第九章 結論(その一)

    一 連合艦隊、陸に上る
        「楠公湊川に行かず」の疑問

「楠公湊川に行かず」。もし、そうであつたら、日本の大切な歴史は覆えるであろう。
「連合艦隊長官海に行かず」。もし、そうであつたら、日本海軍の輝かしい歴史は覆えるであろう。事実、それは昭和二十年四月七日に覆えつた。少なくとも、美しい海軍の伝統は汚された――というのが、多方面から、筆者に寄せられた、不満の声である。
 日清戦争に於ける黄海の決戦には、伊東長官が旗艦松島に坐乗して戦つたのは勿論、樺山軍令部長までが一汽船西京丸に乗つて戦場に赴き、身を以て全軍を激励叱咤した。日露戦争に於ける三笠艦上の東郷平八郎は余りにも有名である。敵弾漸く旗艦三笠を捕捉したのを見て、加藤参謀長は切に東郷長官の塔内指揮を請うた。すると元帥は静かに笑つて「加藤サン、それだけは聴かないヨ」と、上甲板に毅立して敵艦を睨んでいた。
 加藤(後に元帥、首相)は東郷を知り尽していたから、それだけで後は何も奨めなかつたが、トラファルガル海戦のネルソンは、多分同じような魂を持つて戦つたのだつたろうと、その時に不図思い出し、戦勝が確定したら直ぐに長官室に無理にも戻つて貰う積りだつたと語つた(ネルソンは戦勝確定直後に流弾に斃れたから)。
 序でながらこの話は、大正十二年四月、筆者と二人で長時間対談した時(湯河原に於て)の一節であるが、その時に加藤は「英国は国を救つた提督の名を永く記憶するために、ロンドンにトラファルガル・スクウェーアを造つてある。東京にも東郷広場が欲しい」と語つていたことを想起する。
 東郷長官が陣頭に戦つて大勝した対馬海戦(我国では日本海海戦と称す)は、ロシアをして最終的に戦争を断念させた大決戦であつた。加藤はワシントン軍縮会議で、アメリカの提案による米日海軍比率一〇対六を容認しようとするとき、最後の心構えとして東郷に私電を打つて意見をきいた。直ぐに東郷から返電が来た。簡単明瞭、「ロクワリヤムヲエズ」と。それだけ高所からの見識を持つていた。加藤友三郎は安心して調印した。海軍の専門委員達はそれを知らない。六割に屈した不満を胸一杯に帰国し、直ぐに東郷元帥を訪ねて事情を説明しながら努力の不十分を詫びると、元帥は諭すように答えた。「しかし訓練には比率も制限もないでしよう」と。委員等感銘して戻り、それから海軍の猛訓練が一段の猛を加えることになつた。
 我が「連合艦隊」は、かくの如き勇気と見識とを持つた名将の下に其の名を謳われ、その伝統を親しまれて来た。しかるに太平洋戦争に於ける「連合艦隊」は何うしたか。何人に率いられ、如何に戦い、そうして如何に亡びたか。元帥山本五十六は確かに先輩に応えた。次いで古賀長官も多くそれを恥かしめなかつたであろう。問題はそれから後だ。「連合艦隊」が海上から姿を消して陸上に引きあげて了つてからの消息である。戦争の後半、そもそも「連合艦隊」は実在したのか。それをたずねつつ、読者の疑問に答えることにしよう。
 昭和二十年四月七日、日本の生き残つた軍艦の殆ど全部は、沖縄海戦の「死出の旅路」に上つた。巨艦「大和」を中心に、軽巡矢矧、駆逐艦八隻――冬月、涼月、雪風、磯風、浜風、霞、初霜、朝霜――の総勢十隻であつたこと前章記述の通りだ。
 これは正式には「連合艦隊」ではなくて「第二艦隊」であつた。この他に極く少数の艦艇は散在していたが、水上部隊の主力は「第二艦隊」として瀬戸内海に残り、事実上の連合艦隊の最後の兵力となつていた。而して連合艦隊司令部は、神奈川県日吉の慶大校舎とその地下壕にあり、そこから「第二艦隊」を死の戦場に出撃させたのであつた。
 その作戦の名を「菊水作戦」という。湊川の楠正成に擬するもの。ところが、長官は日吉台の防空壕に安住していたというので質疑がうるさい。そうして最も皮肉な一文に、この文の最初に書いたようなのがあるのだ。即ち、
 「連合艦隊が防空壕の中から菊水作戦を指令したのは不都合である。菊水の旗を代理の艦隊長官伊藤中将に持たせ、本人が陸の上に居るのは可笑しい。これでは、楠正成が湊川に行かずに千早城の地下室にいるのも同然ではないか」
というのである。楠公湊川に行かず、というのは甚だ悪口が過ぎるようであるが、形としてはその通りであつた。沖縄出撃は正に「湊川」である。正成に当る人は艦上にいないで、陸の上にいた。が、そこには何かの理由があつたに違いない。それを解明することは本論の結びとしても必要であろう。

    二 旗艦陣頭主義の是非
        中心は不動たるべき説

 連合艦隊が海上を去つたのは、昭和十九年四月の末であつた。十八年四月、山本長官戦死し、翌十九年に古賀長官が殉死して作戦準備の上に大きい損失を招いた。三人目の豊田長官が戦死でもしたら、海軍の縁起これより惨めなるはない――と参謀達は心配したであろう。
 それよりも、古賀長官の死が作戦に及ぼした影響は甚大であつた。古賀は旗艦「武蔵」に坐乗して全軍を率いていたが、当時(十九年二月~三月)の作戦として、日本の防衛環を収縮し、マリアナ~パラオ~比島の内側線に布陣し、これを「防禦決戦線」と称して着々準備中であり、先ずダバオの指揮所に行き、それからサイパンに移つてこの島に連合艦隊の司令部を確立する予定であつた。ところが、パラオからダバオに飛ぶ途中、墜落事故で殉職したため、防備態勢の整備が一ヵ月遅延し、敵の反攻をそれだけ容易にする結果を生じたこと既述の通りだ。
 ここに於て俄然「旗艦陣頭主義」の可否問題が起つた。今や海戦は様相を一変し、或る一つの海面で勝負が決まるような時代は去つた。戦闘は多方面で生起し、その作戦範囲は直径三千浬以上に及び、その間に重大なる戦闘が、海上ばかりでなく、陸上でも上空で戦われるのであるから、それを一艦隊の旗艦の上から適切に指揮することは不可能といって差支えない。
 例えば米軍の主力艦隊がマーシャル群島方面に現われ、我が連合艦隊が出撃している最中に、敵の大軍がレイテ湾なり、マニラ湾なりに上陸して来た場合、それに対する作戦をマーシャル方面に運動中の旗艦から指揮することは、不可能ではないまでも、甚だしく不適当であるに相違ない。況して艦隊は作戦中には無線封止を必要とするから、それを犯さなければ指揮が出来ないわけだ。
 つまり、全軍の総指揮官は、一艦隊中の一艦に乗つて、移動しながら指揮するのでは不都合が多い。須らく、全局に命令し得る中央の一地点に位置を占め、各方面からの情報を消化し、全局を総攬し、脈絡一貫した統一指揮を執るべきである。況して、連合艦隊の指揮範囲は、昭和十九年から一挙に拡大され、それまでは外戦部隊を指揮していたのが、今度は内戦部隊の全部を包含することとなつて、いよいよ複雑多端を加えるに至つたからである(例えば、各鎮守府も、警備府も、更に陸軍航空部隊の一部までも連合艦隊の指揮下に入つた)。
 既にして海戦の様式が一変し、また指揮の対象と範囲とが拡大され、形容すれば応接に遑がないほどの繁忙を告げることになつたのだから、旗艦が動き廻つていては其の使命が果せない。つまり、軸が動いては機械が廻らない。軸――連合艦隊司令部――は不動の一点に占位し、大所高所から全局を指導するのが本筋だ。情勢の急変に面して依然旧習に囚われていては、坐して敗軍を速めるのみ。
 それらは立派な理由である。が、反対論も強烈であつた。「連合艦隊」が存在する以上は、旗艦はその艦隊の中心であり、司令長官は艦上から全軍を指揮するのでなければ、ひとり士気振興の点からばかりではなく、決戦の采配を振る者がない。皇国興廃の一戦は誰れが責任を以て指揮するのか。
 連合艦隊司令長官は当然第一艦隊を直率し、それを手足の如く使つて戦場の全軍に号令するのでなければならない。刻々に変化して窮りない決戦場の現勢を見ながら、その場で進退を命令するのが司令長官だ。その長官が、千浬、二千浬の遠方で、電話を聞きながら命令するなぞは柳か滑稽に類するではないか。もしも、海上決戦の指揮は参戦艦隊の長官に一任するというなら、連合艦隊は無用の長物である。軍令部だけあれば沢山である。瞬間的に変化する戦勢や、現場の空気と動勢とを見ないで遠隔の地から連合艦隊命令を頻発されては、啻に迷惑であるばかりでなく、損害を招く場合さえ多い。連合艦隊長官は艦隊の中心に居るべし、全軍信頼の核心たる可し――と主張する声が強かつたのである。
 遡ればこの議論は、昭和十二年秋の連合図上演習の後に行われたことがあり、その時は賛否相半ばして簡単に流れてしまつた。日米戦争が本当に起ろうなぞとは夢にも考えなかつた海将連は、それを真剣に議定する気持になれなかつたのが当然であろう。そうして「旗艦陣頭主義の是非如何」という宿題となつて、机の抽斗の奥の方に姿を消した。昭和十九年四月、それに緊急決定の火が附いたのである。

    三 戦場近く指揮を執れ
        「大淀」から「日吉台」へ

 旗艦陣頭主義と、長官陸上主義の論争の中間が、東京湾内の旗艦孤立主義に落着いた。巡洋艦「大淀」の檣上に、長官旗が掲げられて、千葉県木更津の沖に錨を下ろした。十九年四月三十日の朝であつた。
 駆逐艦一隻の護衛もなく、軍艦大淀が連合艦隊の旗艦として碇泊し、その作戦室から全軍を指揮するのであつた。軍艦の中にあり、海に浮んではいたが、それは陸へ上る一つの段階に過ぎなかつた。それまでの旗艦「武蔵」のような完備した作戦室は思いも及ばなかつた。受信発信の力が弱くては遠方を指揮することは出来ない。事実その通りの弱点が現われたので、マリアナ海戦前後には、連合艦隊司令部は東京湾から広島湾に出張し、そこで一応の指揮をとつた。
 もしも豊田長官、草鹿参謀長等が旗艦を「大和」においてサイパン近海の陣頭に立つていたと仮定したら、マリアナ沖皇国存亡の一戦は何んな結果になつたろうか? 読者が興味を以て想像すべき課題であろう。
 それは孰れにせよ、その時から「第一艦隊」の名は消えた。この艦隊は連合艦隊長官が直率する伝統であつたから、長官が東京湾へ引揚げると共に、主人の居ない空家となり、所属の各軍艦は「第二艦隊」に引継がれて実体を消失した。マリアナ戦にも、レイテ戦にも、また菊水作戦にも「第一艦隊」の名前がないのはその理由による。
 巡洋艦「大淀」に居ること五ヵ月、その年の九月中旬、連合艦隊司令部は、反対論を押し切つて日吉台の慶大校舎に移転した。完全に陸に上り、しかも丘の上に居を占めた。その丘の地下壕と広大なる作戦室は、昭和三十年になつてもそのまま残つている。原子爆弾もこの地下城を撃つことは出来ない設備である。
 問題は、かかる地下城から海上の戦闘を指揮することが出来るかという一点である。炬燵の中から郊外の雪合戦を指揮することは出来ない、矢張り主将は雪の上に立たねばならない――というのが、京童の批評であつた。言われるまでもなく、司令長官豊田副武大将は、台湾沖の航空戦を指揮するために台湾に飛んだ。この一戦は(一九・一〇・一二~一五)、アメリカ機動部隊の主力が台湾の我が基地空軍を徹底的に叩くための来襲であり、これを我が連合艦隊の側から見れば、敵の主力を撃滅する絶好の機会であつた。そこで豊田は海軍航空力の全部を投じて前線指揮に当つたが戦果なく、多くの航空兵力を失つて空しく日吉台に帰陣した。
 問題はそれから後に起つた。レイテ決戦に於ける防空壕の指揮がこれである。レイテ決戦は、連合艦隊司令部が策定した「捷号作戦」の中心的演出である。作戦自体の是非巧拙は既に書いた通りだが、とにかくも、当時我が海軍が持つていた全兵力を動員して、マックアーサー軍の上陸をレイテ湾に撃破しようとするものであつたから、作戦目的としては最重要のものであつた。水上部隊は大和、武蔵以下の主力は勿論、小沢機動艦隊も全力参戦、それに西村部隊、志摩艦隊、潜水艦隊の大部分を投入、更に基地空軍は、大西中将の第六軍、福留中将の第五軍、即ち精鋭の全部を動員したのだから、作戦規模としても当時最大のものであつた。
 海上戦闘は三ヵ所で行われ、その間に緊密なる連絡が要求されたばかりでなく、肝腎の基地空軍と潜水艦戦隊の協力が切望された。これらに対して統一ある指揮を下すのは容易なことではない。刻々変化する戦況に応じて各艦隊や部隊の進退を律するのは、願くは将帥の肉眼に映して発令されるのが望ましい。戦場は広くして一望に収め得ないとすれば、刻々に電話をとり、情況に照合して直ちに指令を下すのが常道である。戦闘中の各艦隊が、友軍の行動を全く知らずに、しかも数日前に示された作戦路を盲進するのでは、上手な戦さは出来る筈があるまい。
 現に、栗田艦隊は、小沢機動艦隊が巧みに敵の機動部隊を北方に誘致し――作戦目的通りに――栗田の負担を減じてそのレイテ湾突入を支援していることを全然知らなかつた。十九年十月二十四、五の両日に亙る苦戦悪闘中に、もしも小沢艦隊の情況を知り得たなら、栗田は恐らくもつと適切な作戦を実施していたであろう。小沢の旗艦「瑞鶴」は檣が低くて通信力が乏しく、ハルゼー艦隊との戦闘情報も神奈川日吉台には通ぜず、したがつて、日吉台から栗田艦隊へ通報されることもなかつた。栗田は更に比島の基地空軍からも二日間何の情報も受け取らず、完全なる孤立無援の艦隊として自分の行動を律する外はなかつた。これでは戦さはうまく行く筈がなかつた。

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