、港湾内外に警戒厳重に構える艦船を攻めるので、敵の鋭い対潜攻撃法の犠牲となつて、鉄の棺(Iron Coffin)の運命に終るのであつた。
もしその用法が当を得るならば、「回天」は決して若き純情の熱血を無為に流させるような粗末な兵器ではなかつた筈だ。本尊は日本海軍の掛値のない誇りであつた九三式魚雷である。改装された「人間魚雷」の要目は、
一、長さ一四・七メートル、直径一メートル
一、総重量八トン、一人乗り
一、頭部NTT炸薬一・二五トン
一、航続力三〇ノットにて二三キロメートル、一二ノットにて七八キロメートル
一、潜航、浮上、変針、変速自在
一、調定すれば、一定の深度、速力、針路を保つて三〇ノット以上で進撃可能
であるから、正に立派な小型潜水艦である。しかもその襲撃は殆ど敵に見えないのだから、サザーランド参謀長が真ッ先に質問したのは当然だつたのである。
潜水艦は「回天」六基を積んで出撃し、敵の接近を確めて「回天」を用意する。搭乗員は交通筒を通つて「回天」に乗り込み、ハッチを閉めて母艦と絶縁される。潜水艦長は電話で情報を伝えながら敵に近寄り、最善と思われる所で発進する。回天は忽ち自分のエンジンを動かし、二千メートルに一回の割合で潜望鏡(屈伸自由、最高一メートル)を二、三秒間露出して敵の動きを観測しながら進む。大体四、五百メートルの所で突撃針路を決定し、深度四メートル前後で全速突入するのである。一〇〇パーセントまで敵が知らない間に爆発して轟沈という結果だ。第一に見えないこと、第二に炸薬量が一トン五百キロという巨艦致死量であること、第三に精密なる機械を悠々と操つて体当りを行うのだから、作戦運用を誤らない以上は、明らかに洋上の大脅威となるのが必然であつた。神風特攻は飛行機が敵に撃たれながら突入する。回天は小潜水艦が敵に見えずに突入する。効果は雲泥の差だ。問う人がある――何故これをレイテ戦当時から活用しなかつたか――と。その時は未だその積りにはなれなかつたろう。また、潜水母艦の数自体が既に余りに少なかつた理由もあろう。いずれにしても「後の智恵」であり、更にその使用法さえ適切には行かなかつたろう。
九 原爆搭載艦を屠る
回天の偉業は潰えたが――
日本の潜水艦使用法が常道に立直つたのは、遅い哉、昭和二十年四月であつた。その長大なる航続性と隠匿性とを利用し、その脆弱性を掩護する最良の用法は、敵の艦隊攻撃や港潜突入にあるのではなくして、洋上に出動待機して敵の補給線を撃つこと、並びに艦船を奇襲することである。ところが連合艦隊司令部は、専ら前二者のために潜水艦を使役し、後者の常道は殆ど顧みないで戦争の末期を迎えた。「回天」作戦に当つても、「神風」特攻が指向されるのと同一の方向に集中し、折角の決死の若人を徒死させた。そこで潜水艦艦隊(第六艦隊)の水雷参謀鳥巣建之助中佐が職を賭して力説奔走した結果、漸く二隻の潜水艦を洋上に待機させて敵の補給船団を攻撃する作戦を試験することになつた。伊四七、伊三六の二隻が「回天」おのおの六基を搭載して光基地(大津島から移る)を出撃したのは四月二十日と二十三日であつた。
前者は沖縄・ウルシイ(米艦隊基地)を結ぶ線上に、後者は沖縄・サイパンの線上に待機して米軍の補給路を脅威し、所謂「交を攻むる」作戦を実施したのである。果然、伊三六倍は、四月二十七日未明、沖縄に向う三十隻から成る大船団を発見し、七千メートルに接近して「回天」四基を発進した(八木中尉、安部、松田、海老原各兵曹)。約十二分を過ぎて菅昌艦長が潜望鏡を出して注視すると、忽ち物凄い火花と水柱が奔騰し、次ぎ次ぎと四つの大轟音を聞き、その爆発震動が潜水艦を震撼させた。
伊四七潜(折田艦長)は五月一日に同じく大輸送船団を発見して「回天」四基を発進し、その中の三基がリバティー型一万トン輸送船三隻を轟沈し、翌二日、残つた二基を以て敵の駆逐艦一隻を沈め、一隻を大破した(柿崎、前田両中尉、山口、古川、横田、新海の各兵曹)。
この戦績に対しては、大本営も連合艦隊司令部も頭を下げざるを得なかつた。そうして、従来の潜水艦使用法を撤回し、用法を第六艦隊の主張に任せるようになつた。そこで艦隊は可動兵力の全部――といつても悲しいかな九隻――を西太平洋に放つて回天作戦を実施した。その結果、終戦末までの三ヵ月の間に、
油槽船又は輸送船一五隻、巡洋艦二隻、駆逐艦五隻、水上機母艦一隻、艦種不明六隻――合計二十九隻撃沈、他に二隻大破。
という戦果を収めた。「回天」は殆ど百発百中であり、常に奇襲の形に於て一〇〇%の破壊力を示したので米海軍に大なる脅威を与え、前記サザーランド参謀長の警戒発言ともなつたものである。就中、原爆搭載艦重巡インディアナポリス号の撃沈は、日本国民の溜飲を下げる意味に於て一瞥に値するであろう。同艦を屠つたのは伊五八号で潜水艦長は橋本以行中佐、時は七月二十九日午後十一時二十七分、場所はレイテ・グァム線とパラオ・沖縄線の交叉点であつた。水上航行中の見張員が、傾く月の水平線に浮彫りされた艦影を発見し、前進して一、五〇〇メートルまで迫り、六本の魚雷を二秒間隔に発射して巨艦を爆沈させたのであつた。それが、広島と長崎に落した原子爆弾を運んだインディアナポリス号であつたとは、戦後になつて判つたのである。
問題は、その時にインディアナポリス号が「原爆第三号」を積んでいたか何うかである。戦後、陸相スチムソン氏の声明によれば、アメリカは原爆を二個しか所有せず、それを広島と長崎に落したというのだが、トルーマン回顧録では、第三号を新潟に落す計画だつたが、距離が遠いので中止したと言う。スチムソンの二個説は誤りであることが明らかになつた。更に、米海軍筋の情報によれば、第三号を札幌或は新潟に見舞う予定であつたのが、それを積んで行つた巡洋艦が沈められて計画が水泡に帰したのだという。
真偽をこの紙上で断ずるわけには行かないが、インディアナポリス号の撃沈が「非常な重大事」であつたことだけは確かである。何故なら、それを撃沈した潜水艦長橋本中佐は、ワシントンで開かれた秘密査問委員会に証人として喚問され、イ号艦長の警戒ぶりや、攻撃法等について陳述させられた。普通なら重巡一隻の沈没について、その艦長が軍事裁判にかかつたり、査問されることは稀有の例に属するからである。
が、それはいずれにしても「回天」特攻が大きい戦績を残し(八月十日に至つても十隻の船舶を沈めた)、若い殉国の霊を――犠牲九十八名――慰め得たことは事実である。既に潜水艦でこの目的に使えるものが七隻となり(無理をして十隻)、後が続かない状態では所詮「回天」の偉業は成し遂げられなかつた。特攻による戦争の勝利は恐らくは天が与みしないものでもあつたろう。
八月十五日、戦争が終つた。戦争終るの日、我が連合艦隊の最後の戦いを、太平洋上で戦つていたのは、「回天」を武器とする七隻の潜水艦だけであつた。
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